08. 白銀色
子どもの頃の、夢を見る。
わたしがなりたい自分を決めたのは、たしか――、
白銀の髪が、視界の端でちらちらと揺れる。見慣れた自分の髪の色だ。
気が付くと、わたしは夜道を歩いていた。
歩く足取りはふわふわと浮遊していて、目に見える景色はどうにも地面が近い。
なので、これは子どもの頃の自分が見ている光景だとわかる。
そこに気が付くと、連鎖的に、これは眠っているときの夢の世界だと自覚する。
この夜道には見覚えがある。ペリエの、ラングレン養護院を出て、南区のずっと端まで歩いていく途中だ。子どものわたしはどうやら夜が怖いようで、身体が震えていた。
どんどん、この夜のことを思い出していく。たしか、エクスとは出会う前だったかな。10歳にもなってない。
夜道を子どもが一人で歩くのはよくない。そんな常識は、小さい頃のわたしだってわかっているはずだ。
どうしてこんな無茶をしたんだっけ。ああ、たしか……、
友達が、町はずれの墓地には、お父さんとお母さんがいる……なんて話をしたからだ。
子どもというのは、聞き分けがいいように見える子でも、突拍子もない行動をしてしまうもので。わたしはこの夜、顔も覚えていない実の両親の名前を探しに、墓地に向かっていたのだ。なんなら、何故か本人たちに会えるとすら思っていたフシがある。
わたしが進むにつれ、街の灯りがだんだんと減っていく。
きっとこの夜、大人たちは必死でわたしを探して、街中を走り回っていたんだろうな。いやはや申し訳ない……。
ペリエは優しい街だ。他の都市なら、この時間に幼い子どもが町はずれをうろつけば、無事で帰れるとは限らない。人さらいの悪人だとか、結界を抜けてきた魔物とか、いろんな危険がある。
でも、ペリエではそういった出来事は驚くほど少ない。よそとは比べ物にならない平穏がある……というのは有名な話だ。
まあ、そんな話は、子どもの頃のわたしにはわからない。
わたしは墓地へと続く、見通しの悪い林道までやってきていた。
風が木々を揺らす様子や音は、とっても怖い。最初はなんでもないと自分に言い聞かせていたのだろうけど、わたしは耐えられなくなったようで、なんと泣きながら林の中に隠れ、座り込んでしまった。せめて走って家に帰りなさいと言いたい。
とはいえ、この怖さはよく覚えている。このまま二度と家に帰れない、もうみんなに会えない、なんて思っていた。つまりは子どもにとっての最上級の絶望。
だから、助けに来てくれた男の子のことを、かっこいい騎士様だとでも錯覚したのだ。
「プラチナ。なにやってるんだ、こんなところで」
「カムリ……?」
うずくまるわたしに声をかけたのは、生意気でバカで少し意地悪で、仲のいい男の子。カムリだった。
このとき、さすがにわたしの中で、カムリの好感度が爆上がりした。女子の恐怖心につけこむ許されざる男である。許されぬ。
おっと、場面が進んでいる。
一通り、すがりついたり、涙を隠そうとしたりしたあと、わたしはカムリに聞いた。
「どうやって見つけてくれたの?」
わたしは魔物やらなにやらに見つかるのが怖くて、茂みに隠れていた。髪色は目立つだろうけど、この深い夜じゃ見つけるのは難しかったはずだ。
カムリは答える。
「おれの目、どんなに暗くても見えるんだ。プラチナの髪なんか、どこにいてもわかるよ。きらきら光ってるから」
そのときのカムリの瞳は、不思議な色をしていた。いつもは髪と同じブラウンの色なのに、暗い闇の中にいると、ぼうっと光る淡いブルーに変わっているように見えた。お月様のような色、とでも言えるだろうか。
さて、素敵な王子様が……いや王子様とは認めないが……助けに来てくれたのだから、この話は終わり。……とはいかない。
わたしはカムリに、一緒に墓地まで行ってくれるように頼み込んだ。怖さや寒さから、彼の手をぎゅっと握りしめたりしていた。よくないなぁ。
結果、このまま夜の散歩を続行することに。すぐに一緒に帰ろうと言えなかったあたり、カムリもこのときは子どもだったということか。
墓地にたどり着いた。わたしはカムリと、自分の父母の墓を探そうとしていた。けれど両親の名も、家名すらわからないので、見つかるはずもない。
夜が深くなっていく中、不安な気持ちで墓地をきょろきょろ、うろうろと。たぶん自分でも、もう何をやっているのか、わからなくなっていた。
それと、当時は気が付かなかったが、カムリはこのとき、お墓を探そうとしているというよりは、わたしをじっと見守っているようだった。
時間が経っていく。
このペリエという平和な街なら、ここであきらめて養護院に帰った、なんていう、少し寂しくて苦い思い出になるはず……、
だったんだけど。
このときわたしたちは、死霊に襲われた。
誰かの遺体を無理やり動かしている、弱っちいタイプのやつだ。今相手にすれば一発で昇天させる自信がある。けれど10歳にもなってない子どもがこれに襲われたら、それはもう、この世の終わりみたいな衝撃と恐怖だ。
悲鳴をひとつあげて震えるわたしを、カムリが庇う。まだ子どもなのに度胸はすごい。でも、剣なんて握ったことがないときのカムリだ。わたしたちは絶体絶命だった。
ぎゅっと目をつぶってしばらくすると、誰かの足音と気配がして、わたしは目を開けた。
騎士の甲冑を着たツェグが、剣を振り抜いていた。死霊はもう消えていた。ツェグが倒したのだ。
わたしは安心しすぎて、泣きそうになった。わたしがぎゅっとその服を掴んでいたカムリは、へなへなと崩れ落ちた。彼も怖かったのだ。本当は泣きだしたかったに違いない。
でも……先に泣いたのは、助けに来てくれたツェグのほうだった。
「どうしてこんなところまで来た! 夜は危険だ、出歩くなと言っただろう!!」
ツェグの怒声を聞いたのは初めてだった。涙を見たのも。
彼はきれいな剣を地面に突き立て、空いた両腕で、わたしたちをまとめて抱きしめた。
「いや……わかってるんだ。わかってる……」
ツェグは耳元でぼそぼそとつぶやいていた。多分、どうしてわたしとカムリがこんなところにいるのか、という話についてだ。
「プラチナ、カムリ。お前たちは俺の……家族だ。勝手にいなくならないでくれ。心配するだろう」
ツェグがいつものように落ち着いてきて、その温かさを感じて。わたしはようやくそこで、子どもらしく泣きじゃくったのだった。
…………。
今にして思えば。少し、おかしな出来事だった。それこそ夢の中の幻に思える。
ツェグの様子が、ということではない。
ペリエの内側で死霊が出るなんて、まずありえない。
星法士として都市の結界に関わるようになったから、そう断言してしまえる。星天教会が力を持っているこの街は、特に死霊や不死属を忌避し、それらに対して強い結界を敷いている。墓地なんてとくに気を配っている場所だ。それは、わたしが子どものときからそうだったはず。
このときのツェグが騎士甲冑、つまり任務中の武装姿をしていたのも、わたしのこととは別に、当時のペリエで何か小さな事件が起こっていたんじゃないか……なんて。
こんな夢を見るってことは、わたしはこの件をずっと疑問に思っていたのだろう。けれど、大人たちにはついぞ聞きそびれてしまっていた。
ありゃ、時間を止めてしまった。先に進めよう。
養護院に戻ってきたわたしとカムリは、ツェグや院長先生たちに当然の説教を食らい、いつもの消灯時間に大幅に遅れて、寝室に送られた。
でも、わたしは自分が眠れないだろうとわかっていた。手足は冷たくて、頭の中にはおそろしい死霊が焼き付いて、まぶたを閉じるのが怖かった。
「カムリ、いっしょにいて……。夜は、こわいの……」
うーーーわっ、恥ずかし。ほんとにこんなこと言ったかな? うそでしょ。
わたしはカムリの手を握って引き止め、そのまま院長先生のところに行って、眠くなるまでご本を読んでもいいかと聞いた。
先生は優しく了承してくれた。いつもは、夜更かしには厳しい人だ。
小さな灯りの下で、本を開く。カムリと顔を寄せ合い、ページを覗き込む。
これはわたしが一番好きな物語の本だ。『シセルと魔法の騎士』という。
魔法使いの少女シセルが、魔法で生み出した鎧の騎士と一緒に困難に立ち向かう、という話。最後にふたりは結ばれ、いつまでも幸せに暮らしたとさ……というオチ。
わたしは、シセルの銀色の髪が自分のものと似ていて、たぶんそこが気に入っていた。あと、守られるだけじゃなくて、自分から騎士と共に戦っていく、勇敢さとか。
まあ、勇気と愛の物語だ。
それを一緒に、小さな声を出して読んでいった。カムリには鎧騎士のセリフを言わせた。つまらなさそうな棒読みがおかしくて、怖い出来事を少し忘れられた。
そのあとは、くだらないお話をした。街のほうで友達ができたとか、果物屋さんでおまけをもらったとか。
将来は、どんな自分になりたいか、とか。
「おれは、ツェグみたいな騎士になるよ」
「えっ?」
それは初めて聞いたことで、わたしは結構おどろいたと思う。ツェグや騎士に憧れている男の子は多い(ペリエ市なりたい職業ナンバーワンと思われる)けど。
子どものときのカムリは、のほほんとしていて、剣の練習とか、荒事とか、そういうのが嫌いそうだったから。
「なんで?」
「んー。かっこいいから」
本当かな。子どもの頃のわたしは、あっさり信じたみたいだけど。
もっと詳細を考えると、実際にツェグに危ないところを助けられて、その姿と実力に憧れて、騎士になりたいと思った……ってところじゃないかな。
「ねえ、ねえ。じゃあ、カムリが騎士になるんだったら、わたしはね」
子どもは人の話をあまり聞かない。すぐに自分のことを言いたがる。
「シセルみたいになりたいんだ。シセルみたいな、魔法使い!」
……ああ。
ここで決めたのか。自分のなりたいもの。
「へー。なんで?」
「ふふー。かっこいいから」
たしかにそれもあるが、本当は。
カムリと、一緒に戦いたかったからだ。背中に守られるんじゃなくて、一緒に肩を並べたり、背中を合わせたり、助け合う。あんな死霊なんて、ちょっと怖かったとしても、二人がかりでぶちかます。
シセルになりたいっていうのは、それができる勇気ある女の子になりたい、っていう意味だ。
だからわたしは、騎士と並び立って戦う、星法士を目指したんだ。
本を閉じる。
夢の中のわたしは、うとうとしている。怖い気持ちはなんとか振り払って、頭の中はカムリや、シセルと騎士のこと、ツェグやみんなのことでいっぱい。つまりは幸せな想い。
たぶん、ベッドに着く前に眠っちゃうんだ。
夢の世界が暗くなっていく。夢の中で眠ったのなら、現実で目が覚めるんだろうか。
なら。
まだ、夢を見ていたかったな。
「――あ。あ、うぁ……」
意識が飛んでいたようだ。
さっきまでの、優しく、意外と色鮮やかな記憶の景色と違って、ここは本当の真っ暗で何も見えない。何が起きているのかを忘れてしまう。
でも、身体の痛みが、こっちを現実だと教えてくれる。
柔らかいベッドはない。岩壁に背中を預け、間抜けにも深く眠っていたみたいだ。
最後にもう一度だけ、おはようと起きられたことを、星神様に感謝しよう。
……いや。ほんとうは神様なんかどうだっていい。自分のタフさを誇ろう。
子どもの頃の、夢を見た。
わたしは、いつも服の内側にしまっている、大事なものを思い出した。
▽
「私は右へ行く」
星騎士エクスを欠き、地下迷宮の攻略によりいっそう奮起する三人は、二又の分かれ道にぶつかった。
カムリやプラチナが発言をする前に、ツェグがこの迷宮行への方針につながる選択を述べた。私は、右へ行く。
つまりは、それ以外の者は左へ行け、ということ。
この提言に、エクスを置き去りにしたばかりの二人は、当然に反発する。しかしツェグは、反論に対して首を振ることはなかった。
右の道へ歩みだそうとするツェグに、カムリは思わず声を上げた。
「あんたまで一人になって、大丈夫なのか」
これは、エクスを一人にしたことへの不安が現れた言葉だった。
平時であれば、ツェグの実力を、カムリは何よりも信頼している。だが、取り返しのつかない何かが起ころうとしているような、そんな気がしてならなかった。
ツェグへ一歩、一歩と近づこうとするカムリの腕を、プラチナがつかんだ。
「え、と。お互いズンズン進んでいって、もし行き止まりに当たったら、合流を目指して引き返す……ってことでいいんだよね?」
「ああ」
「カムリ、行こう。早く終わらせて、エクスのところに戻ろう」
「……わかった」
カムリは兜の内側で、眉尻を下げた。不安におびえる子どものような表情で、ツェグの背中を見送った。
カムリとプラチナ。二人は左の道を行く。
しばらく、迷宮攻略のセオリー通りに道のりを埋めていくと、やや広い空間に出た。
緒戦の魔物の大群がいた部屋や、エクスと別れた空洞ほどの大きさではない。しかしいかにも、何かがありそうな部屋だ。
二人は警戒を強め、向こう側の通路に向かって進む。不意の罠や魔物の襲撃に備え、注意を払いながら、ゆっくりと。
だが。この部屋に仕掛けられた罠に対しては、素早く駆け抜けてしまうべきだった。
「……!? これは……」
部屋の中央を過ぎたあたりで、異変に気が付く。
両名とも、足を止めた。いや、足が動かなくなったのだ。身体を縛り付けられたかのように、深い眠りから意識だけが目覚めたときのように、身体が動かない。
麻痺毒の罠。それがこの部屋に、ガス状になって充満していた。
「プラチナ、平気か」
「ごめん、ちょっと、解毒に時間かかりそう……」
カムリは訓練、プラチナは星法によって常人離れした耐毒性を獲得しているが、そのふたりの動きを止めるほどのものだ。
しかしカムリはあえて深く呼吸し、精神を落ち着ける。「大丈夫だ、これくらいなら」。そう思考する。
驚くべきことに、事実としてカムリの四肢は動きだし、緩慢な速度だが、プラチナを抱え上げようと彼女に近づいた。
▽
暗い暗い迷宮の中。
人知れず、ひとりの騎士が、一枚の紙札を手にしていた。
それは呪符。魔術師の道具だ。星天教会の騎士が持つことは許されていない。
騎士は、呪符に、小さな火をつけた。火は燃え広がり、呪符を黒々と染めていく。
▽
「あ……?」
カムリは、呆けた表情で、籠手を装備した自身の両手を見つめた。
兜の隙間からこぼれた、赤い血で染まっている。
自分の口から吐き出したものだ。
カムリは静かに倒れ伏した。
「カムリ!?」
プラチナは麻痺への対処を進め、動くようになった身体でカムリに駆け寄る。
兜を外して放り投げる。
晒されたカムリの皮膚には、黒いまだら模様が、カビのように浮かんでいた。
プラチナはそれを、死に至る“毒”であると判断する。自身とカムリの周囲に最も強力な結界を張り、その場で治療を開始した。
「大丈夫……大丈夫だ……っ」
プラチナは自らを鼓舞する。治癒の星法や、人体に入り込んだ毒の中和は、プラチナが最も熱心に学んだ技術だった。人々を、そして未知の敵と戦う騎士たちを守るための、重要項目。
カムリの症状を見て、それに近い原因を記憶から導き出す。プラチナは、自分のこれまでの努力は、今日この日のためにあったのだと確信した。
星法による適当な処置を行っていく。
そして、いくらかの時間が経った。普段であれば、軽い食事を済ませる程度の時間。しかし今は、騎士の命を削り取るのに、十分な時間だった。
(おかしい……!)
難解すぎる。わたしの知るどの方法でも中和することができない。そもそも呼吸や皮膚から入り込んだものじゃない。強力すぎる“呪毒”が、体内から湧き出している。
以上が、プラチナが突き止めた事実だ。
部屋に充満している麻痺の毒とは違う、別のもの。その源自体が、カムリの体内に居座っている。これでは中和しきることはできず、元凶そのものを除去するしかない。
プラチナはカムリの生命活動を維持しつつ、対応策をいくつも思い浮かべ、現状では実行不可能なものを排除していく。
その中に、ひとつだけ実行可能なものがある。
毒の源を今すぐ、患者に負担をかけずに体外に排出させる――、という都合のいい星法はない。だが『別のものに移動させる』という都合のいい星法は、あった。それはこの毒が、魔術による呪いであるからこそ可能な裏技だ。
それは、呪毒をプラチナの身体に移動させる、というもの。
自身の体内であれば、より小さく、小さく、毒の浸食や症状を抑制することができる。プラチナという星法士の五体そのものが、呪いの病を抑え込むひとつの結界になる。
それをペリエに持ち帰り、教会や施療院の星法士たちとともに、時間をかけて解析と解呪を行う。そういった対処が可能だ。
プラチナは息をのんだ。状況を今より良いものにできる見込みがあるが、リスクは大きい。抑え込めるかどうかは自分の実力にかかっている。可能だという目算はあるが、勇気は。
プラチナは首を振った。
カムリの顔を見て、想う。自分がなりたかったものは、なんだったか。
プラチナは、カムリに口づけをした。
接触により経路をつくり、カムリの体内に潜む、悪性の呪いを吸い出していく。
このとき、少女の運命は決まった。
呪いのすべてを移動させ、自身の体内に意識を割く前に、異変は起きた。
カムリから吸い出した呪毒は、プラチナの体内に潜んでいたもうひとつと結びついた。
二種の呪いは混じり合い、より強力無比なものとなり、一瞬でプラチナを蹂躙した。内臓は破壊され、神経は切り刻まれ、星法の守りは砕け散った。
プラチナは、失敗した。
その全身を侵す毒が、侵入者を害する迷宮の罠ではなく。
ただ騎士たちを殺害するためだけに用意されたものだと、知らなかったからだ。
▽
カムリは目を覚ました。
意識を失う前にあった痛みはもうない。しかし、必死に介抱していたプラチナの姿が見えず、急いで身体を起こした。
プラチナは、すぐそこに倒れていた。
全身の毛が逆立つ感覚に襲われ、カムリは、プラチナを抱え起こした。
「そんな……」
少女は、黒い病に侵されていた。
口元に、胸に耳を寄せ、呼吸と心臓の動きを確認する。どちらも正常ではないが、まだ生きていた。
カムリはプラチナを抱き上げ、すぐに来た道を戻ろうとしたが、その距離を思って青ざめた。やむなく、プラチナの身体を部屋の壁際に下ろす。
プラチナに触れ、星導力を振り絞り、他者を活性化させ傷を癒す星法をかける。これは自身を癒すよりもずっと難しく、カムリはこの技術を、十分に修めているとは言い難い。
「……あ。カムリ……?」
ささやくような声がした。
「プラチナ! ……大丈夫だ、すぐによくなる。お前が俺を治してくれたんだろ? さあ、集中して。毒なんて、またやっつけよう」
「……カムリは、平気……?」
「ああ。プラチナのおかげさ」
カムリはプラチナの肩に触れ、手を握り、星導力を送り続けた。
にも関わらず、少女の身体がどんどん冷たくなっていくのを感じた。その現実は、毒などよりも丁寧に、カムリの内側を壊していく。
「ね、カムリ……」
「なんだ?」
「あのさ。ぎゅって、してくれる……?」
「……何言ってる、こんなときに……!」
気丈にふるまおうと努めていたカムリの声に、強い焦りが混じる。
プラチナはその声から、カムリの心を感じ取った。そして、自分の状態も。
「ちゃんと言わないとだめか。カムリ、わたしね」
顔をわずかに上げ、プラチナはカムリを探した。
「カムリのこと、好き。愛してただけじゃなくて、恋もしてた。ずっと、子どもの頃から……」
カムリは、何を、こんなときに、といったことを口にしようとして、それを呑み込んだ。
返答として、自分の心を伝える。
「プラチナ。俺も、俺もだよ。君が好きだ。何よりも大事なんだ」
カムリはプラチナの頬に触れた。
「なあ、もう行こう、プラチナ。家へ帰ろう。こんなところじゃ雰囲気が台無しだろ? なあ……」
少女は微笑む。
だが、何も答えない。
カムリは気が付いた。プラチナの蒼銀の瞳は曇り、何も映しておらず、目の前にいるカムリの姿が見えていない。
まるで死人のようだが、乱れた呼吸だけが、まだ彼女を生者だと証明している。
もし、それすらもなくなってしまったら。
カムリは、何かできることはと、自身の経験や知識を総動員し――、
そして、絶望した。
あまりに無力だと思い知った。何もできはしない。手を尽くす、ということすらもできない。
己の生存のために必要な能力を身に着け、修練を積んだ。目に映るものを守るために剣を握った。星騎士にまで上り詰めた。
そうしてたどり着いた現実は。毒に侵された少女を、彼という騎士の起源そのものを、誰よりも愛した人を助けるすべがない、というもの。
カムリの心が、暗く、深く沈んでいく。
「ねぇ、やっぱり逆。カムリのこと、ぎゅってしたい」
プラチナの手が震える。カムリは、はっとして顔を上げた。
「でも、あれ……。できないや」
カムリはプラチナを抱きしめた。恋人を甘く抱く、というよりも、すがりついて泣きじゃくる、子どものような姿だ。カムリは頬を、美しさを失わない銀の髪に擦り付ける。
「あはは。嬉しいけど、やっぱりちょっと違うな。わたしが、あなたを抱きしめたいのに」
プラチナは不満をつぶやきながらも、目を閉じ、想った。
ずっとこうしていてほしい。自分が、眠りにつくまで。
その想いは伝わっているのか、カムリ自身、そうしようとしていた。プラチナを抱く腕は力強く、離したくないという意思のあらわれだ。
しかしプラチナは、引き受けたはずの呪毒が、再度カムリに及ぼうとしていることを察知した。
「……ね、カムリ。もう行って」
「……なんだって?」
それはプラチナが、勇気を振り絞って口にした言葉だった。
「ひとりで先に行って。お願い」
「何を、ばかな」
「だいじょうぶだよ。また会える。……約束する」
気休めの嘘。しかし、プラチナという少女の、本当の願いでもあった。
「嫌だ、一緒にいる。死ぬまで一緒だ」
カムリは、騎士である自分をかなぐり捨て、わがままを言った。プラチナが何かを決心しているのは明白だが、それでも離れられなかった。任務のことなどもはや頭にはない。目の前の少女のことしか見えない。それが彼にとって、当然の優先順位だ。
「俺は、本当は。みんなを守るために騎士になったんじゃない。君を守るためだったのに……」
それが子どもの頃、暗い夜の日に決めた、彼の起源だった。
「!? な、何を――」
死に瀕するプラチナの身体にあって、唯一元の美しさを損なっていないもの。白銀の髪が、淡く光った。
瞬間、カムリはプラチナから引き離される。宙に浮いた彼の身体は、銀色に輝く球体の内部に囚われていた。
「いい? ちゃんと魔術師を――ううん。悪いヤツを倒してから来てよね。じゃないと、待っててあげないよ」
「プラチナ!! 待ってくれ、待って」
「カムリ」
プラチナは微笑んだ。相手を想うこの瞬間だけは、痛みを忘れられた。
「ありがとう。またね」
光球はカムリごと、通路の向こうへと飛ぶ。迷宮の道に沿って、遠く、遠く。
本来は敵を吹き飛ばすための技だ。プラチナは、少し乱暴だったかな、と笑った。
▽
プラチナの星法によって飛ばされたカムリは、長い距離を移動し、地面に投げ出された。
おぼつかない手足で地面をかきむしり、立ち上がろうとする。
「はぁっ、ああっ!? うわ、あ、ああああああ!!!」
カムリは狂乱した顔つきで慌てふためく。何が起きたのか、プラチナがどうなるのか、理解したからだ。
そこに、一人の男が現れた。
カムリの現在地は、先ほどの分かれ道と合流する三叉路だ。別の通路から、影が漏れ出すように、ツェグがやってきていた。
カムリとツェグの目があった。その姿と、プラチナを欠いた現状から、二人にどの程度の苦難があったのかは、誰にでも想像できる。
カムリは視線を切り、身体を来た道に向けた。
だが。
「先を急ぐぞ」
ツェグの発した第一声は、そんなことだった。
「――何故だ!? ふざけるな!! あり得ない判断だ、いくらあんたの言うことでもッ!!」
カムリは、エクスを想い、プラチナを想い、敬愛するツェグに食って掛かった。
きっと状況を知らないのだ、そう考え、説明しようと思った。あるいはその前に、激高し拳で殴り飛ばそうとした。
「……な……っ」
ツェグは、涙を流していた。
「先を急ぐぞ」
かけられる言葉は変わらず非情なもの。表情には悲哀も、怒りも、他の何もない。無感動だ。
ただ、涙を流していた。
カムリは、ツェグのことがわからない。わかったのは、彼もプラチナを想っているということだけだ。
カムリは今にも死にそうな顔になって、行くべき道と、戻るべき道を見比べた。
ちゃんと魔術師を――ううん。悪いヤツを倒してから来てよね。じゃないと、待っててあげないよ。
カムリは選んだ。向かう道はプラチナの元ではなく、『魔術師』の元へと続いている。
その選択が間違いであるとも知らず。
いや、間違いだとわかっていた。彼は自分の中にある、何よりも大切だったものに、フタをした。
「すぐにケリをつける」
それだけをつぶやき、カムリは走り出した。
移動速度は戦闘時のスピードに近い。
仕掛けられた迷宮の罠や、ときおり現れる迷宮の番人たる魔物を、力任せにも見える強引さで突破していく。そのたびに、負傷が増えていく。
いくら星騎士であっても、迷宮攻略という観点では、これはあまりにも悪手だ。
だが、その鬼神のごとき形相を見れば。たとえ仲間たちがいたとしても、止められはしないだろう。
その後をツェグは、影のように、幽鬼のようについていく。
▽
「――あ。あ、うぁ……」
暗闇の中、プラチナは、ほんの一瞬の眠りから目覚めた。
最後の目覚めだった。
もう立ち上がることはできない。背を任せた岩壁が、彼女の眠る場所となる。
プラチナは、毒に侵された腕と震える指先で、服の内側から、一冊の小さな本を取り出した。最後に腕を動かす力は、このことに使った。
本は、肌身離さず持ち歩いていた、彼女の宝物だ。
膝の上で、本を開く。幼い本好きの女の子のように。
灯りのない洞窟でも、毒で見えなくなってしまった目でも、本を指でなぞれば、プラチナにはその内容がわかる。
一字一句、とはいかないが。ほとんど覚えてしまうくらいには、その物語が好きだった。
全身がひどく痛むのに、ページをめくる指先は、不思議と軽やかに動かせる。
『シセルと魔法の騎士』。その勇気と愛のおはなしを、プラチナは頭の中で思い返していく。
勇敢な魔法使いの少女シセルは、騎士と結ばれ、ずっと一緒に、幸せに暮らしました。
死がふたりを分かつまで、片時も離れることはありませんでした。
おしまい。
プラチナは、これまでの自分の記憶を思い浮かべた。そこにはプラチナと、その大事な人たちがいる。
プラチナは、これからの自分のことを想像した。そこにはきっと、プラチナと、一番大事な誰かがいる。
幸せな記憶と、幸せな結末。憧れていた未来。それらが、傷ついた少女の心を、温かく満たしていく。
本の最後のページが、落ちてきた雫で濡れてしまった。
「いかないで、カムリぃ……」
プラチナは泣いた。
見えなくなった目を凝らし、動かないはずの腕を持ち上げ、どこかに向かって手を伸ばす。
「いっしょに、いっしょにいてよ。こわい……。夜は、こわいよう……」
しばらくの間、洞窟には、少女のすすり泣く声が小さく響く。
それもやがて、静かになった。