第一話『都市の喧騒』とカレーパンの刺激
記録番号:No.α1-001|観察対象:都市構造/情報密度/沈黙の欠如/味覚の暴発
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その地へ足を踏み下ろした瞬間、私は都市そのものに飲み込まれた。
音。
音。
さらに、音。
空気のすべてが“声”を持っていた。
舗道が人を叱り、電光掲示板が命令を吐き、信号機が音楽を奏でる。
風はビニール袋を踊らせながら「何か」を伝え、
屋上の巨大なスクリーンがまばたき一つする間に十二の広告を詰め込んできた。
「○○カードご利用でポイント2倍!」
「ご注意ください、電車がまいります」
「喫煙はご遠慮ください」
「初回無料──変われるのは、今」
人間たちが立てた建築物は、
まるで全員が“口”を持っているようだった。
明らかに、この街は喋りすぎていた。
その一方で──
人間は、何も喋らない。
彼らは誰とも目を合わせず、
手に持った小さな矩形装置(推定:スマートフォン)に話しかけ、
他者をすり抜けるように歩いていく。
喋るべき存在が黙り、
黙るべき物体が喋っている。
この惑星の都市は、根本から矛盾していた。
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交通。構造物。看板。液晶。電子音。
「見て」「聞いて」「買って」「急いで」「止まって」「動いて」
とにかく何かを伝えようとしすぎていた。
私は圧迫されていた。
センサーログは既に処理容量の78%を使用。
わずか数分で、私の観測装置は都市によって破壊されかけていた。
上を見ればビルが喋り、
下を見れば床のタイルに矢印があり、
隣からは耳に装着している音楽機器(推定:イヤホン)から漏れる音楽。
私の視覚は──聴覚は──
すでに意味を失いかけていた。
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そして──それは“音”だけではなかった。
匂い。
照明。
ディスプレイの光量。
舗道のザラつき。
人間の歩幅、速さ、目線の動き。
都市は「全身」で喋っていた。
私は思わず逃げ出した。
観察者としての誇りなど意味をなさず、
ただ“情報の洪水”から身を隠すように、
人々の流れに逆らって細い路地へ──そして広場へと逃げ込んだ。
解析不能。意味解析も破綻寸前。
都市とは「音と喧騒の海」だった。
だが、その海のただ中で──
私は奇妙な“島”を見つけた。
灰色の駅前広場に据え付けられた、鉄と木のベンチ。
三脚並んだその真ん中に、紙袋がぽつんと置かれていた。
そこだけが、沈黙していた。
人間たちは見えていないふりをして通り過ぎていく。
あるいは、本当に“視界に入っていない”のかもしれない。
この星では、余計な情報は自然に遮断されるよう訓練されているらしい。
私はベンチの端に座り、その紙袋に目を落とした。
中には、揚げたパンが一つ。
色は、黄金というより焦げ茶に近い。
表面には粉のような粒がまとわりつき、油が照明を反射している。
触れた瞬間、掌に温度が移った──残存熱あり。
まだ“命”がある。
袋の底に貼られていた紙片には、こう書かれていた。
「お買い上げありがとうございます。(本日中にお召し上がりください)」
私は数秒迷ったが、手を伸ばした。
これは廃棄物ではない。
これは──贈与だ。
対象は無名。対価は不要。意図は不明。
それでも、私はそれを手に取った。
ただ、パンがある。
それだけなのだ。
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包装を解くと、ふわりと漂うスパイスと油の香り。
金属にも似た焦げ色の粒子が、光を弾いた。
私は歯を立てた。
表面が砕ける。
内圧が弾ける。
粘度の高いルーが溢れ、唐突な熱が舌を刺す。
──次の瞬間、世界が変わった。
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まず、「熱」が来た。
表皮の破裂に伴い、内圧が跳ね上がり、口内を焼いた。
だがそれは痛みではなく、刺激。
続いて、スパイスの鋭角な香りが鼻腔を突き抜け、
さらに“旨味”と呼ばれる不可解な情報塊が舌に絡みつく。
私は、聴いた。
いや、違う──喋られたのだ。
味によって。
香りによって。
質感によって。
喋っていないのに。
何も言葉がないのに。
このパンは、明確に──雄弁だった
歯がサクサクと表面を砕き、内側の粘度が咀嚼を受け止める。
“音”が、口の中から生まれていた。
外の都市では喧騒が渦巻いているはずなのに、
今、私の聴覚は自分の咀嚼音だけを拾っていた。
この静寂は──都市では得られなかった。
この会話は──音声によるものではなかった。
この星では、音も光も文字も喋る。
だが──味は沈黙したまま、すべてを伝えていた。
これは、味覚による通信である。
身体が言語を処理している。
意味ではなく、快・不快の皮膚感覚で情報を受け取っている。
私はそれを、「情報」とは呼ばなかった。
だが、確かに何かが伝わってきた。
地球人はこれを日常的に摂取している。
彼らは、言葉よりも、音よりも、
こういった“沈黙の爆発”を介して感情をやりとりしているのかもしれない。
食事とは、情動の圧縮パッケージなのだ。
咀嚼を終え、私はようやく視界を戻した。
都市の喧騒はまだそこにある。
だが、もう私は怯えていなかった。
私はこの世界を「喧しい」としか見ていなかった。
だが今、私は初めて──この世界を咀嚼しているのだ。
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観察報告結論
・都市:情報が密集しすぎており、観察者の精神負荷は極大。
・無言の食物:発話せずとも、身体を通じて意味を伝える媒体。
・咀嚼:情報の暴力に対する、最も原始的で有効な応答手段。
・結語:
「私は、味を観測したのではない。
味に観測されたのだ──都市が黙っていた唯一の瞬間に。」
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付記:
「カレーパン」とは、どうやら“日本”という地域圏における定番食品の一つらしい。
次なる探索対象は、“汁”と“湯気”によって構成された液体食品──
名を「味噌汁」という。
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