07. eternal blaze
死霊の騎士ウチカビと少女シセルは、迷宮の上層近くまでやってきていた。
これまでに起きた戦闘での相手は、『屍の剣士』や『魔女』以外では『ゴーレム』ばかり。
そして、『発生したての弱い魔物たち』。
いま、ウチカビは、ネズミのような姿をした魔物を討伐した。このような自然発生する魔物たちは、状況を見るに、どうやら屍剣士が駆除していたらしかった。理由はわからない。彼がいなくなったため、二人の前にはようやく、ゴーレム以外の敵が現れたということになる。
魔物の死体が光の粒に分解されていき、きらきらと消えていくのを、少女は楽しそうに眺めていた。
ウチカビは剣をしまおうとする。
そして、ぴくり、と途中で動作を止め、再度剣を構えなおした。
通路の向こう側からは、やはり泥人形がやってきていた。
「はぁ。またですか」
『下がっていてくれ』
「いえ。今ならわたしにも倒せる! ……と、思います」
何? とウチカビはつぶやきかけた。声にはならなかったが、その思念はシセルに伝わっているだろう。
少女が一歩前に出る。その銀色の髪が淡く発光しているのを見て、ウチカビは意図を察した。
シセルは『魔女』から、魔力の源となる白銀の髪を手に入れた。魔術を修めているようだから、豊富な魔力があるのなら、自らの手でゴーレムを下すことは不可能ではないだろう。シセルは挑戦、または肩慣らしをしたいのだ。
ウチカビはゴーレムへの警戒心を強く保ちつつ、少女の美しい髪と、細い肩を見守った。
目の前のゴーレムは、これまで相手にしてきたタイプと違い、巨腕と上背を持たず、ウチカビと似たような体格をしていた。細身のゴーレム、人間大のゴーレム、とでも呼べるだろう。
シセルは右手の人差し指をゴーレムに向けた。それを左手で支え安定させ、指先で魔術の狙いをつけている。
左目をつむり、ぺろりと唇をなめる。子どもが遊んでいるような姿にも見えた。
ウチカビは詳しく知らないことだが、これは国外にある“拳銃”という武器を真似たしぐさだ。
「弾」
指先から、小さな銀の弾丸が飛び出す。
それは見事にゴーレムの片腕を貫き、ややのけぞらせた。
「よし。……火炎」
続けて、銀色の炎が発生し、ゴーレムの全身を巻き込んでいく。
ウチカビから見て、シセルの魔術には確かな攻撃力があった。並の魔物であればこのように、簡単に倒せてしまうだろう。
「!!」
だが、ゴーレムは動いた。
緩慢な速度ではない。すばしっこい人間のようにだ。銀の炎に身体を包まれながら、シセルに突進してくる。
ウチカビは剣を動かしそうになったが、このゴーレムには大した攻撃能力がないことを見抜き、やめた。少女の初戦にふさわしい敵だとすら考えていた。
ゴーレムの腕が振るわれる。それはシセルの顔をかすめ、彼女をその場から数歩ばかりしりぞかせた。
「…………」
攻防のあと、シセルは、顔をはたかれたような姿勢で固まっていた。
ウチカビからは、長い髪に隠れて目元は見えない。しかし頬に小さな切り傷を負ってしまったらしく、赤い血のしずくが頬を流れていた。
シセルはそれを白い指で触り、傷を確かめている。自分の顔についた小さな傷を。
そして再度、ゴーレムに向き直った。
ウチカビには見えなかったが。
少女は、怒りに目つきを暗く歪め、ゴーレムをひどく睨みつけていた。
「風絶」
『!?』
少女を発生地点として、周囲に強烈な衝撃波が放たれる。
逆方向ではあるが、ゴーレムともども、ウチカビは吹き飛ばされてしまった。岩石の人形を転がす風圧なら、軽鎧姿の骸骨など、その倍は飛ぶ。
「雷条」
「斬閃」
「弾。弾。弾弾弾。弾弾弾弾弾弾弾――」
シセルが手をかざし、呪文を口にする。銀の稲妻が迸り、銀の光線が岩塊を切断し、弾丸、というより無数の砲弾が、敵に向かって飛んでいく。
ウチカビが体勢を整えて戻ってくる頃には、ゴーレムは土くれに還されていた。
『すさまじい。これでは騎士の仕事がない』
ひとまず、ウチカビはシセルへの賛辞を口にした。両腕を広げておどけたポーズをとる。飛ばされて転がされてから戻ってきたので、無様にも土で汚れていたりする。ウチカビは、このさまを笑い話にでもしたかった。
しかしシセルはウチカビのほうを見ない。肩を上下に揺らし、ゴーレムの痕跡を見ている。
『シセル。……シセル』
「――はい?」
少女は振り向いた。朗らかで愛らしい笑顔のままだった。
『傷は平気か?』
「ああ、うん。すぐ治せますし」
『………。では、先へ進もう。戦いに出たいときは申しつけてくれ。こちらも心強い』
ウチカビは結局、シセルの戦い方について言及することはなく、何事もなかったようにふるまった。追い越しざまに様子を一瞥したのみだ。
「………」
ウチカビの目から外れると、シセルはたちまち不機嫌そうな顔になり、頬の赤い傷を指でなぞった。
そのひと撫でで、傷は消えた。
しかし『魔術師』のいらだちは、もうしばらく続くだろう。
しばらく進むと、またしてもゴーレムと遭遇した。
この地下迷宮には、もう彼らしか出てこないのだと思わせる。
「ウチカビ。原型をとどめたまま仕留めてくれますか?」
『承知した』
戦闘。
ウチカビは剣で泥人形の核を貫き、停止させた。
『どうした?』
シセルは倒れたゴーレムの元にしゃがみこみ、何かをしようとしている。手をかざし、髪を発光させ、魔力の光によって図形が地面に描かれていくのを見るに、ゴーレムに対し魔術を行使するようだ。
「これの解析をします。さっき、わたしの魔術が効かなかったので」
シセルは魔術を使いながら、こん、と岩の人形を軽く蹴りつけた。行儀が悪い、とウチカビは思った。
そして疑問を覚える。シセルの魔術によって、ゴーレムは粉微塵と化していた。ウチカビに同じ真似はとてもできない。効かなかった、とはどういうことか。
「……ああ、やっぱり。これ、炎だけは効かないように造られてますね。そこそこ高級品です。どこの作かな……」
ウチカビは先の戦いを思い返す。少女の放った魔術のうち、銀色の炎は、たしかに人型ゴーレムにダメージを与えていなかった。そのせいで反撃を喰らったのだ。
少女は荷物入れに、ゴーレムから剥いだ岩の皮膚片をしまった。
「もし火の魔術しか使えない人がこれと戦ったら、一方的にやられてしまうでしょうね。そういう悪意のあるゴーレムです」
シセルはまた、ゴーレムの頭を蹴った。
行儀が悪い、とやはりウチカビは思った。
▽
二人の迷宮脱出行は、いよいよ上層に到達するという段階だ。脱出の日は目前。
途中、安全圏を構えられる小部屋を見つけたため、例によって休む運びとなった。
「使わせてもらいます~、っと」
小部屋には、首のない神の像があった。
元からこの造形ではなく、壊れてそうなったようだった。しかしおそらく、ウチカビには馴染みのない神だ。記憶が刺激されない。
シセルは像が置かれている棚の前に膝をつき、日常生活に必要としない動作をした。
胸の前で両手を重ね合わせ、目を閉じ、頭をたれ、そのまま手のひらを地面に向ける。というのが一連の動きだ。
『それは、祈りか?』
ウチカビはそれを、神への祈りだと解釈した。
「勝手に使って、神さまのバチがあたったら怖いですからね。魔術師だって多少の信心は持っているものです。研究がうまくいかないときに神頼みしたり……」
『俺の知っている神への祈りとは、違う気がする』
ウチカビからの、珍しい種類の声。疑問、未知への好奇心を含むそれを聞き、シセルは顔を上げた。
「ふむ。私……を造った『魔術師』と、生前のあなたとで、信仰の対象が違うんでしょう。人間は所属するコミュニティごとにそれぞれ、信じている教え、神が違う。……ですよね?」
ウチカビはシセルの言葉に同調し、頷いた。
彼の中には、記憶がなくとも、ある教義が強く染み付いていた。
『神とは、天で光る星々。そしてそれは、死者が行きつく先の世界でもある。祈るのなら、天を仰ぐはずだ』
「ふんふん。その考えはたしか、“星天教会”のものですね」
星天教会。
という単語は、ウチカビの中の空いた穴を、ぴったりと埋めるように、彼の中へと入ってきた。
「わたしの受けた教えだと、神とはこの大地そのものです。死した生物の魂は大地に還り、大地の血液となって内側をめぐり、そのうち、新しい命として生まれ変わる。転生するのです」
『……初めて聞く考え方だ』
ウチカビにとって、シセルの話す世界観は新しいものだった。おそらく生前の知識になかったことだ。
新鮮なそれらは、彼の印象に残った。
「でしょうね。あなたが星天教会の人なら」
そう話しながらシセルは、ウチカビの腰にある屍剣士から奪った剣を、ほんの一瞬だけ見た。正確には、その鞘に意匠として刻まれた、星をあらわすような印をだ。
ウチカビは『自身が所持する剣への視線』に非常に敏感であったため、それを察したが、特に思うことはなかった。
▽
しばらく歩いたあと。
二人の冒険は、行き止まりに陥った。
魔術の灯りなしではまったくの暗闇だった地下洞窟が、夕暮れのような赤いものに照らされている。
二人の前には、炎の壁が立ちふさがっていた。
文字通りの炎の壁だ。ごうごうと燃え盛り続けるそれが、地上への唯一の通路を封じている。
ウチカビは握りこぶしほどの石を拾い上げ、炎の壁に向かって放り投げた。耳を澄ませても、石が地面に落ちる音がしない。まるでその前に燃え尽きたかのように。
このためか、この炎をそのまま強行突破してしまおう、という案は、どちらからも出なかった。
次に、シセルが様々な魔術を試した。炎を消すための水や冷気。燃料となっているだろう空気への干渉。持参していた怪しい薬液の数々。
どれも有効ではなかった。炎の壁は揺らぎもしない。
結果として、これは高密度の魔力が形成している、架空の炎であることがわかった。
つまり、魔術の炎。それも、尋常でない使い手の放ったものである。
「うーん。地属性の魔術がもっと使えたらなあ。地形を変えてしまえば……」
『どうする? 横穴でも掘るか』
「うーん」
『待て』
ウチカビが腕を広げ、シセルを下がらせ、剣を抜く。
炎の壁の向こうから、大きな影がひとつ現れた。
ゴーレム。身体は赤熱し、まるで屍のように緩慢な動きだが、形をとどめている。つまり最高級の耐火性を持っているということ。
この瞬間、ウチカビとシセルは、以前からの疑問に対するひとつの答案にたどり着く。
迷宮内に魔物がいない理由。これは、屍剣士が倒していたから。
そして、ゴーレムしかいない理由。
それは、そもそも彼らしか、ここを通ることができなかったからだ。迷宮の外から、彼らはやってきている。
しかしこの推論は、やはり新しい疑問を生んだ。
耐火ゴーレムは、何者の手によって差し向けられている? どんな目的のために?
「ちょうどいいですね。こいつを使ってやりましょう」
ウチカビはシセルに指示を受け、例によってゴーレムを傷つけずに倒した。
シセルはその場で、魔術を使い、ゴーレムの加工を始めた。時折ウチカビに、どの箇所を削れといった指示をしてくる。
作業には少なくはない時間を要したが、結果として、『二人が乗り込める耐火ゴーレム』ができた。
「これなら……」
内側に人間が入れる空洞を開けられた状態で、少女の手振りによって操られるゴーレム。
ウチカビは今さらながら、シセルの腕前に感心していた。他者が送り込んだだろうゴーレムの操作権を乗っ取り、自分の傀儡とする術。『魔術師』の技をそのまま受け継いでいるのではないか、とすら思わせる。
二人は、土で汚れた狭いスペースに、身体を丸めて乗り込んだ。
ウチカビの膝の間に少女が座る。つややかな白銀の髪を見て、ウチカビは愛しさを感じた。
「よし。ちょっと無茶のある設計なので……ウチカビ、しっかり守ってくださいね」
シセルはウチカビの骨の腕を、強く握った。
岩のふたが覆いかぶさってくる。炎の明るさに慣れた目から、まったくの暗闇へ。
しかし、ウチカビの目には、やはり少女の白銀の髪が見えていた。
ゴーレムが走り出す。ひどい揺れが生まれ、ウチカビはシセルを保護するように身を固めた。
「アチャーーーッッ!!!」
炎の壁を突破し、ゴーレムから飛び出す際、シセルは泣きながら、エイテース(猿に似た魔物)のような叫び声をあげた。
さすがに全くの無事とはいかなかった。シセルが傷をすぐに治せる人造人間で、ウチカビが痛みを感じない死人だからこその攻略法だ。正攻法ではない。
ウチカビは、そのまま泣きながら地面に転がる彼女を、哀れに思った。
『君の案で突破できたな。ありがとう』
ウチカビは、籠手に守られた手を差し伸べた。
「え、ええ。以前はこんな壁はなかったのですが、もうすぐ出口ですし――あっつい!!」
シセルは熱された籠手に触れ、悲鳴をあげた。
炎の壁の向こうは、大きな空間だった。『魔女』を相手にした部屋よりも、さらに一回り広い。
そして、何もない。
いや、何もかもがなくなっていた。黒い灰の粒があちこちにあるのみ。ウチカビはそれが、ここであった激しい戦いによるものだと見抜いていた。
ここには何もない。何もなくなった。
あるひとつのものを除いて。
ウチカビの視線の先、壁に寄りかかった小さな影。
兜をした鎧騎士の遺体と、地面に突き立った黒焦げの棒きれが、そこにあった。
どくん、どくん。ウチカビは、心臓が収縮し、音を鳴らしているような錯覚に襲われた。そこにある敗者の姿が、自身にとって重要な何かであることを、第六感が告げている。
ウチカビの足が止まる。シセルはふらりと進み、地上への通路へと近づいてく。
炎が、大空洞を朱く彩った。
地上へ続く通路には、先ほど通過したような炎の壁が燃え上がり。空洞の淵は炎上し、二人を取り囲む茜色の陣となる。
迷宮の罠か。あるいは何者かの仕業か。
それは考えるまでもなかった。
ウチカビの視線の先。鎧の騎士が、かたかたと震え、音を鳴らしながら、立ち上がった。
『――トオ、サナイ。ココハ、トオサナイ』
およそ生きている人間のものではない、不自然な動きをしながら、騎士はだんだんと正しい姿勢を取り戻していく。
空気に響くのではない、頭に響く声が、ウチカビに伝播する。
兜の向こうにある眼光を確かに感じた。目が合ったのだ。
『……フシゾク。フシ属、不死ゾク……!』
騎士は、焼け焦げた棒切れを握った。
そこに炎が灯る。まるで松明のよう。だが、それは剣だ。炎はめらめらと溢れ出ていく。
剣から燃え移るように、騎士の鎧の隙間から、炎が吹き上がる。
巧緻な意匠の兜が、赤熱していく。やがてそれは、どろどろに溶け、割れた。
兜の下は、ウチカビに似て。
燃える骸骨の騎士が、そこにはいた。
『不死の輩、尽く滅すべし』
炎がウチカビを襲う。
▽
敵とウチカビは、同じような骸骨の姿。死霊の剣士。しかし、条件は対等ではないようだった。
『炎の騎士』は、ウチカビとの距離が遠くとも、近くとも、筆舌に尽くしがたい猛攻を仕掛けてきた。
握っている黒焦げの剣からあふれている炎が、刃となり、ウチカビに怒涛のように降りかかる。攻撃能力が、まるで魔術師か星法士。剣士同士の戦いとは言い難い。
シセルによる修復や防護、牽制攻撃による援護。それらがなければ、まともな対決ですらない。
炎の騎士は、ウチカビを一蹴しうる強者であった。地上へと至るまでの、最強最後の障害だ。
戦いのさなか、炎の騎士は、シセルが何をしようともそこに攻撃をすることはなかった。その燃え盛る目は、ウチカビだけに向けられている。
この条件のため、ウチカビは今、かろうじて、消し炭とならずに剣を握ることができていた。
『シセル! 球体の魔術をくれッ!!』
防戦一方のウチカビは、シセルに魔術行使を要求した。
銀色の光弾が空間にばら撒かれる。ウチカビは炎をかわしながら、光弾を剣で切り裂いていく。
やがて刃が淡く白銀に濡れる。ウチカビは瞬時に剣を振り切った。
光る斬撃の軌跡が飛行する。『魔女』との戦いで見せた技術だった。ウチカビにとって、距離の不利を覆すための選択肢のひとつだ。
だが、押し潰される。銀の刃は、より巨大な炎に飲み込まれた。
ウチカビのそれは、遠間の対象を斬るための手段に過ぎず、攻撃力は通常の一振りから逸脱はしない。これを必殺の技にするには、星導力に富んだ肉の体が必要だった。
対して敵の炎刃は、大規模魔術に匹敵する密度がある。ウチカビの斬撃とは拮抗することすらない。
炎がウチカビの兜を撫でる。体勢が崩れる。これまでにウチカビが思い出した剣技、そのどれもが炎の騎士には通じない。
シセルは、彼の敗北を意識した。戦闘の専門家でなくとも、どちらが優勢なのかはわかってしまう。こうなっては、戦闘以外で出し抜く方法を考えるべきだった。
しかしウチカビは、自身がひどく興奮していることに気が付く。
心拍が激しい律動となり、血が沸騰し、筋肉が熱を上げるような感覚。それらはすべて失われたものだが、仮想のものとしてウチカビの内面に存在する。
ウチカビは兜を脱ぎ捨て、おそろしい骸骨の顔をさらけ出した。
『ウオオオオオオオ!!!』
音にならない咆哮は、空気にこそ響かないが、シセルをひるませた。対面する炎の騎士にも、その威圧は伝わっているだろう。
ウチカビが動いた。
疾走は、これまでとは違う驚異的な速さだ。シセルには残像を追うことしかできない。ここにきてようやく、彼は自身の感覚を生前に近づけることに成功していた。
常人には捉えられない速度であっても、燃える目は、その姿を執拗に追っている。ウチカビとの距離が埋まるほど、炎の騎士は、剣の激しさを増していった。
その苛烈な茜色、朱色を、彼は潜り抜けていく。
ウチカビはここまでの戦いで、炎の騎士の剣技の型を読み取り、記憶していた。
近距離でも嵐のように襲い来る炎の太刀筋を、ウチカビはなんとか予測し、紙一重で防御し、進んでいく。
そして、ついに攻撃圏内。刃が届く距離に踏み込んだのは、これが初めてのことだった。
白と緋色の刃が、交差する。
『!!!』
あれほど苦心して詰めた距離。ウチカビはそれを、すぐに捨てた。
打ち合う瞬間のことだった。炎の騎士が振りまいた周囲の炎は失せ、すべてが彼の握るものに収束した。出来上がったのは赤熱する刃。鍛冶師が鉄を鍛える、その途中のような姿。
それと剣を合わせたとき、あまりの高熱に、このままでは刃を溶かされるというイメージがよぎった。屍剣士から奪った、この不朽の剣がだ。
ウチカビは剣戟をいなし、騎士の腹を蹴り飛ばした。
それから、長い戦いを続けた。
発奮したウチカビだが。
炎の騎士に手傷を負わせることは、できなかった。
呼吸などしていないのに、肩が上下する。心臓や肺などないのに、胸が破裂しそうだった。
ウチカビには体力というものがないが、しかし、彼は限界だった。精神的な消耗だ。
災害のような炎の攻撃。それをやりすごしてなんとか近づけば、切り結ぶことさえ許さない赤熱の刃。そして、そもそもつけいる隙のない高度な剣技。
あまりにも強すぎる。このような剣士が、なぜ迷宮の入り口付近で死んでいるのか。不思議でならない。なぜウチカビとシセルを阻むのか。それもわからない。
理不尽、という言葉の顕現だった。
騎士が両手で剣を握り、高く掲げた。無限にあふれ出す炎は今、ごうごうとうねり、渦を巻いている。途方もない力がそこに集中している。
敵はウチカビの消耗具合を見て、勝負を決めにきた。ウチカビの脚はもう、反射的には動かない。意思が必要だった。
あれが振り下ろされたとき、この空間のすべてが灰と化す。それがわかっているのに、ウチカビの身体は阻止に動かない。
それは気が付いてしまったからだ。あらゆる手段が通じなかった。もはや今の彼に、なすすべはない。
ウチカビは戦いに没頭するあまり、撤退や搦め手の選択肢を排除していた。ここで彼が消えるのは、炎の騎士に挑んだことこそが間違いだったからだ。
条件が違う。
二人の騎士は今、対等ではない。シセルの援護を加味しても、炎の騎士が圧倒的な戦力を手にしている。最初から自明だったことだ。
――何が違う?
ウチカビは、敗北の前に、ようやくそこに目を向けた。
まず、前提として。二人の剣士は、生きていた頃の肉体を失っている醜い死霊だ。
動いている理屈は異なるのだろうが、『血肉がない』という事実は共通している。
それは戦う者にとっては重大な足枷である。血肉がない、ということは、生前に活用していた“星導力”が得られないということ。星導力は星法の使用や肉体の強化など、多くのことに用いられる。ウチカビはその欠落を、シセルから送られる魔力や魔術の支援によって補わねばならない。
しかし、だとすれば。
炎の騎士は、なぜ『炎の騎士』なのか?
ウチカビと同じ白骨化した死体。そのどこから、あれほどの炎を生み出しているのか。
無尽の炎。この点がウチカビと対等ではない。
そして、その疑問の答えは明白だった。誰が見てもすぐにわかることだ。
騎士の炎は、彼の握る剣から生まれている。
二人の優劣を決定しているのは、地力の差ではない。手にしている武器の、格の違いだった。
ウチカビは歯ぎしりした。頭の片隅では、最初からわかっていたことだ。しかしそれを受け入れたところで、その不公平を解決する手段はあったのか?
炎が、色濃さと熱気を増していく。じりじりと焼け付く骨の身体。まるで太陽の真下にいるかのようだ。
ウチカビは自分の役目を思い出し、離れたところで佇む少女を見た。魔術で身を守ろうとしているものの、あれでは生き残れないだろう。どうにか守る方法はないのか。
シセルは不安そうに、胸に手を当てている。
それを見て、ようやく思い出した。
『シセル!! 俺の剣を!!』
ウチカビは半ば無意識にそう叫んだ。
「は、はい」と返事がくる間に、その場へ駆け寄る。少女が胸の内から、黒い剣の柄を出現させる。彼女の“心臓”だ。その全貌が現れる前に、ウチカビはそれを掴んだ。
「んうっ!? ぐっ、あっ……! 引き、抜かないで……!! あぐぁっ!!」
ウチカビは、少女のからだを鞘のように扱い、その胸から剣を抜いた。
倒れるシセルを腕で支え、地面に横たわらせる。
ウチカビは少女から遠く離れ、騎士に相対し、黒い剣を構えた。
「っ、はぁ、はぁ。……魔力を、吸収している……?」
黒い剣に、小さな光の粒が集まっていく。
それらは戦いの中で、シセルが振りまいた魔力の残滓であり、炎の騎士から零れ落ちた火の粉の群れだ。
地下迷宮の光源となっていたそれらが、ウチカビの握る剣に収束していく。よく観察すれば、炎上する炎の騎士のほうからも、朱色の光を奪い取っていた。
(魔力の収奪、収束が、この剣の特性……?)
息も絶え絶えになりながら、シセルはウチカビの挙動を見守った。
黒い剣は彼女の心臓であるが、これは他者から奪ったものだ。正当な持ち主とは言えない。
『魔術師』は、この剣の機能の表層しか理解していない。それを研究する余裕はなかった。
『花嫁』の心臓となっていた黒い魔剣。
性能の大部分を封じられているが、真の名を『ミスティルテイン』という。
二つの極大の魔力が、反発し合い、空間を軋ませる。
死霊の騎士たちは、同時に剣を振り下ろした。
爆炎の津波。レーヴァテインからあふれる破壊の熱量。
対し、黒い光の奔流。ミスティルテインは、収束した光の粒子を自身の力に変えた。
ぶつかりあう二つの力は、拮抗し、嵐を巻き起こした。シセルはその余波を防ぐだけで手いっぱいだ。『魔術師』をして、それはこの世の終わりのような光景だった。
誰にも見えない、力のぶつかり合いの内側で。
二人の剣士が、走り出していた。
炎に身を焼かれながら、黒い光にひび割れながら、彼らは前へ突進していく。己が敵をこの手で斬り伏せんと、剣を握りしめている。
どくろが対面する。敵は目と鼻の先。燃える骸骨は、既に必殺の構えに入っていた。ウチカビはまだ剣を下げたままだ。
だが。
ウチカビには、何故か。彼が最後にどのような技を繰り出すのか、わかっていた。
――『一番得意な斬り方、相手の右脇を狙う横薙ぎ』。
ウチカビは限界まで身を伏せ沈める。鎧の背面を、炎の刃が削り溶かした。
そうして、必死の一撃をかわしたウチカビは。
渾身の一撃で、炎の騎士を討った。
▽
『ハァ、ハァ、ハァ……』
息切れの真似事をするウチカビは、黒い剣を大地に突き立てた。
これがなければ勝てなかった。いや、最初からこの剣を持って挑んでいたなら、敵もさらに攻め方を変えてきたはずだ。運や巡り会わせによる勝利であって、剣の格が対等でも、十の戦いをすれば九は負ける。その確信がある。
ウチカビは、炎の騎士をみやった。
胴体を破壊した。ばらばらになった骨の体は、頭蓋骨に遠い部分から徐々に灰となって消えていく。
頭蓋骨には、まだ火が灯っていた。『炎の騎士』は、まだそこにいる。
ウチカビはその最期を看取ろうとした。
『……その、剣……』
炎の騎士が声を発した。
『カムリ、か……?』
『――え?』
カムリ。
騎士が発したその短い音は、ウチカビの魂を、電光のように弾けながら駆け巡った。
何か、今、思い出すべきことがある。ウチカビは強い衝動に襲われた。だが思い出しきれない歯がゆさ。胸をかきむしるような苦痛にさいなまれる。
その間に、炎の騎士は灰となっていく。
『………。最後の勝負は、君の勝ちのようだな……』
『待て、待ってくれ』
ウチカビは、騎士に何かかける言葉を探した。それは騎士のほうも同じだったようで、ほんの一瞬の間があいた。
だが、気の利いた遺言は間に合わなかった。
『さようなら、カムリ』
死後もその身体を燃やし続けた炎の騎士は、いま、眠りについた。
シセルとウチカビ。二人の傷や消耗が癒えたところで、戦いを振り返る。
二人は、炎の騎士だった灰を見つめた。
「……ウチカビ。大丈夫ですか」
『ああ』
「その。様子がおかしいというか、落ち込んでいるような」
『そう見えたか? この兜は役立たずらしい』
ウチカビはシセルに話さなかった。『あの騎士は、自分の知人だったのだ』とは。
そこに深い理由はない。騎士のことは、しっかりと思い出してから語りたい、などと思ったからかもしれない。
「じゃあ、先へ進みますか?」
『待ってくれ……。これを、どうにかしなければ』
二人の前には、一振りの剣があった。炎の騎士の振るっていた武器だ。
黒焦げの棒きれのようなそれ。だが、消え切っていない火種のようなものが、刀身にちらついている。
『ここに放置していくのは危険だ。ほうっておけば炎を永遠に生み続け、周辺の環境を変えてしまうだろう』
「魔剣のたぐいですか。破壊しますか?」
『それは不可能だ。人間の手で破壊できるものじゃない……』
ウチカビは、それが何なのかを知っているかのように語り続ける。
だが、『レーヴァテイン』という名も思い出してはいない。銘よりも、それらが抱える危険性のほうが、彼という人間にとっては重大な記憶だった。
『誰かが持ち出さねば』
ウチカビは剣に触れようとした。
その瞬間、炎が渦を巻いて遮る。ウチカビを拒絶したのだ。
『やはりだめか。これを制御できる誰かが……“封じ手”が必要なんだ。多分、あの騎士がそうだった』
「封じる。……やってみましょうか。ちょうど瞳の色が空いてます」
シセルが前に出る。ウチカビは不安を吐露したが、シセルは封印の魔術に精通しているという。髪の色を奪い、変えた魔術も、その一種だと。
シセルは剣の前に立ち、魔術を行使した。
剣が浮き上がり、その輪郭と、内部の炎がシセルへと吸われていく。
「……ぐっ、ぐっ、ぐ、ぐ、う……」
シセルは膝を折り、地面に手をついた。滝のような汗をかいて、目を閉じている。
剣の姿は消えていた。
ウチカビがシセルを庇い、支え起こす。シセルは目を開いた。
その両の瞳は、暁のような、黄昏のような色に染まっていた。
燃え上がる炎と、同じ色彩だ。
▽
「ああ。やっとここまできた……」
少女が思わず駆けだす。
ウチカビは、その暗い眼窩を腕で守った。
迷宮の外からは、眩しい光が差し込んでいた。
「これでやっと。好きなこと、やりたいことが、できますね」
シセルは振り返り、ウチカビに微笑んだ。
銀の髪が揺れ、炎の瞳が目から覗く。
潔白な聖女、あるいは、妖艶な毒婦のような笑みだった。