ラムの悲劇
大きな宝と書いて大宝建設、従業員こそ会社の宝であると言うのが社是で、新築の小さな事務所にも、売れない書道家が書いた墨字で額縁に飾られている。一昨年亡くなった会長は、男気一つでこの地域の人夫をまとめ上げこの会社を起こした。特別な技術を駆使して利益をあげるのではなく、動ける人を集めて、いっぱしの街ならそこら中にある建設現場に雑工を送り込んで、一人当たりの人夫代からピンハネをして利益を上げる会社だ。特別な技術がない代わりに、簡単に入社することができる、特別な技術がない故に1人あたりの単価が安い、単価が安いから作業員の給料も安い、そんな会社に僕はいる。日々動く、80名ほどの作業員で造成される錆びついた歯車の一部だ。
大きな宝と書いて大宝建設、従業員こそ会社の宝であると言うのが社是で、新築の小さな事務所にも、売れない書道家が書いた墨字で額縁に飾られている。一昨年亡くなった会長は、男気一つでこの地域の人夫をまとめ上げこの会社を起こした。特別な技術を駆使して利益をあげるのではなく、動ける人を集めて、いっぱしの街ならそこら中にある建設現場に雑工を送り込んで、一人当たりの人夫代からピンハネをして利益を上げる会社だ。特別な技術がない代わりに、簡単に入社することができる、特別な技術がない故に1人あたりの単価が安い、単価が安いから作業員の給料も安い、そんな会社に僕はいる。日々動く、80名ほどの作業員で造成される錆びついた歯車の一部だ。
会長存命の時代は、常時200人ほどの作業員が動いていたそうだが、今は半分以下になっている。それに、よくわからないが全員が会社の本体(直接雇用)の人間ではないらしい。怪しい派遣会社や個人のブローカー、どこかで借金を負い売られてきた者などさまざまな経路でこの会社に来ている。建設業の最底辺の人々のプラットフォームのようなものだ。一枚岩でないからチームワークもないし、助け合うよりも偶然のふりをして、足を出して他の者を転ばせようとするような集まりだ。
景気の良い時に建てられた、一見廃墟にも見えるこの会社の寮には大きな食堂と今時珍しくツケで商品を買える売店がある。無一文でも体さえ動けば入寮させてくれるこの寮は、僕のように0からやり直そうとする人にはありがたかった。こんな古い外観でありながら、中は寮母のおかげでいつも綺麗だった。ベトナム人実習生が10人いて、彼らが寮の設備を牛耳っていた。個々で生活している日本人の総数は多いが、全体で、固まって寮の物事を進めるベトナム人たちの勢力には敵わない。日本語もほとんどできず、横柄な態度の彼らとは、僕も距離を置いて過ごしていた。自分の目標に向かって集中する、これが今の自分にできる唯一のことだから。
大宝建設の朝は早い、遠くの現場に行く者も、幸運なことに近場に行く者も、全ての者が毎朝6時に集合しなければならない。もちろん、その時間から給料が発生するわけではない。魂を抜かれたゾンビのような重い足取りで集まる作業員たちは、前日に張り出された予定表を元に、それぞれの現場に向かっていく。大半はチームになって一緒に向かうが、作業に関わること以外の会話はない、僕にはそれがありがたい。作業自体は8時に開始するので、いつも時間が持て余される。車に乗り込み現場までの時間、現場についてから作業開始までの時間、自分では管理できない時間が呼吸を苦しくする。4ヶ月、僕の修行は4ヶ月。この期間を捧げることが贖罪なのだ。その後は南半球に行って、人生を本当にやり直すんだ。。。
ここに来て1ヶ月が経った。現場の場所と共に働く作業員以外は、何も変わり映えのない日々が駆け足で過ぎていく。最近は、ベトナム人たちを乗せて、自分の運転で現場に行くようになってきた。朴訥で従順な僕を、会社も信用してきたのだろう。技能実習生であるベトナム人たちはほとんど日本語が話せない。現場で覚えた言葉は、周囲の作業員の影響を受けて品のない野郎言葉ばかりだ。それでも、建物内部で解体されたゴミを搬出したり、バールを振るって解体する作業に高度な言語は要らなかった。会社の予定表上は僕がリーダーになっているが、彼らの方が現場を熟知しているため、現場での指示はいつも彼らがしてくれる。横柄な態度や言葉遣いに、時折心を乱されることもあるが、気に留めずに作業を進める。僕には時間が限られているから。
そんなある日のこと、現場から戻り、明日の予定を確認すると、普段見かけないベトナム人が予定表に乗っていた。「ラム」というテプラが貼られたマグネットは、僕の名前入りマグネットとペアになって貼られていた。
「明日からOO建設の監督の雑工、夏中はずっとこいつと行ってもらうから、頼むな」
部長が僕の右肩をポンと叩きながら言った。この人のボディタッチは、寮に出るゴキブリよりも嫌いだ。わかりました、でもこの人も技能実習生なのですか?と僕は顔も見ずに聞いた。
「ビザは実習生だな、中島さんのところからの訳ありの奴だから。2ヶ月くらいのことだから、まぁ気にせずにいつも通りやってくれ」
はい、と答えお疲れ様ですと機械的に言って僕は寮への帰路についた。中島さんは2度ほど見たことがある。六十を過ぎた初老の男性で、昭和の雰囲気を全面に出した変わり者と言う印象があるだけだ。いつもどこからともなく人夫を見つけてきては、この会社で働かせ、その労働の対価を搾取することを生業としている人だ。会長存命の最盛期には、多くの人夫を入れて、それなりに稼いでいたらしい、と古株の一人から聞いたことがある。人材ブローカーといったところだ。それにしても、入国制限がされている今、どうやってベトナム人を連れてきたのだろうか、そんなことを考えながら、シャワー室に行くと、いつも通り空きがなかった。各シャワーの前には、次の人の衣服が置かれ、順番が回ってくるのはまだ先だ。先に飯でも食べようと、キッチンに行くと、コンロの上は鍋やフライパンで埋め尽くされ、ベトナム人たちが発泡酒を片手にベトナム語で騒いでいた。
「おい、ビールのむか?」
先月よく一緒に仕事に行ったフーと言うベトナム人が僕に言った。いらない、ビール嫌い、と返すと、親切を仇で返されたようにフンっと鼻で息を吐いて、また仲間達と話し始めた。ビールと発泡酒の区別のない世界観を否定したい気持ちになったが、彼らに何を言っても何も生まれない。アメリカに勝ったことだけが自慢の民族なのだから。料理を作ることも諦めて、キッチンを出た。新婚さんなら、家に帰ると、食事がお風呂か選択権があるものだが、ここにはない。まるで娘ばかりの家で、肩身の狭い思いをする冴えない中年男性のような心持ちだ。家と銘打つ場所で自由を奪われるのはなかなかきつい。マックスバリューに行き、安くなった唐揚げ弁当とビールを買って、部屋に戻った。食べて飲むと睡魔が現れる。朝が不当に早いから当然だ。眠ってしまう前に、と重たい足を引きずって、すっかり汚れたシャワー室にいき、身を濯いだ。排水溝からは小便のにおいがした。部屋に戻ったとき、時計の針はちょうど9時を指していた。あと少し、後3ヶ月、まるで出所を待ち侘びる懲役囚のように独り言を言って、僕は早い眠りについた。
東に窓がある僕の部屋では、カーテンを少し開けているだけで強烈な朝日が差してくる。朝の力づよさを物語るこの光で、僕は目を覚ます。すぐにベットを綺麗に整えて、歯を磨きに洗面所へ走る。GIGAZINEの記事で、アメリカの海兵隊がまずベットメイキングから朝を始めると読んで以来、ずっと続けている習慣だ。朝の洗面所も行列ができている、忙しなく動く人々の間を抜けて、最低限の準備をしたらすぐに外に出る。ブラックコーヒーを朝飯がわりにごくごく飲んで、準備万端。昨日確認した通り、今日から新人と二人での現場だ。続々と作業員が集まってくる。寮に住んでいる者、近くにぼろアパートを借りている者、会社に借りてもらってるベテランたち、元々近所に住んでいる者などさまざまな人がこのプラットホームに集まってくる。6時になった。皆がそれぞれの現場に向かって出発していく。立派な書体で社名が印字された、8888のナンバーを付けた社用車に乗って。。。
部長が僕の名前を呼んでいる、傍には初めて見るベトナム人がいる。ベトナム人にしては珍しく、背が高い。短髪を鋭く揃えた好青年という印象だ。
「おはようございます!わたしのなまえは、グェン ヴァン ラム といいます。ラムとよんでください!」
近所の人も驚く元気の良い挨拶に僕はたじろいだ。そして頭を軽く下げながら握手を求める姿に、また驚いた。ベトナムにも礼儀ある者がいるとは。よろしくね、僕は名乗って差し出された手を強めに握った。握手は強めに握らないと舐められる、これもどこかでインプットした情報が、アウトプットされている。部長からは、こいつは結構日本語できるからな、じゃあ頼むな、と言いながらまたポンっと肩甲骨あたりを叩かれた。
社用車のエブリィに乗り込んで、下道で1時間ほどの道のりを走り出す。ラムくん、現場に着くまで時間がかかるから、寝ててもいいよ、と身振りを交えて伝えた、他の日本人の運転手は、車内の移動中に同乗者が寝ていると非常に怒るようだが、僕は真逆の対応を取る。
「だいじょうぶです、わたしははやくねましたから、あなたはやさしいですね。」
ラムは綺麗な日本語で答えた。寮にいるベトナム人たちのような独特の吃音もない、綺麗な言葉。あなたは、日本語わかるの?はい、わかりますよ、私は3年くらい、日本にいますから。そうなの?でも寮にいるベトナム人は3年いても、全然日本語わからないよ、と僕が返すと、ラムは笑って、
「そう、実習生は日本語の勉強しないから、あまり日本語わからないよ。」
はぁ〜と感嘆の言葉が自然と口から出た。そうか、彼は実習生ではないのだ。留学とか何か、寮にいるベトナム人たちとは違う形で来日しているのだろう。よく見ると顔立ちもよく、目も輝いている。同じ国籍の中の別の人種だ。それから僕たちは、互いのいろいろなことを話し合った。ラムさんは現在31歳で、結婚していて、5歳の娘と3歳の息子がいるということ。幼い子供たちのために、大きな借金を負って、日本に出稼ぎに来たこと、もうすぐ来日して3年が経つこと、好きな日本食はらーめんであることなど、僕たちは互いの個人情報の交換を行なったのだ。自分でも驚いたことだが、普段この会社の作業員やベトナム人たちとは全く会話などしなかったのに、ラムさんとは初対面で心が開かれた。僕のベトナム人への偏見を粉々に打ち砕いたラムさんに、心が感謝しているのかもしれない。
現場の作業は、掃除や業者の出したゴミの処分、荷物の移動にまた清掃、足場の階段を使って、ヘルメットで守られた頭をぶつけながら屋上に荷物を運ぶといった感じの単調でつまらないものだったが、ラムさんはどんな仕事も一生懸命にやっていた。
休憩の時間に、ラムさんは家族や故郷の写真を見せてくれた。美しい遺跡群をもつニンビンという彼の故郷は、原付だらけの汚い密集した街という僕のイメージとは程遠い、熱帯特有の穏やかな緑に囲まれた場所だった。きれいな場所だね、心からの賛辞が漏れる吐息のように口を出た。
「いなかだよ、なにもない。しごともない。にほんの方がいいよ。」
とラムさんは謙遜した。いつか行ってみたいな、そう言いながら僕は自分が3ヶ月後にいく予定の異国へ想いを馳せた。
2週間が経った。現場での作業を終え、汗でずっしり濡れた服を着替えて車に乗り込むと、ラムさんが珍しく浮かない顔で、
「きょう、ビールをのみませんか?わたし、りょうりするから」
と誘ってきた。そういった異国文化に触れ合うことは、何かと楽しいことに違いないという好奇心と何か話したいことがあるのだと直感的に思い、二つ返事で了承した。ラムさんはほっとしたような顔で、ありがとうございますと言った。どんな接待が待ち構えているのか、どんな話をしてくるのか、お金のことでなけれのことでなければどんなことでも協力できるが、、、会社に着いて別れる前に、ラムさんのアパートの名前を聞いた。近くの川沿いのOO荘という令和には馴染まないその名前が、勝手に憐憫の情を沸き立たせた。没落以来初めての会食ということもあり、テンションは準備が万端に近づくに連れて上がっていった。Google Mapで確認すると、歩いても10分ほどで着く距離だった。少し早めに出て、近くのコンビニでビールを半ダース買って持っていくことにした。日本人として、また客人として礼を尽くすのは当然のことだ。目には目を、礼には礼を、だ。
10分もたたないうちに目的のOO荘に着いた。見事に塗装が剥がれた外壁には、所々ヒビが入り、重たい雰囲気を醸し出していた。1階と2階に3部屋ずつあり、2階の一室がラムさんの部屋らしい。ドアは開け放たれていた。錆びた階段は、足を進めるたびに悲鳴のような鈍い音を立てた。音を聞きつけたのか、ラムさんが入り口から顔を出した。
「いらっしゃいませ!さぁはいってください!」
僕は買ってきたビールを渡して、ラムさんと握手した。狭い玄関には、靴がびっしり詰まっていた。汚れて、踏み潰されている靴が乱雑に。玄関から入ってすぐキッチン兼廊下があり、キッチンの反対側に浴室と便所がある、よくある古いアパートの間取りだ。奥の部屋にもう一人いるのが見えた。ラムさんだけだと思っていたので少し驚いたが、それを察知したのかラムさんが言った。
「ぼくの、るーむめいとの「クン」です。」
まだ若く、刈り上げられた髪と右手の甲まで拡がったタトゥーを持ったクンというその青年も笑顔で僕に挨拶してきた。どこか怯えたような影があるが、少女漫画で描かれるようなキラキラした目が印象的だった。部屋の真ん中には鍋が置かれ、その周りに野菜や鳥や豚の肉や麺が綺麗に並べられていた。グツグツ煮られている鍋のスープは赤みがかっていて、辛そうな湯気を出していた。3人で鍋を囲むように陣取ったところで、ラムさんがビールを配った。
「きょうは、きてくれてありがとうございます。それでは、のみましょう!乾杯!」
各々が缶を開け、缶をぶつけ合った。僕は緊張をほぐすために一気に飲み干した。それを見た二人も、まるでそうしなければいけないかのように一気に飲んだ。その後は、ラムさんが鍋奉行になり、この場を仕切った。僕を客人としてもてなそうとしてくれる姿勢がとても心地よかった。ビールを一気飲みしたことで、お見合いのような堅苦しい雰囲気も飛んでいった。僕はまずクンさんのことを知らなければ、と思い色々と質問をぶつけた。なぜ日本に来たのか、いつ来たのか、家族構成はどうで、好きな日本食は何か、など少しずつ聞いていった。クンさんはそんなに日本語が上手でないので、ラムさんが通訳したり、Google翻訳を使ったりしながら、ビールの缶で乾杯を挟みながら、僕たちは親交を深めていった。驚いたことに、クンさんはまだ20才で、今年の1月に日本に来たばかりだった。今年はずっと入国制限があったはずだが、ちょうど緩和されたタイミングで来日することができたらしい。ラムさんと僕とは違う、近くのとびの会社で仕事をしているらしい。父は早世し、兄弟はなく、母を一人、故国に残しているようだ。母が100万円以上借金をして、彼を技能実習生として日本に送り出してくれた、と。女手ひとつで育ててくれた母に、家を買ってあげたくて、日本に来たのだと言った。僕は素直に感動し、会えていない自分の母のことを想った。
「すごい、すごいよ。あなたたちは。家族のために日本に来て、毎日頑張って仕事をして、お金を送っているなんて、本当にすごい!」
僕は思ったことをそのまま口に出し、心から彼らを称賛したつもりだった。
「ちがう、すごくない、すごくない」
とクンさんは予期しない否定を僕に投げつけた。戸惑う間もなく、彼はベトナム語でラムさんに話し始めた。早口に聞こえるのはこの言語特有のリズムだろうか。ラムさんもわかっている、わかっていると言ったような様子でクンさんを制しながら聞いていた。どちらも顔が赤い。少し興奮した様子で話し終えると、クンさんは顔を手で覆って俯いた。この急展開に、クンさんはまだ若いし、母親の話でホームシックにでもなったのかな、と僕は思った。空気がぐっと重くなった気がした。そしてラムさんは僕の方を向いて話し出した。
「おどろかせて、すみません。くんさんは、4月からおかあさんと、れんらくをとってません。くんさん、じっしゅうから、にげました。」
実習から逃げる?よく意味がわからなかったが、ラムさんの言うところによると、クンさんは2月から福岡県の解体工事会社で実習を開始した。しかし、長引く不況の影響もあり、また、来たばかりで日本語能力が低い、と言う理由で大手ゼネコンの現場に入ることができず、初月から出勤日数が雇用契約書の条件よりも少なかった。手取りは8万円ほどで借金の返済を考えると、ないようなものだった。3ヶ月間この状態が続き、祖国の母からも強い口調で責められることも多くなったため、3回目の給料日の翌日、彼はその会社の寮から逃げ出したのだった。それ以来、母とは一切連絡を取っておらず、各地を転々としながら、ここに行き着いたのだった。母は心労で入院したと人づてに聞いたと涙していた。約半年の逃亡生活?のような日々はクンさんの心の安定を奪っていったようだ。今のビザのままでは、捕まってしまうかもしれない、そんな恐怖の隣人として過ごす毎日、この輝く目をもった未来ある若者が過ごすにしては、あまりにも過酷なこの日々。僕は言葉を出せなかった。追い討ちをかけるようにラムさんが言った。
「わたしも、おんなじです。」
驚きよりも悲しみが深かった。屈託ない笑顔で、愛する家族のためにどんな仕事でも一生懸命、他の実習生とは違い、日本語まで勉強して上達しているラムさん、彼についていた暗い違和感の正体が、今僕の前に現れた。
ラムさんは鹿児島のとびの会社に入った。毎朝6時に土場に集合し、積み込みなどの準備を開始する、それから現場に出発し、8時から仕事、17時に終わってから、また土場に戻り、荷下ろしや片付けなど、20時や21時まで仕事をする毎日だったそうだ。もちろん残業代は計算されない。一緒にベトナムから来た同僚たち2人は1年目で耐えかねて、早々に失踪した。しかしラムさんは、そんな中でも、家族のため、と頑張って働いていたそうだ。この厳しい生活も2年が過ぎ、実習生として最後の年を迎えた昨秋、今まで仕事だけは絶えることなくあった会社に、急に仕事がなくなってきた。出勤日数が目に見えて減り、手取り給料も当然減った。会社や組合に窮状を訴えたが、なんら変化の兆しは見えず、このままではベトナムに残す家族に影響が出ると思い、以前失踪した元同僚を頼って、鹿児島の地を後にしたそうだ。送金以外でコツコツ貯めていた貯金は手引きした人間に全部支払った。
これが、いわゆる失踪の経緯らしい。失踪後の生活も悲惨なもので、元同僚のしていた解体工事のバイトも2ヶ月でやめ、その後はFacebookで知り合った同じ境遇のベトナム人たちの情報をもとに、埼玉・三重と転々とした。給料も振り込みでもらうことはできず、手渡しなので、辞めた月の給料などはもらえないこともあった。失踪している身なので、警察や労基に行くこともできず、泣き寝入りするしかなかった。そして2ヶ月前に、同じ境遇として知り合ったクンさんに中島さんを紹介してもらい、現在に至るということだった。
予想もしていなかった告白は僕を興奮させた。こんな理不尽な扱いを受けていた彼らが、どんどん窮地に追い込まれていく、不公平な取引の連続、自国でこんなことが起きているなんて耐えがたかった。小学生の時、いじめっ子を背後から叩きのめした以来ずっと潜んでいた正義感が、久方ぶりに現出した。
「わたしは、たすけを、ひつようとしています。あなたは、あたま、いいから、わたしたちを、たすけてください。」
酔いはラムさんの悲嘆を増幅させていた。クンさんは項垂れたまま、新しいビールの缶を開けた。こんな不公平が起きていいはずがない、先進国日本の誇りにかけて、僕は彼らを助けるために尽くそうと思った。
「大丈夫、僕がいろいろ調べて、たすけられる道を探すよ、安心して。」
そう言ってから、景気づけに再び乾杯をした。ぐいっと飲み干して、僕は自分の左胸を叩きながら、大丈夫、大丈夫、任せておいて。と何度も言った。心からの気持ちが、そんなジェスチャーを繰り返させていた。
締めの料理は、焼きそばを煮えたぎる鍋に入れてほぐしたものが振舞われた。彼らはラーメンと呼んでいたが、パッケージにははっきりと焼きそばと書かれていた。おいしい、おいしい、と互いに声をかけながら食べていると、本当においしく思えてきた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。」
何度も頭を下げながら二人は僕をアパートの下まで送ってくれた。僕の姿が見えなくなるまで、目いっぱい手を振っていた。酔った頭を回転させながら、僕は帰路についた。
翌朝、軽い頭痛を伴う気怠さと共に目を覚ました。昨晩の、異世界に転生したかのような非日常的な体験は、未だに心に興奮の炎を残していた。そうだ、彼らと約束したのだ。何か彼らの助けになれる情報を集めなければ。近くの自販機にブラックコーヒーを買おうと外に出ると、曇天の空からは今にも雨が降り出しそうだった。カフェインが身体にしみわたり、脳にまで達する。ノートを取り出して、昨日聞いた情報を整理しながら想いだし、書き連ねていった。
ラムさん 2018年9月に入国 2020年の9月に失踪 現在のビザは技能実習2号ビザで期限は今年の9月24日、あと1か月余りしかない。
クンさん 2021年1月に入国、4月に逃げ出した。現在のビザは技能実習1号ビザで、期限は1月の20日。入国から失踪までの期間が短い、、、この文章だけ見ると逃げ出すために日本に来たのではないかとも思えてしまうが、クンさんと実際に会って、窮状を聞いている僕にはわかる。彼は親ガチャならぬ、企業ガチャではずれを引いたんだ。ただそれだけなんだ、と。
昨日送ってもらった彼らの在留カードの写真を見ながら書いた。1号や2号など仮面ライダーみたいだ。3号や4号もあるのだろうかと気になって調べたら、3号までしかないらしい。就労制限の有無、という欄には、在留資格に基づく就労活動のみ可、と書いてある。在留資格とは技能実習1号や2号のことはわかったが、これに基づく就労活動とはいったい何なのだろう?普段目にしない単語の連続は思考を停止させかけた。それを呼び起された正義感が再び始動させた。Googleで在留資格に基づく就労活動について調べてみると、技能実習ビザの場合は、実習を受けると最初に決めた会社での就労という意味だということがわかった。つまり、失踪する前に働いていた企業でしか働くことができないということだ。二人とも、在留資格の期限はまだ残っているが、現在働いていることは違法ということになる。それは本人たちも、今思えば、会社もわかっているようだ。
ということは、彼らを助けるには、① 前の企業で実習に戻る ② 現在の在留資格を変更するの二択になる。①は、そもそも彼らが失踪しなければならなかったような環境に再び戻る、ということは現実的でないし、彼らも望まない。となると、現在のビザを変更するしかない。とるべき道は明らかになったが、そこに至る方法が全くわからない。
蛇の道は蛇、こうなれば専門家に助言をもらうしかない。外国人 ビザ 変更 と検索すると上から順に行政書士やら弁護士やらのウェブサイトが我先にと出てきた。
外国人のビザ変更手続きのことなら OO行政書士事務所にお任せください!
累計実績1万人突破 ビザ専門家集団 OO行政書士法人。。。。
広告をかけて上位に表示されているウェブサイトはなんとなく信用できないから、それを避けてスクロールしていくと、この寮の最寄駅からすぐそばの石田行政書士事務所のウェブサイトを見つけた。無料電話相談実施中と書いてある。さっそく電話をすると、
「はい、石田行政書士事務所です」
と滑らかだが、どこか違和感のある日本語で受付の人が答えた。ビザの専門家だから、スタッフも外国人を雇っているのだろうと思いつつ、石田先生に相談したいことがある旨を伝えた。現在のビザは何ですか?と聞かれ、自分のことではないが、と思いつつも技能実習2号です。と答えた。少々お待ちください、と言うと同時に保留音でパッヘルベルのカノンが流れた。
「はい、石田です。現在技能実習ビザということですが、特定技能ビザへの変更を希望ですか?」
「あ、いえ、すみません。私の友人たちなのですが、その特定技能とかはよくわからないのですが、ビザを変更したくて。。。技能実習から失踪して、今もそのビザのままなのです。」
「失踪?」
軽い落胆が電話越しに伝わった。
「失踪ですか、ベトナム人ですよね?そうなるとビザの変更は、通常はできませんがね。そのご友人たちの日本語能力はどうですか?」
「一人は3年近くいるので、結構できます。もう一人は今年来たばかりなのであまりうまくはありません。」
と聞かれるがままに答える。
「今年来たばかりで失踪したのですか、それは問題児ですね。その結構できるほうはN4相当ありそうですか?」
「N4ですか?すみません、全然そういう専門用語わからなくて、、、」
「日本語能力検定のことですが、まあいいです。今はコロナ禍で帰国便が飛んでいませんからね、特別に短期滞在ビザというのがもらえますよ。失踪した人でも、誰でもね。」
「そうなんですか!誰でもですか!」
「そうですよ、今は鎖国状態ですからね、特別に発給されています。まずは入管に連れていくことでしょう。そこで帰国したいが、帰国できないと伝えると、その日のうちに出るはずです。そうしてから、日本語の出来る方を私の事務所に連れてきてください。もしかしたら特定技能ビザの要件を満たすことができるかもしれないですからね。」
「ありがとうございます!すぐに入管に連れていき、その短期滞在ビザをとってみます。」
専門家のなんと心強いことか、そして長く続くこのコロナに初めて感謝するような気持ちがわいてきた。
「そのビザが取れたら、必ず先生の所に連れていきますね、必ずです。」
「お役に立てて何よりです。入管法22条の4が適用されていなければよいですがね」
と先生が言っているときには、僕はお礼とビザ取得後に必ず連れていくということを繰り返して電話を切った。きっとその特定技能ビザを取得するときには、先生に何か旨味があるのだろう。求めていた情報をまさに提供してくれた石田先生には感謝しかない。必ず約束を守ろうと思った。
不法滞在ではないが、仕事はしていけない、だがビザはある、という量子のような曖昧な状態で、日本で生活するというのはどれだけの苦難か。あえて狭き門より入る苦難。
急いでこの情報を二人に伝えたいと思い、ラムさんに電話をしかけたが、ワンコールもしないうちに切った。会って伝えよう、会って伝えたいと考え直したからだ。時計の針は正午を指していた。僕は部屋の鍵も掛けずにラムさんの家に向かった。
ラムさんのアパートのドアは相変わらず開いていた。空調機を使わないから、少しでも風が抜けるようにしているのだろう。古き良き昭和の時代が顔を出す。ラムさーんと下から声をかけて、悲鳴を上げる階段を駆け上った。相変わらず乱雑とした玄関には、昨日の空き缶が資源ごみの袋に詰められていた。玄関と何ら境のないキッチンで、ラムさんは料理を作っていた。クンさんはまだ寝ているようだ。
「こんにちは、ごはんいっしょに、たべる?」
こんな厳しい状況下でも、屈託など一切ないこのラムさんの陽気さが僕は好きになっていた。僕は全然食欲ないから、とやんわり断った後、そんなことより、と僕は今なら全てのベトナム人に、短期滞在ビザというものが与えられること、それがあれば今の曖昧な状態から抜け出せること、このビザを取ってから、他のビザに切り替える道を探せばよいこと、この話は、ビザの専門の先生から聞いたことを説明した。ラムさんの日本語能力なら、日本語検定というものを受ければ、違うビザが取れるかもしれないことも伝えた。
何度も、必要以上にうなずきながら聞いていたラムさんの顔には、疑心の色があった。
「それは、べんごしのせんせいが、いってたのですか?」
弁護士ではなく、行政書士だったが、説明がややこしくなるので、僕はそうだと答えた。どちらも先生と呼ばれるし似たようなものだ。
ラムさんはそのビザのことは、Facebookなどで見て知っていたが、自分が入管に行くと捕まってしまうと考えていたらしい。寝ぼけたクンさんにベトナム語で説明すると手をたたいて喜んでいた。僕も嬉しく、誇らしい気分だった。僕も一緒に行くから大丈夫だ、と安心させて、すぐ入管に行ける日を調整するように指示した。ラムさんから中島さんに電話すると、月曜日はもう仕事が入っているから駄目だと言われたが、火曜日なら二人とも休んでいいと言われたので、3人で火曜日の朝から入管に行くことにした。もうラムさんに潜む暗鬼は姿を消していた。喜びと期待が部屋中に満ちていた、初めての遠足のように火曜日が待ち遠しく感じた。停めていた火を再びつけて、ラムさんが料理を再開した。僕は帰るといったが引き止められ、ラムさん特製のチャーハンが振舞われた。味の素とナンプラーをふんだんに使った濃い味付けに、舌も驚いていたが直に慣れた。昨晩のように外まで送ってくれた。途中、雨が降り始めた。シャワーのように心地よい小雨だった。
火曜日が来た。日曜日から引きずられるようなあいにくの悪天候だったが、心は晴れやか。月曜日の朝のうちに、どうしても火曜日に休みが欲しいことを部長に伝えると、理由を聞かれたが、適当にごまかした。ぶつぶつ言ってはいたが、ここまで真面目に労働者をこなしてきた僕の権利を妨げることはできないと観念してくれた。僕の旅立ちの日もあと3週間に迫っていたが、それが霞むくらい今日という日は特別だった。
8時にA駅で待ち合わせの約束をしていたが、僕は早めに寮を出た。A駅には集合時間の10分前についたが、すでに改札の前で二人は待っていた。僕の分の切符も買ってくれていた。お金を渡そうとしても、いい、いいと断られた。朝の通勤時間ということもあって、駅には大勢の人がいた。電車の中は満員というわけではないが、座れないほどだったので、僕たちは無言で電車に揺られた。
目的の駅から徒歩十分ほどの距離に名古屋出入国在留管理局がある。存在はかろうじて知っていたが、日本国民である自分がお世話になることはないので気に留めていなかった。電車から降りると雨は激しくなっていた。携帯でマップを確認しようと思ったが、駅には多くの外国人がいて、みな目的地は同じようだった。見るからに陽気そうな南米人、ヒジャーブで顔を覆ったムスリムであろう女性、どこかの英会話教室で英語の先生でもしていそうなオーストラリア人に野球帽をかぶった東南アジアの人、ざっと見るだけで多種多様な人々がいて驚いた。こんなに多様性がある駅も市内ではここくらいだろう。入管に向かう一団に追従しているときに、ラムさんが聞いてきた。
「びざ、もらえるかな?」
かならずもらえるよ、と僕は短く返した。ラムさんは不安そうな顔を引き締めて前を向いた。
線路沿いの高架下を抜けると、巨大な、要塞のような建物がみえてきた。高さは4階か5階くらいだが、前面に窓がぎっしりと詰められ、刑務所のような威圧感がある。実際、不法滞在の人たちを収監する施設も兼ね備えているのだろう。島国日本を不法移民から守る強固な砦、この威圧感に二人も圧されているように見えた。駐車場はもう一杯で、待っている車で長い列ができていた。当然建物の中も外国人で満たされていた。案内は多国語で書かれていたが、どこへ行けばよいのかよくわからなかったため、正面の部屋に入った。区役所のような作りで、住民票を取得するときのように、立って申請用紙を記入できるようなカウンターが至る所にあり、受付には列ができていた。まず受付で申請の方法を聞かなければと思い、二人を連れてその列に加わった。
「すみません、技能実習生だったんですけど、訳あって失踪してしまって、短期滞在というビザをもらいたいのですけど」
クールビズに準拠した涼しげなスーツを着た中年の男性にそう告げると、
「短期滞在への資格変更ねー」
と事務的な口調で手際よく申請書類を出してきた。失踪の理由など根掘り葉掘り聞かれるのかと構えていたが全くそんな雰囲気ではなかった。
「2名ね、二人とも同じ?じゃあこの変更届を書いて、うん、ここに書き方の例もあるから、よく見て書いてね。それで、バイトはするの?うん、じゃあこれ、資格外活動許可の申請書も書いてね、これもここに書き方が載ってるから。書けたら2階の窓口に持って行ってくださいね。」
はい次!という感じで手際よく、一気に必要な情報だけを押し込められるように僕たちは列の外に出された。近くのカウンターは全部埋まっているため、部屋の外のカウンターを使うことにした。渡された紙をみると、「在留資格変更届け」と「資格外活動許可申請」が共に3枚一組で、それぞれにまた3枚一組で、赤字で記入例が記されていた。項目は、在留カードの情報からパスポートの情報まで大量にあったが、ラムさんは自分で書くことができたので、僕はクンさんの代筆だけすることにした。在留カードとパスポートを見ながらまず在留資格変更届を記入していく、最後のページは変更の理由を書かなければいけなかった。これは少し考えて書く必要がある、と思い記載例を見てみると、赤のローマ字でKORONAと書かれているだけだった。なるほど、そういうことか。と今石田先生の言っていた意味を理解した。コロナが理由で簡単にビザが取れるというのはこのことかと、入管側も膨大な、手書きの申請に対応するために、KORONAという魔法の言葉で手続きを簡略化しているのだ。記入例通りに在留資格変更届を書き終え、資格外活動許可申請に目を通すと、在留資格変更届とほとんど同じ様式で、題名のほか若干の違いしか無いようにみえた。さっきより雑な字で急いで項目を埋めていった。先ほどから姿を消していたクンさんは、3本の缶コーヒーを持って帰ってきた。代筆の感謝の気持ちをわかりやすく表現したかったのだろう。やはり最後のページは資格外活動が必要な理由で、こちらも記載例には魔法の言葉が一字書かれているだけだった。
あとは証明写真を撮って、申請するだけだ。二階に上がると、ここしかないだろうと誰が来てもわかるように申請の大部屋があり、ここも雑多な人たちの列で溢れていた。二階には結構な割合でスーツを着た日本人も見受けられた。石田先生のようにビザを生業とする人たちなのだろう。階段を上がってすぐ小さなローソンがあり、証明写真の機械もみえた。その奥にイートインスペースのような広めの休憩所があったので、僕はそこで待っていることにした。二人は生き生きとした表情で感謝の言葉を述べながら、証明写真の小さな列に並んだ。全てがうまくいった気がした。思いもよらない形で、他人のためになることができたことに普段ない満足感があった。幸福感といってもいい。そんな心地よい感覚に浸っていると、休憩所を囲むガラス越しから、二人が申請の長い列に加わるのが見えた。手を振る二人に、手を挙げて答えると、安心感からか急に眠気が襲ってきた。僕は机に身を突っ伏して少し眠ることにした。高校生が授業中に眠るときに取る、あの姿勢で。。。
「ちょっと、おきてください。たすけてください。よくわからない。きてください。」
ラムさんが早口で僕をゆすりながら言った。その声は震えていて、目覚めた僕は何が何だかわからなかった。よだれがついた手をズボンのお尻のほうで拭いた。クンさんはいない。真っ青になっているラムさんの顔が、何か、想定していない事態を物語っていた。速足で歩くラムさんについて大部屋に入った。プロ野球の観客席のような椅子がずらっと並び、1席ごとに感染対策の張り紙が貼られている。カウンターにはラムさんと一見して厳しそうな風格のある背の高い男性職員が話をしていた。
「あなたは、この方たちの監理団体の人ですか?」
「いえ、違います。僕は彼らの友人で、付き添いできました。何か問題でもありましたか?」
「ああ、そうですか。こちらの人はこの手続きで問題ないですがね。もう少し待っててもらいます。そちらの人は別の手続きになりますから。ちょっとこちらに来てもらいます。」
そういうと職員はラムさんを誘導しながら、角にいくつかある個室の方へ向かっていった。
「違う手続きって、ラムさんはどうなるんですか?ビザはもらえますよね?」
矢継ぎ早に質問をしながら二人についていこうとすると、男性職員にさえぎられた。
「本人だけです、あなたは関係ありませんから。」
地下鉄のホームに、ぽっと突き落とされたような感覚だった。関係ない。冷たい現実の存在を感じた。ラムさんは助けを乞うような目で一瞥し、観念したように職員の後を追った。細身の背中は、花瓶の中のしおれた花のようだった。
クンさんは言われたことを理解しているようで、嬉しいのとラムさんがどうなってしまうのかという不安で複雑な表情になっていた。
「ラムさん、だいじょぶですか?」
わからない、という仕草をして僕たちは近くの椅子に座った。何も手につかなかった。あの職員の厳しい態度には冷酷さすら感じられた。そしてその色ごく残った記憶が、心の内から不安を湧きあがらせていた。急転直下、今はもう悪い予感しかしなかった。クンさんはよくて、ラムさんはダメ、どこに何の違いがあるのかさっぱりわからない。どうなるのか?強制送還?聞いたことがある、割高の航空機で強制的に帰国させられ、その費用はしっかり後々まで取り立てられると。お金を稼ぐために日本に来たのに、むしろ借金を負わされて帰国するなんて、想像もしたくない。それとも入管の施設に収容されるのか?スリランカ人が酷い目にあって亡くなったこの場所に?刑務所と違い、刑期を満了しなくても出ることができる可能性が高い分、その可能性に関わることを入所者が申告すると、看守は疑う動機ができる。負の連鎖、小手先だけの改善では何も変わらない、構造上の問題を抱えたこの施設に収容されるのは、何にも増して酷いものに思えた。ラムさんの連れていかれた部屋の方では何事もなかったかのように職員たちが動いている。個人にとっての非日常的な体験も、組織の日常に簡単に飲み込まれる。ラムさんが出てくる気配はない。
「28番、28番、短期滞在のライ・チー・クンさーん」
職員が28番という番号の書かれた紙を頭上に掲げながら、マスク越しに声を張り上げた。クンさんは立ち上がり、その職員の下に行くと、カウンターに連れていかれた。まもなくするとはにかんだような笑顔でクンさんは戻ってきた。その手にはパスポートがあり、その中には短期滞在90日間というスタンプが押されていた。帰国を前提としているビザだが、これでもう不法滞在になる心配はなくなったし、資格外活動として28時間の労働も許可されている。この猶予の間に、クンさんは他の、中・長期滞在できるビザの取得に努めればいい。以前持っていた在留カードには穴があけられていた。
僕たちは無言で待った。ラムさんを連れて行った職員が外に出てきた。刑務官のような制服がよく似合う。人は制服通りの人間になる、というボナパルトの言葉が頭に浮かぶ。続いてラムさんも出てきた。ひどく気落ちしているのが遠目からもわかった。ラムさんは誘導されるがままに、大部屋から外に出ていった。僕とクンさんはそれを追いかけていった。階上から、二人が一階の入口左側にある部屋に入っていくのが見えた。OOOOO部屋と書かれている。学校の教室くらいの部屋に、相変わらず野球の観戦に利用する椅子が並べられている。5組の外国人が中にはいて、一人で座っているのはラムさんだけだった。そこに僕たちも突入した。
「ラムさん、どうなってる?」
観念した罪人のように気落ちしたラムさんが無言で手にしていた紙を渡してきた。在留資格取消通知書と題されたその紙には、出入国管理及び難民認定法第22条の4により、5月の15日付でラムさんの在留資格が取り消されたことを通知していた。90日以上、在留資格に基づく活動をしていなかったこと、そして入管からの意見聴取通知書にも応じなかったことが理由として記載されていた。
ひどい実習環境から、失踪以外の選択肢のなかったラムさんに、こんな不公平な裁定が下るなんて信じがたかった。重い沈黙が流れていた。他の外国人たちも同じような状況で、そのような人たちを専門に扱う部屋なのだと、今更気付いた。無言しか似合わない空間。ラムさんを無責任に連れてきた自分を恥じた。
「グェン ヴァン ラムさーん」
先ほどの職員とはまた違う、若く背の高い、人のよさそうな男性職員がラムさんの名前を呼んだ。
「はい」
と僕は無意識に返事をした。ラムさんを連れて職員の所に行くと職員も僕の存在に対して困惑した表情を浮かべていたので、
「私は彼を支援している支援団体の者です。彼が意見聴取通知に応じられなかったのには理由があるのです。ぜひ説明させてください!」
僕は無我夢中で口から出まかせを走らせた。2階の職員に冷たく言い放たれた、あなたは関係ありませんから。という言葉がまだ胸に刺さっていた。
「そうですか、では上席の者に相談してきますので、少し待っていてください」
意外に話が通じたことに驚いた。重い扉を開けて職員は中へと戻った。話を聞いてくれるかもしれない、取消も撤回できるかもしれない。淡い期待が胸をよぎる。すると次は、スキンヘッドの、先ほどの職員の上司と思われる職員が出てきた。いかめしいオーラが前面に出てる、いやあえて出しているような人だ。軍隊のように胸を張って直立のまま僕の方を見て言った。
「あなたですか、グェン ヴァン ラムさんの件で話がしたいというのは」
そうです、と言いながら立ち上がると、それでは中へ、と扉の中に通された。予期していなかったことに心臓は高鳴った。狭い廊下の右側には間隔をあけて扉があった。奥は学校の職員室のように多くの事務員でごった返していた。僕は2つ目の扉から、ドラマで見る警察の取調室のような部屋に誘導された。
「あなたはグェン ヴァン ラムさんの支援団体の人だとか」
両肘を机の上につき、威厳を保ちながら上席の男は話した。
「そうなんです、私は劣悪な環境下から失踪してしまった実習生を支援している国際協同組合の職員で、彼の短期滞在ビザを取るために同伴してきました」
僕はわざと興奮したような様子で話した。下手な嘘から職員の注意をそらしたかった。
「そうですか、それで話とは?」
僕は早口気味でラムさんの失踪に至る経緯と今日ここに来た経緯を話した。前の職場の労働基準違反ともとれる待遇に耐えきれなかったこと、その後どうしていいかわからず友人の住処を転々としていたこと、まだ幼い子供と多額の借金を祖国に残していること、専門家の先生の指示で今日ここに来たこと、僕が話している間、上席の男は、驚くほど静かに、時折相槌を打ちながら、しっかりと聞いてくれた。もしかしたら、決定が覆るかもしれない、そう思えるほどだった。小学生の時、音楽室で見た、穴の開いた防音仕様の壁が使われていることに気付いた。
「あなたの話はよくわかりました。殊勝なことですね、こういう立場の外国人を支援するというのは。滅多にいない、滅多にいないですよ、本当に」
ゆっくりと暖かい南風のような言葉だった。僕の期待は頂まで運ばれていった。
「しかし、私たちではこの取消の決定を変えることはできません。ただもし意義があり、この決定に不服なら・・・・・」
すべての期待や希望が去っていった。初めからわかっていたのかもしれない。だが、この目の前の、制服と役職通りに威厳を持つこの人に言われてようやく悟った。いくら駄々をこねてもほしいおもちゃを買ってもらえないと気付く子供のように、僕は敗北を感じ取った。2階であの職員が言ったのは真実なのだ。僕は関係ない、関係ないものには何もできない。関係がないのだから携われないのだ。
上席の男は、入管法に基づいた異議の申し立ての方法、その場合の手順や大体のスケジュールなど丁寧に説明してくれていた。1年以上かかる道のりになるでしょう、とも言っていた。その間、ラムさんはどのように生きていけばいい?誰が生活の面倒を見て、借金は誰が返していく?現実の可能性の中にある非現実世界だ。
「今回は退去強制という手続きなので、これに従って帰国すればまた日本に来ることもできるので。今回は諦めて、また日本に来る手助けをして上げたほうがいいと思いますよ」
立ち上がり、出口まで案内しながら上席の男は言った。気落ちしている僕を見て心底同情してくれているようにも見える。職責を全うする正しい市民、彼らのおかげで島国日本の治安は守られる。現代の防人なのだ。部屋から出ると最前列にラムさんとクンさんは座っていた。二人を隔てるソーシャルディスタンスが、現実を表しているように見えた。天国と時刻、光と影、帰国と滞在、二つの相反する言葉が、状況が二人にはあった。
「どうでした・・・か?」
「だめだね、もう変わらないって」
「・・・しょうがないね」
ラムさんから落胆や悲しみの色は褪せていた。ありがとう、ありがとうと言って僕の体を軽くたたいた。感謝の念を伝播させる心地よいボディタッチ。沈黙のまま僕たちはただ座っていた。携帯も触らない。そのうち背の高い職員に呼ばれてラムさんが再び中に入っていった。通訳を入れて、今後の手続きの流れを説明されているのだろう。ラムさんが戻ってきて言った。
「さあ、帰りましょうか」
予定していたビザではなく、退去強制と書かれた紙を手にもって。2週間以内に、帰国便のチケットをもって再出頭しなければならないらしい。外は変わらず雨が激しかったが、沈黙しかできない僕にはありがたかった。来た道を通って、僕たちは黙って帰路に就いた。
駅からの帰り道僕たちは帰り道で解散した。アパートに寄ろうとも思ったがもう日も暮れていたし、雨は相変わらず降り注いでいたのもあって、次の日の仕事のことを考慮した可能性もあったかもしれない、ただ、まだなんとなく話したそうにしていたラムさんの希望に沿わないことを感じながら、僕は二人と握手して別れた。ラムさんとは、それが最後の別れとなった。次の日、ラムさんは当欠した。いつものように事務所に出社すると、作業服だらけの集い場に似つかわしくないスーツの初老がいて、それが誰か分かった時、すぐにラムさんのことだと気づいた。部長は案外さっぱりと代わりのフーと一緒に行ってくれ、と言ってこの問題を解決した。この会社では日常茶飯事の問題なのだ。
「うちはね、従業員の責任で勝手にやめていく奴らには厳しくしてるんですよ。大体あいつらはすぐに恩を忘れて、挨拶の次には金の話ですからね。もうほんとに今回も、往生こきましたよ。」
古株作業員相手にそんなことをつらつらと話していた中島さんの肉声を初めて聞いた。この古株作業員は、自分が上司のように振舞うことで、他の作業員、特に外注から嫌われている。スーツの男と、自分だけ話が出来ていることが愉快で仕方がない、朝から幸福な古株。僕はまだ整理ができなかった。どこかに行った?昨日の夜のうちに?なぜそんな急に出ていく必要があったのか、全く理解できずにいた。その日の単純作業中、新築マンション建設現場内の清掃中もずっと理解できずに思考の迷路にさまよっていた。あっという間に一日が過ぎた。帰りにラムさんのアパートに寄った、フーにはチョコアイスを買い与えて、この私的な寄り道を許可してもらった。部屋のドアは閉まっていて、ノックをしたけど返事がなかった。明かりも灯っていない。まさかクンさんまで出ていったのか?いや、そんなはずはないと思った。ビザも取れて、わざわざ、こんな急に出ていく必要があるわけがない。その自分本位な推理の下、僕はこの日からシドニーに旅立つまでの3週間の間に4度か5度、クンさんの家のアパートを尋ねたが、常に留守だった。回数を重ねるごとに、僕も自分の新たな旅立ちに気が向いていき、彼らのこともあまり考えないようになった。考えても仕方がない、出会いがあって、交流があって、別れがある。これからも経験するし、これまでも幾度となく経験してきた人間の営み。
退社の日が来た。みんなが毎日のように、昨日と、先週と、去年と同じように、6時に集合するとき、僕はバックパックを背負って寮を出た。4ヶ月近く懸命に働いたというのに、別れはあっさりとしたもので、最後の給料を現金で渡すと、がんばれよ、と言って送出された。お前みたいなやつは珍しい、とも最後に言われた。昨日航空券とワーホリのビザを見せるまで、信じていなかったらしい。自分自身を再生させる旅の始まり。本を目一杯詰め込んだバックのショルダーストラップが肩をえぐる。近所の駅からハブになっている総合駅に行き、そこから空港直通のスカイラインに乗って、踊る胸を抑えながら、空港に向かう。新たな旅への祝福をやめることはできなかった。出発は午前11時半、現在時刻はまだ8時、全てが順調に滑りだしている。 国際線のターミナルは、ちょうど出国が緩和されている時期ということもあり、賑わっている。ターミナルには、人の心を浮き上がらせる魔法がかかっていると僕は思う。早めのチェックインを済ませて、出国審査に向かう。シドニーまでの直行便は長い道のりになるだろう。搭乗口付近のベンチには、まだ人がまばらにしかいない。ここまで来れば、何があっても乗り遅れることなどないだろう。珈琲でも買おうかと思ったが、少ない手持ちを浪費するべきでないと自身を諫め、搭乗口から少し離れた、テレビの見えるベンチに腰をかけた。初老の夫婦が2個前の列に間をあけずに座っていた。初日に泊まる場所も、今後働く場所も何も決めていない。それでいいし、それでも生きてやっていける自信があった。
「次のニュースです。昨夜遅くにOO市の中島茂雄さん宅で起きた強盗致傷事件で、犯人とみられるベトナム人の男、グェン ヴァン ラム 容疑者がOO市駅近くの路上で逮捕されました。 グェン ヴァン ラム容疑者は、盗みに入った民家で、家主である中島さんと鉢合わせ、持っていた刃物で刺して、何も取らずに逃亡していたということです。取り調べに対し、グェン ヴァン ラム容疑者は、給料を取りに来ただけ、と一部容疑を否認しているようです。容疑者は技能実習生として来日し、その後失踪し、在留資格が取り消されている状態だったとのことです。警察は、中島さんと容疑者の間に何らかのトラブルがあったとみて、捜査を開始しています。」
警察車両に乗ってうつむいている男の面影は完全に僕の知っているあのラムさんだった。いったい何が、、、整理のできない情報が突然目の前に現れた。
「こいつらは、ビザを取って悪さして稼ぐために日本にきてるんだ。日本の治安がどんどん悪くなっちまう。人の家から金を盗もうとして、給料だって?恐ろしいったらありやしないな。野蛮な連中を入国させる政府が腐っとる。」
「そうよねぇ、ほんとに怖い世の中になったわ」