表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一話『都市の喧騒』とカレーパンの刺激

記録番号:No.α1-001|観察対象:都市構造/情報密度/沈黙の欠如/味覚の暴発







その地へ足を踏み下ろした瞬間、私は都市そのものに飲み込まれた。


音。

音。

さらに、音。

空気のすべてが“声”を持っていた。


舗道が人を叱り、電光掲示板が命令を吐き、信号機が音楽を奏でる。

風はビニール袋を踊らせながら「何か」を伝え、

屋上の巨大なスクリーンがまばたき一つする間に十二の広告を詰め込んできた。


「○○カードご利用でポイント2倍!」

「ご注意ください、電車がまいります」

「喫煙はご遠慮ください」

「初回無料──変われるのは、今」


人間たちが立てた建築物は、

まるで全員が“口”を持っているようだった。

明らかに、この街は喋りすぎていた。



その一方で──

人間は、何も喋らない。



彼らは誰とも目を合わせず、

手に持った小さな矩形装置(推定:スマートフォン)に話しかけ、

他者をすり抜けるように歩いていく。


喋るべき存在が黙り、

 黙るべき物体が喋っている。


この惑星の都市は、根本から矛盾していた。







交通。構造物。看板。液晶。電子音。

「見て」「聞いて」「買って」「急いで」「止まって」「動いて」

とにかく何かを伝えようとしすぎていた。


私は圧迫されていた。

センサーログは既に処理容量の78%を使用。

わずか数分で、私の観測装置は都市によって破壊されかけていた。




上を見ればビルが喋り、

下を見れば床のタイルに矢印があり、

隣からは耳に装着している音楽機器(推定:イヤホン)から漏れる音楽。



私の視覚は──聴覚は──

すでに意味を失いかけていた。





そして──それは“音”だけではなかった。


匂い。

照明。

ディスプレイの光量。

舗道のザラつき。

人間の歩幅、速さ、目線の動き。



都市は「全身」で喋っていた。




私は思わず逃げ出した。

観察者としての誇りなど意味をなさず、

ただ“情報の洪水”から身を隠すように、

人々の流れに逆らって細い路地へ──そして広場へと逃げ込んだ。


解析不能。意味解析も破綻寸前。

都市とは「音と喧騒の海」だった。


だが、その海のただ中で──

私は奇妙な“島”を見つけた。




灰色の駅前広場に据え付けられた、鉄と木のベンチ。

三脚並んだその真ん中に、紙袋がぽつんと置かれていた。


そこだけが、沈黙していた。


人間たちは見えていないふりをして通り過ぎていく。

あるいは、本当に“視界に入っていない”のかもしれない。

この星では、余計な情報は自然に遮断されるよう訓練されているらしい。


私はベンチの端に座り、その紙袋に目を落とした。


中には、揚げたパンが一つ。


色は、黄金というより焦げ茶に近い。

表面には粉のような粒がまとわりつき、油が照明を反射している。

触れた瞬間、掌に温度が移った──残存熱あり。

まだ“命”がある。


袋の底に貼られていた紙片には、こう書かれていた。



「お買い上げありがとうございます。(本日中にお召し上がりください)」


私は数秒迷ったが、手を伸ばした。


これは廃棄物ではない。

これは──贈与だ。


対象は無名。対価は不要。意図は不明。

それでも、私はそれを手に取った。


ただ、パンがある。

それだけなのだ。



包装を解くと、ふわりと漂うスパイスと油の香り。

金属にも似た焦げ色の粒子が、光を弾いた。



私は歯を立てた。


表面が砕ける。

内圧が弾ける。

粘度の高いルーが溢れ、唐突な熱が舌を刺す。


──次の瞬間、世界が変わった。



まず、「熱」が来た。

表皮の破裂に伴い、内圧が跳ね上がり、口内を焼いた。

だがそれは痛みではなく、刺激。

続いて、スパイスの鋭角な香りが鼻腔を突き抜け、

さらに“旨味”と呼ばれる不可解な情報塊が舌に絡みつく。


私は、聴いた。


いや、違う──喋られたのだ。


味によって。

香りによって。

質感によって。


喋っていないのに。

何も言葉がないのに。

このパンは、明確に──雄弁だった



歯がサクサクと表面を砕き、内側の粘度が咀嚼を受け止める。

“音”が、口の中から生まれていた。

外の都市では喧騒が渦巻いているはずなのに、

今、私の聴覚は自分の咀嚼音だけを拾っていた。


この静寂は──都市では得られなかった。

この会話は──音声によるものではなかった。


この星では、音も光も文字も喋る。

だが──味は沈黙したまま、すべてを伝えていた。


これは、味覚による通信である。

身体が言語を処理している。

意味ではなく、快・不快の皮膚感覚で情報を受け取っている。


私はそれを、「情報」とは呼ばなかった。

だが、確かに何かが伝わってきた。




地球人はこれを日常的に摂取している。

彼らは、言葉よりも、音よりも、

こういった“沈黙の爆発”を介して感情をやりとりしているのかもしれない。


食事とは、情動の圧縮パッケージなのだ。




咀嚼を終え、私はようやく視界を戻した。

都市の喧騒はまだそこにある。

だが、もう私は怯えていなかった。


私はこの世界を「喧しい」としか見ていなかった。

だが今、私は初めて──この世界を咀嚼しているのだ。





---------





観察報告結論

・都市:情報が密集しすぎており、観察者の精神負荷は極大。

・無言の食物:発話せずとも、身体を通じて意味を伝える媒体。

・咀嚼:情報の暴力に対する、最も原始的で有効な応答手段。

・結語:


「私は、味を観測したのではない。

味に観測されたのだ──都市が黙っていた唯一の瞬間に。」



付記:

「カレーパン」とは、どうやら“日本”という地域圏における定番食品の一つらしい。

次なる探索対象は、“汁”と“湯気”によって構成された液体食品──

名を「味噌汁」という。


気に入れば高評価よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ