召喚されたので世界救ったら妹が裏ボスになった
その眼差しは全て呪いとなり。その吐息は全て毒となり。
その身体は、存在は。あらゆる災いをこの世に巻き起こす「世界の敵」に他ならなかった。
「どうして?」
ハタチかそこらの、女と少女のちょうど境くらいの姿をしたその災厄は、世界中へ止まることなく惨禍をもたらしながら、ただただ、己を倒しに来た勇者を、私を、憤怒と憎悪に塗れた視線で睨み付けていた。
「ねぇ、なんで?」
灰色に染まった肌に、真っ赤な瞳。髪色だけは私と同じ黒で、けれどその頭からは魔族の象徴である角が、彼女がいかに危険な生き物かを誇示するように大きく存在を主張していた。
その背後には、見上げるほどに強大な上半身だけの人型の影。先ほどからずっと、こちらを攻撃してくるのと同時に、世界各地へと無差別に呪いや毒を放出し続けている。一刻も早くあの影と、影の持ち主である彼女を倒さなければ、大勢の人が犠牲となる。いや、既にもう、多くの街が、国が、彼女が撒き散らした災厄によって地獄絵図と化していた。
影の大きな腕が鋭くしなり、私を吹き飛ばそうと振るわれる。
この世界へ喚び出されたときに与えられた聖剣でどうにか衝撃をいなしながら、私は仲間からの呼びかけにもろくに応えることもできないまま、ただただ、攻撃をかわしながらその災厄を凝視することしかできなかった。
「なんで、帰ってきてくれなかったの?」
私の知らなかった、十年分。
時を重ね、今となってはもはや人ですらなくなった彼女は、知らない女の顔で、けれどあの日、通学路で別れた少女の面差しを残したまま。
「おねえちゃん」
ひたすらに、一心に。怨嗟の言葉を吐き続けていた。
『君のお姉さんねぇ、実は生きてるよ』
砂糖のように、あらゆる悪意を煮詰めて固めて飴にしたのなら、たぶんこんな色になるだろう。
そんな瞳をした、男の人だった。
『違う世界で救世の勇者様になって、みぃんなに感謝されて愛されて大事にされて、素敵な旦那さんなんかも作っちゃって。君たちのことなんてぜーんぶ忘れて、幸せに暮らしてるよ』
ある日、お姉ちゃんがいなくなった。
いってきますと一緒に家を出て。通学路の別れ道で「じゃあ気を付けてね」と手を振って。それっきり。お姉ちゃんは帰って来なかった。
それから、たくさんたくさん、色んなことがあった。
警察の人が来た。お姉ちゃんは怖い人にどこかへ連れていかれたのかもしれないと、大人たちは怖い顔で難しい話をして、あたしにも何度も何度も最後にお姉ちゃんを見たときのことを聞いてきた。
けれどしばらくすると警察の人は来なくなって。お母さんは毎日泣いて、お父さんは色んなところへお姉ちゃんを探しに行くようになった。
成長するにつれて、あたしはお父さんと同じようにお姉ちゃんを探すようになった。お姉ちゃんを探しやすくなるよう仕事を変えたお父さんを支えるために、高校を出てすぐに、なるべく時間の自由の利く仕事に就いた。
お母さんはある時から、夢の世界に閉じ籠るようになった。まるでそこにお姉ちゃんがいるかのように振る舞って、泣いていたのが嘘のように明るくなった。お母さんの夢の中ではお姉ちゃんは難しい大学を卒業して、将来なりたいと言っていた弁護士になって、立派に働いているらしい。お医者様からその夢を否定してはいけないと言われていたので、あたしもお父さんも、家ではお母さんの見ている夢を壊さないよう慎重に立ち回った。
お姉ちゃんがいなくなって、九年目の夏。お父さんが手紙を残して出て行った。あたしとお母さんに何度も何度も謝る言葉と、涙のあとがあちこちに散らばるその手紙には、絞り出すように、「もう楽になりたい。幸せになりたい」と書かれていた。
怒りと憎しみ。
軽蔑と失望。
許容。諦観。……共感。
あたしはお父さんが出て行ってからも毎月振り込んでくるお金と、家と土地を売って得たお金と、少しずつ貯金していたお金を使って、どうにかお母さんを施設に入れた。
そうして、お姉ちゃんの帰ってくる家は、家族は、完全に壊れて無くなった。
同時に、お姉ちゃんは二度と帰って来ないのだと受け入れたことを示す紙切れは滞りなくお役所で受理されて、その痕跡すらも、お姉ちゃんは世界から完全に消されてしまった。
(それでも)
願っていた。祈っていた。
お姉ちゃんが、どうか生きていますように。どこかで笑ってくれていますように。悲しんだり苦しんだりしていませんように。帰ってきてくれますように。
生きて帰ってきてくれたなら、それさえしてくれたなら。あの震えながら出した、彼女の命を否定する書類だって覆せるのだから。
お父さんが戻ってこなくても。お母さんが壊れたままでも。お姉ちゃんさえ帰ってきてくれたなら。家はもうなくても。たった一人でも、家族を、取り戻せるはずだと願っていた。
幸せになることが許されるはずだと、信じていた。
(お姉ちゃん、お姉ちゃん。どこにいるの。どうして帰ってきてくれないの。どうして、どうして、どうして。どうしてお母さんの心は壊れてしまったの。どうしてお父さんは逃げ出してしまったの。どうしてあたしは幸せになれないの)
それは、お姉ちゃんがいないから。
どんなに祈ったところで、現実は残酷だから。
頭のどこかでは、分かっていた。
きっともう、お姉ちゃんは生きていないと。本当はずっと前から理解していた。
酷いことをされて命を奪われてその体すらも見付けてもらえなくて。生きていてほしいと願いながら、そんな風に諦めてもいた。だからこそ、惨い目に遭っただろう彼女を思えば、忘れるなんて、過去にして幸せになるだなんてできなかった。
だけど幸せになりたいと逃げ出したお父さんの気持ちも分かってしまった。過去の幸せに縋って今を見詰めたくないお母さんの気持ちも分かってしまった。
あたしは、あたしだけが、この先どう生きたらいいのかも分からないまま、ただ独り取り残されて、どこにも行けないままぼんやりと時間をやり過ごしていた。
「それなのに、それなのに!!」
悲しくて苦しくて辛くて恨めしくて憎らしくて。
この世界に生まれ直したときに与えられた力を、ただ感情に任せて爆発させる。
あたしの目を見た人はみんな血を噴き出して、あたしの吐いた息を吸った人はみんな倒れて動かなくなった。ここではない遠い遠い土地まで余すことなく憎悪の種を撒き散らしながら、あたしは。
目の前に立ち塞がる、記憶よりも美しく健やかに成長した姉を睨み据える。
「生きてるのなら! どうして!! どうして帰ってきてくれなかったの!!」
「それはねぇ、あの女は君たち家族のことを『タイセツな思い出』とやらにして、勝手にきれぇな過去にしちゃって、この世界で一人だけ幸せになることを選んだからだよ」
「ちが、違う!! 違うわ、違うの、ルナ、ねぇ、聞いて!」
「聞いちゃだめだよ。ひどいお姉ちゃんだねぇ。君を殺すために、君を懐柔しようとしているんだ」
耳元で囁かれる言葉に、ただでさえぐちゃぐちゃの感情で真っ赤になっていた視界が真っ黒になる。
脳裏に浮かぶのは、この世界に来る前に見せられた、この世界で幸せそうに笑う姉の姿。
どうして。
どうして?
どうして!
あたしたちは不幸だったのに。どうして帰ってきてくれなかったの。どうして笑ってるの。どうしてあたしたちを忘れたの。
「ひどいひどいひどい」「お姉ちゃんはひどい」「お姉ちゃんのせいなのに」「ぜんぶぜんぶお姉ちゃんのせいなのに」「どうして」「なんで」「あたしだって幸せになりたかった」「なんであたしたちを過去にするの」「あたしもお母さんもお父さんもずっとずっとお姉ちゃんを待ってたのに」「ねぇなんで」「どうして」
「かえってきてくれなかったの」
うわあん、と。泣いている声がする。かわいいあの子が泣いている。
私より小さな手で、ごしごしと目蓋を擦って。それでも涙は止まらなくて。
ああ駄目よ、そんな風にしちゃ。目が腫れてしまうわ。
慰めてあげなくちゃ。抱き上げて、ハンカチで涙を拭いて。
大丈夫よ。大丈夫。怖いものなんてなんにもないわ。
お姉ちゃんがいれば大丈夫。あなたのこと、怖いものから守ってあげる。
ルナ、ルナ。かわいいルナ。
たったひとりの、私の妹。
泣かないで。大丈夫。私が絶対守ってみせるから。
だからお願い。笑って見せて。
「――嘘吐き!!!」
強烈な否定と共に打ち出された攻撃魔法を脊髄反射で斬り伏せる。
間髪入れず頭上から降り注いできた雷撃もどうにか全てかわしきり、一旦大きく距離を置いて体勢を立て直す。この世界に来て染み付いてしまった戦いの経験が、私の心を置き去りにして、ただ目の前の「敵」を倒すために体を動かしていた。
「かわいいルナ。ほら、早く世界を滅ぼしちゃおう。だって君たちから大切なお姉ちゃんを奪った世界だよ? お姉ちゃんを奪って、君たち家族をめちゃくちゃにしておいて、のうのうとハッピーエンドを迎えた世界だよ。君のお姉ちゃんがいなきゃとっくに滅んでいた世界だ。そんなもの、壊しちゃおう。だって君たちの小さくてささやかで幸せだった世界はとっくに壊れちゃったんだから」
変わり果てた妹の傍に、靄のような姿で居座る男には見覚えがあった。
私がこの世界に喚ばれた理由。世界の害悪。滅亡の印。「魔王」と崇められていた存在の、その骸から滲み出した黒い血から這い出てきた男。魔王とは比べものにならないほど貧弱な魔力しか感じられなかったその男は、ニタニタと軽薄に、悪辣に、警戒する私たちへと笑いかけた。
『やあやあ勇者御一行様! 魔王討伐おめでとう! これで世界は平和になりました! 君を喚び出した神もさぞかし喜んでいることだろう!』
お前は何だと問い掛けた仲間に、男は掴みどころのない、けれども隠すことのない邪気をはらませた声で歌うように答えてみせる。
『俺は世界に仇なした魔王、魔族、魔獣、魔とくくられ、悪と称された全ての「残りカス」のようなもの。今日まで君たちが打ち倒してきた全ての、そこの魔王すらも含めた「全て」の悪足掻きの結果だよ。魔であり悪であり全てであり、そのどれでもない、個すら持たない本当にただの絞りカス。残留思念の塊と言ってもいい』
じゃあここで殺すわ、と。
そう告げた私に、男は今までで一番見るに堪えない醜悪な笑顔を浮かべた。
『まぁそう焦らずに。感じてるよね? 俺は吹けば飛ぶような儚い存在なんだ。できることなんて限られてる』
だから、最後の最後に、なけなしの力を振り絞って目一杯の嫌がらせだけはさせてもらうね。
大丈夫大丈夫、大したことはできないから。ただ、準備はね、必要だから。今日のところは失礼させてもらうね。
捲し立てるようにそう吐き捨てて、私と仲間が攻撃を仕掛ける前に、男は霧のように消え失せた。
そして。
今そいつは、あのときと同じように、悪意に塗れた顔で。
私の妹の隣で楽しげに笑っていた。
「さあさあ勇者様、何をぐずぐずしているの? まだ君がこの世界に来たばかりの十年前の状況よりはマシだけど、それでもたぁくさんの尊い命がどんどん犠牲になってるよ。もう君は既に一度成し遂げているんだから、今度はずぅっと簡単だろう?」
薄汚い手で妹の、ルナの頬を撫で、あまつ、見せつけるように抱きすくめて男は笑う。
「また世界の敵を倒してめでたしめでたしって幕を引けばいいんだよ。二回目だし、この子も魔王よりはずぅっと戦闘力は低いはずだし。楽勝ってやつ? まぁその分、災いとしての性能はピカイチなんだけどね!」
ルナを避けて男だけを狙った剣撃は、半ば予想していた通りその靄のような体に傷ひとつ付けられず背後の岩を抉っただけだった。
「わざわざ『生まれ直して』手に入れた力なんだよ。お姉ちゃんなんでしょ? 褒めてあげなよ」
「生まれ、直した?」
「その通り。この子はね、君に一目会いたくて、君にどうしても復讐したくて、あちらの世界で自ら命を絶って、こちらで災厄として生まれ直したんだよ」
自ら、命を。
どうして、と。掠れた声で呟けば、男は愉快そうにまた笑う。
「だってねぇ、これっぽっちも幸せじゃなかったんだって。楽しいことなんてあの日以来ひとつもなかったんだって。君を探して、君を悼んで、君を求めて。その道のりで全部壊れて。だから、惜しくも怖くもなんともないって、言ってたよ」
ねぇルナ、と。また馴れ馴れしく、気に入りの人形にするように頬擦りをしながら言葉を重ねる。
「よかったねぇルナ、やっと会えたね。ずぅっと探してた、ずぅっと会いたかったお姉ちゃんだよ。君を忘れて、置いてけぼりにして、知らんぷりで、一人だけ幸せになったお姉ちゃんだよ」
「おねえ、ちゃん?」
「そう、君のだいすきで、だいっきらいな、お姉ちゃんだよ」
それまでぼんやりとしていたルナの、変わってしまった赤い瞳に光が宿る。目が合った。
瞬間。
私は、きっとあの子のあらん限りの力で、遠く遠く吹き飛ばされていた。
それからずっと、詰られている。恨み言を叫ばれ、どうして、どうして、と。こちらの声は届かないまま。あの子は私に、世界に、呪いを吐き続けていた。
あの男は、ぴたりとルナに張り付いて、私の言葉を遮りながらあの子を追い詰める言葉を絶えず吹き込んでいる。
(やめてやめて、もうやめて)
私のかわいいあの子を汚さないで。人殺しなんてさせないで。酷いことをさせないで。取り返しがつかなくなってしまう。その身一つでは贖えないほどの罪を背負ってしまう。
いいえ。
いいえ、もう、分かってる。
もう、間に合わない。取り返しはつかない。失われた命は戻ってこない。あの子はもう、償うことすらおこがましいほどの罪を犯してしまった。
手の中の聖剣が告げている。世界の敵だ、と。剣を通して、私をここに喚んだ神様が、真っ直ぐにあの子を指し示している。
倒せ、潰せ、殺せ、と。
そんな。そんなこと。できるわけがないのに。
「ルナ! お願い、もうやめて!!」
「うるさい!! お姉ちゃんなんか大っ嫌い!!!」
癇癪そのものの叫びは咆哮となり、周辺の木々を薙ぎ倒して私の仲間たちをも傷付ける。
私の、大切な仲間たち。この世界で得た、やっと見付けた、心を休められる場所。
それが、傷付けられている。奪われようとしている。
妹の、……世界の、敵によって。
「私、だって」
気が付けば、いまだ災厄を振り撒く巨大な影の首を狙って、斬りかかっていた。ひゅう、と。男が楽しげに、冷やかすように口笛を吹くのが視界の端に映り込む。
そしてまたルナに何事かを囁きながら、あの子に何らかの強化魔法をかけるのが見えた。がきん、と。おそらく強化のせいだろう、硬くなった影の腕が聖剣を受け止め、そのまま私を地面に叩き付けようとするのをすんでのところで回避する。逆にそのままくるりと体を回転させ腕の上へ降り立つと、また首を目掛けて走り出した。
涙が零れる。
諦めて蓋をして、時折取り出しては眺めるだけにしようと決めた、幸福な記憶が。思い出が。あの、十六歳までの日々が。血に塗れて、汚れていく。
私のことなんてどうか忘れて幸せになってと。祈り願っていた愛しい人たちが、とっくに壊れていたのだと思い知る。
「私だって」「私だって! 帰りたかった!!」「だけど帰れなかった!!」「私にしかできないって言われて!!」「私がやらなくちゃみんな死ぬって言われて!!」「泣いてる時間なんてもらえなかった!!」「戦いたくなんてなかった!!」「痛いのも苦しいのも辛いのも嫌だった!!」「悪いモノだって言われても、人間じゃないって言われても!! 生きてるモノを殺すのなんてずっとずっと嫌だった!!」「それでも、やっと、やっと、全部終わったと思ったのに!」「なんであなたが! 私のやり遂げた全部を台無しにするの!?」「なんで!!!」
「なんで、あなたを、ころさなくちゃいけないの」
剣が叫ぶ。神が命じる。今までと同じように。当たり前の顔をして。
あのこをころせと喚き立てる。
「いやよ、いやよ」「わたしちゃんとあきらめたじゃない」「わたしちゃんとやりとげたじゃない」「どうしてこうなるの」「やだよ」「いもうとなの」「かわいいこなの」「わたし、おねえちゃんなのよ」「あのこの、あのこだけのおねえちゃんなの」
遂に剣を取り落した私に、仲間が、恋した人が、この世の終わりのような顔で駆け寄ってくる。ごめんなさい、ごめんなさい。だって私、殺せない。
あの子を殺すくらいなら、私が、死んだ方が、
「おねえちゃん、泣いてるの?」
知らぬ間に、まるで首を差し出すように伏せていた顔を上げれば、あの日、十年前に別れたときと同じような、成長した体に似合わない、幼い幼い表情を浮かべた妹が目の前に立っていた。
「おねえちゃんも悲しかった?」
「……悲しかったわ」
「あたしたちに会いたかった?」
「ずっと、ずっと、会いたかったわ」
「じゃあなんで、あたしたちを忘れたの?」
「だって、恋しくて帰りたくて気が狂いそうだったの」
「だからあたしたちなんか忘れて、幸せになったの?」
「……ごめんね、ごめん、ごめんなさい。苦しかったの。辛かったの。耐えられなかったの。だから、幸せに、逃げてしまったの」
そっかぁ、と。
やはりどこまでも幼げな、温かな声で。ルナは小さく、悲しそうに、けれども愛おしむように、仕方ないとでも言うように笑った。
「いいよ。もういいよ。忘れていいよ。幸せになって、いいよ」
お姉ちゃんが生きててよかった。幸せなら、ほんとうに、よかった。
そう、吐息のように囁いて。
ゆぅらりと、そのまま後ろへ倒れていった。
その体には、至るところに致命傷と分かる傷が付けられていて。それは全て、いつの間にか姿を消していた、彼女の背後にあった、私が彼女本体を避けて攻撃し続けた巨大な影に攻撃した場所と、完全に一致していた。
「あ、」
「はーい、そこまで」
叫び出そうとした悲鳴は遮られ、受け止めようと伸ばした腕は届かなかった。
あっという間に私の妹を抱えて遠ざかった、この、全ての悪意の元凶たる男は、最初からずっと変わらないあの忌々しい笑みを浮かべたまま、木の上からこちらを見下ろしていた。
「あーあ、可哀想なルナ。死んじゃってまでお姉ちゃんに会いに来たのに、そのお姉ちゃんにまた殺されちゃった」
「かえせ」
「勇者様なんだから、ちょっと考えれば分かるだろうに。この子は弱いよって最初にちゃあんと教えてあげたのにね。この子を避けて影に攻撃する分にはこの子本体は傷付かないと思った? とりあえず災厄を振り撒く影を潰せばあとはどうとでもなると思った? 俺が、そんな生温いことすると思った?」
「さわるな」
「影への攻撃もぜーんぶちゃんと余すことなくこの子に通るようになってたよ。可哀想に、よってたかってさぁ。俺の強化魔法も追い付かないくらいズタズタにしてくれちゃって。これはもうどんな回復魔法でも間に合わないなぁ」
「だまれ」
落としていた剣を拾い、男へ向ける。男はやはり笑ったまま、見せつけるように薄汚い手でルナの髪をさも愛おしげに撫でてみせる。
「返せ。触るな。ぶち殺すぞ」
「おおこわ。返せもなにも、この子を連れてきたのは俺だからね。それにルナは物じゃないよ。それをよくもまぁ、所有物みたいにさぁ。これだから勇者様は傲慢でいけないねぇ。ねぇ、ルナ」
男がルナを抱え、腹立たしいほどに密着しているために手を出しあぐねていると、彼はすぅっと、ただでさえ靄のようだったその姿をどんどん空気に滲ませるように消し始める。――ルナごと。
「待て、待ちなさい、ルナを、ルナを置いていきなさい!!」
「やーだよ。じゃあ、君のかわいい子、もらっていくね! だって世界の方を選んだんだもんね、要らないんだもんね、じゃあ俺がもらうね! 安心しなよ、ちょっと世界の裏側で、またこの世界の魔と悪が満ちるまで一緒に眠るだけさ。そのころには君は寿命で死んじゃってるかもだけど、安心してよ。ちゃあんと俺が、この子の魂が朽ち果てるまで一緒にいて見届けてあげるから!」
災厄になっちゃったから、この子の魂はもうどこにも受け入れてもらえないんだよ。天国にも地獄にも行けないし、もちろん生まれ変われもしないし、魂だけでも元の世界に帰ることもできない。かわいそうにねぇ! 君のことずっと心配してずっと待ってたのに、不幸でも耐えてたのに、君はこの子のことを忘れて幸せになってたんだもんね! そのうえまた、この子と自分を不幸にしたはずの世界を選んでこの子を殺すんだもんね! ひどいお姉ちゃんだねぇ!
げらげら、げらげらと。
腹の底から楽しそうに笑い転げながら、もう周囲の景色と見分けがつかなくなりそうなほど姿の薄れた男へ一足飛びに距離を詰めて掴みかかる。けれどその手は、虚しく空を切るだけだった。
ここにいるのに。目の前にいるのに!
もうこの子に、触れることすらできない!!
「ルナ、ルナ!! 起きて!! 目を開けて!! この男から今すぐに離れて!!」
触れることのできない妹の輪郭をどうにかなぞろうと腕を無茶苦茶に動かしたまま叫べば、祈りが通じたのか、それまでじっと目を閉じて気を失っていたはずのルナの睫毛が、ふるりと震えたのが辛うじて見えた。
そう、そのまま、そのまま目を覚まして。その男を振り解いてこちらへ来て。そうしたら、何をしてでも、どんなことをしてでもあなたを助けてみせるから。
「……あくまさん? どこいくの?」
「ちょっと遠いところだよ。だぁいじょうぶ。救いようのないほど愚かで罪深い君が、擦り切れてボロクズみたいになるまでずぅっと見物していてあげるから」
悪魔。この男のことを妹はそう呼んでいたのかと初めて知る。なるほど確かに言われてみれば、こいつは悪魔そのものだった。
この子の味方のような顔をして、そのくせ本当は歯牙にもかけていない。利用するだけ利用して、遊ぶだけ遊んで、嬲るだけ嬲って。壊れたら捨てる気なのだ。
本当に、ただただ、私を甚振るために。この子の命を、魂を、とことん踏み躙るつもりなのだ。
「ルナ! こっちへきて!」
いよいよ掻き消えそうな妹をどうにか男から、悪魔から引き剥がそうと闇雲に手を動かし、使えそうな魔法を片端から使ってみても、何の効果も得られない。
消えていく。奪われていく。私の、妹が。あの世界に残してきたはずの、大切な宝物が。
「………あくまさん、ぜんぶ、にくいの? きらいなの? こわしたいの?」
私の声ももう届いていないのか、妹はどこか舌足らずな声で、己を貶めた悪魔へと語り掛ける。
「ぜんぶはわかんないけど、わかるよ」
「……は、大した思い上がりだね。姉妹そっくりだ」
もう、輪郭すらも見えない。ただ、二人の声だけが耳にわずかにこだまする。
「いいよ、お姉ちゃんに会えたから、もういいよ」
(幸せになっていいよ)
ついさっき、私に向けたのと同じ声音で。ルナは全てを受け入れた。
待って、待って。違うでしょう。それは、違うでしょう。その声は、許しは。私にだけ、くれたもののはずでしょう?
「この世界の人にも、ひどくて、とりかえしのつかないこと、いっぱいしちゃったし」
やわらかで、いとけなくて。
何もかもを受け入れて、諦めて、許すような。そんな優しい、声だった。
愛する者に語りかけるためのはずの、声だった。
「わたしのこと、すきにしていいよ」
その声に、言葉に。私が息を飲んだその隙に。
「………言われなくたってそうするさ」
どこか負け惜しみのような色帯びた悪魔の呟きを最後に。
二人は世界から、完全に掻き消えた。
(神様。神さま)
私、一度は許したわ。私から何もかもを奪ったこの世界を。あなたを。私が戦いに慣れて、血に塗れるほどに喝采を上げる人々を。一度はちゃんと、許したわ。ぜんぶぜんぶ、諦めたわ。
許して、諦めて、救えるものは必死に救いあげて。私から全部を奪った世界の一部のくせに、親しげに笑う「仲間」も受け入れて。その一人と、恋すら、してみせたわ。
ねぇだけどかみさま。
私、二度も許さないとダメかしら。諦めないと、ダメかしら。
奪うだけ奪っていく、何も返してはくれない神様。
(私もう、あなたを許せそうにないわ)
あの悪魔のようになる気はないの。
世界や人々に、酷いことをする気はないの。みんなに笑顔でいてほしい。平和に暮らしていてほしい。その思いは変わらない。
ただ。
ただ、あの子まで巻き込んでしまったのは、ぜんぶぜんぶ、私を選んだあなたのせいでしょう?
だからねぇ、首を洗って待っていて。
私必ず、あなたのところまで至ってみせるから。
あなたのお膳立てがあったとはいえ。十六の小娘が、たった十年で世界を救う勇者にだってなれたんだもの。この命を使い果たすまでには、きっと。
神殺しにだって、なってみせるわ。