行商人ミツ
「――ドミノさん、聞いてくださいよ。例の皮のジャムがすっかり別物になっちゃって……!」
たまたま事務所に居合わせたアナちゃんからそんな話を切り出される。
ああ、ハンス君また事務所に来たんだ。
生まれ変わったジャムの試作品、アナちゃんにも食べてほしかったのかな。
――皮の材料が変わっったことで、このジャムはどこに出しても通用するほどの逸品となった。
この冴えわたる酸味と香りはウパの持ち込んだあの果実特有のもの。
そのあまりのおいしさに、アナちゃんは試食用のジャムの小瓶をふたつとも空にしてしまったそうだ。
……つまり、私の試食分までを彼女に食べられてしまったということになる。
まあいいや。私はいつでも店で食べられるからね。
「……で、エステさんってもうここに帰ってきてるんですよね。私、ハンス君にそう伝えちゃいましたけど」
うん、荷馬車いっぱいの荷物と一緒に帰ってきてるはずだよ。
今日あたり、もう浴場施設の内装やり始める気でいるんじゃないのかな――。
**
さて、結局ひと月近く帰ってこなかった相棒のエステの顔を拝みに私も浴場施設へ。
するとそこにはほかにもう一人、昔なじみの懐かしい顔があった。
彼女の名はミツ。夢魔の商人で……あっミツさん、今の「商人」ってとこオープンにしちゃって大丈夫でした?
「いやダメダメ!そこは伏せといて!今の私は何も知らない運び屋のおねえさん!」
――ああ、そうですか。今回も大っぴらにできない品物をこの土地に持ち込んでるんですね。
毎度毎度よく検問突破してこれますよ。そこだけはいつも感心します――。
**
浴場の倉庫には夜のうちに運び込んまれた荷物が乱雑に積まれている。
パッと見た感じ、そのなかには検問に引っかかりそうな怪しげなものはなさそうだった。
荷物の横で雑魚寝をしているのは夢魔の若い男たち。
ああ、やっぱり他所の夢魔は昼間寝るんですね。
えっ、うちらんとこですか。棄児院の子供たち含め完全昼型生活になっちゃってますよ。
ええ、ちゃんと適応できてます。
生活周期なんてその気になれば案外簡単に変えられるもんですし……。
そんなふうにミツさんと世間話に花を咲かせていると、全力で走って来たのか息を切らせて汗だくのハンス君が入ってくる。
エステはここにはいないけど……ああ、ハンス君が用事があるのってエステじゃなくてこの同行者のミツさんのほうだったんだ。
「この子は私んとこの大事な常連さまだからね。はいこれ頼まれてた荷物。今回も重いから気を付けてね」
厳重すぎるほどガチガチに包まれた紙の包みを受け取ると、ハンス君はその荷物を手に飛び跳ねて大喜びしていた。
なんだなんだ、かわいいなおい。これから風呂場の大掃除手伝ってもらうからな。
**
しばらくして、事務所にいるはずのアナちゃんがやってくる。
なんでも、エステが事務所に残していった帳簿に明らかにおかしな数字を見つけたのだそうだ。
確認すると、そこには鍵付きの衣類収納箱が仕入れ数が600個、浴場行きとはっきり記載されていた。
うん、確かにこれはおかしい。ここの倉庫に鍵付きの箱なんて一つもなかった。
「あーいやいや、それ間違いじゃないんだよね。ちょっと待ってて、いま倉庫から現物いっこ持ってくるから」
そう言って、ミツさんが持ってきたのは紐でくくられた6枚組の薄い板。
至るところに切り欠きが入っていて、誰でも簡単に箱の形に組めるような構造になっているという。
そしてそれを証明するかのように、ミツさんは私たちの目の前で実際に箱の組み立てを実演してみせた。
「釘もネジも使わないでいいってのがこの箱の売りなんだよね。まあ、値段相応に見てくれは安っぽいんだけどさ――」
**
「――ドミノさん、この箱いくつか譲ってもらっていいですか」
この新しい箱を見て、雑貨屋の娘であるアナちゃんの血が騒ぎだしたようだ。
彼女の注目したのは組み立て式の箱のアイデアでも木の板のみで細工された簡素な鍵の部分でもない。
こんなものはこの土地の職人でも、少し見ただけである程度は真似できるのだという。
彼女がどうしても持ち帰りたかったのは、この箱に使われている薄い板材である。
なんとこの板材、ただの薄い木板のくせにどの方向に曲げようとしても撓んだりしない。
「あーそれ、合板っていうんだって。極薄にスライスした板の張り合わせみたい」
「張り合わせって……じゃあ、その薄切りのやり方はどうやって。あと糊の材料とか――」
「……ごめんそこまではわかんない。私はただの商人で木工職人じゃないからさ」
アナちゃんはそれを聞いて少し残念そうな顔をしていたが、まあ、たとえ知っていたとしてもミツさんはこんなところで喋るようなことはしないと思うよ。
――組み立て前の箱の束を三つほど抱えて、アナちゃんは足早に浴場を去っていった。
**
「でね、エステから伝言。ドミノが来たらこの箱の組み立て150個ほどやらせておいて欲しいとかいう」
どうやらエステはこの箱を脱衣所の壁面に並べて固定し脱衣籠のかわりとして使ってもらうつもりのようだ。
なら脱衣籠でいいじゃんとも思ってしまうのだが、これで一応は防犯対策のつもりらしい。
だからこその鍵付きなのだと、ミツさんはそんな風に私に説明をしてくれた。
――そして黙々と箱を組み始めること数刻。
この開店準備すらできていない私たちの浴場に予想だにしない珍客が現れる。
「こーんにーちわー! ミツさん、頼んどいた荷物取りに来たんですけど!!」
「あっはーい、今行きま……えっ、だれ!?」
唐突に張りのある元気な少女の声に呼び出され、少し困惑顔のミツさんが外へと向かう。
その聞き覚えのある声色に私も一瞬思考が止まったが、すぐさま我に帰ってミツさんを制止。
彼女には中で話をさせますと伝えると、私はその少女を屋外から屋内へと強引に引っ張り込んだ。
そして、ミツさんが叫ぶ。
「――え!やだ!あなた! 死んだんじゃなかったの!!」
「勝手に殺さないでください! 表向きは死んだことにはなってますけど!!」
「待って待って、そんなの聞いてないから! 持ってきてないわよあなたたちの荷物なんて!!」
……そう、賢明な読者の皆さんならもうお分かりだろう。
この子はかつて話に出た、死を偽ってひっそり生きるこの国の王様のひとり娘である。
そしてさっきのハンス君のように、ミツさんからの荷物を誰よりも心待ちにしているお客様のひとりでもあったのだ。
――少女は無言で脱衣所の床にへたりこんでしまった。あーあ、ご愁傷様です、姫様。