王女様滞在記
『――王女様、物語の訳者が変わったところで所詮は同じ物語では』
『ところがそうでもないのですよ。アナさん、あなたはこの旺文絵巻のことをあまりよく理解していないようですね』
『いえ、理解も何も、私その本現物で見るの初めてですし……』
『えっ、そうだったんですか――てっきり貴方もハンスさん同様、ララブ戦記をすでにかじっているものとばかり――』
一応は禁制品の話をしている自覚があるのか、王女様は徹底して手信号での会話を貫きます。
『そんなことより王女様、その黒い服早く脱がないとまたさっきみたいに蒸れてきちゃうんじゃないですか――』
我に帰った王女様、人目のないことを確かめるといそいそと例の黒衣を脱ぎだします。
やはり王女様の肌はやはりそれなりに汗ばんではいましたが、揮発香の強烈さは浴場の時よりかはかなりまし。
ですがやはりフェロモン成分は部屋に充満しているようで、こころなしか体温が上がっているかのような熱感を覚えます。
私は念のため例の飴を一つ口に放り込みました。まったくいったい何なんでしょうこの人は……。
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いろいろと聞きたいこともあり家主であるハンス君の居る階下へ。
すると王女様が一緒になって降りてきます。お手洗いを貸してほしいというのです。
王女様は市民階級の着るような地味な衣服へと着替えを済ませていました。
私はハンス君にそのことを伝え、ハンス君は厨房の横にあるお手洗いへと王女様を案内します。
そして戻って来るや否や、あの人のそばにいるだけで胸の高鳴りが止まらないなどと変なこと言いだしやがるのです。
用足しから帰ってきた王女様に、私は手信号で尋ねます。
『――王女様のことについて、私は彼にどこまで話していいのでしょうか――』
すると王女様、流れるようにこう答えます。
『彼、姫のお気に入りみたいだから私のことならひととおり聞いてるんじゃない――』
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そして今日は何も食べていないという王女様のためにハンス君は食事を用意します。
供されたのは大皿に盛られたサンドイッチでしたが、挟まれている具がひどく偏っているように見えます。
そして下に敷かれている葉物に新鮮さはなく、付け合わせも乾燥してしなびています。
そのことについて軽く追及したところ、ハンス君はこれが昼間食事の残りものだとあっさり白状します。
今日はいろいろありすぎて店にこれ以外の食べ物がないのだそうです。
「でも、王女様は別にこれでも気にしないだろうって、姫が……」
ハンス君の台詞に反応して王女様が問いかけます。
「姫は私のこと、どこまで話した?」
「どこから来た人かっていうことと……まあ、特殊な体質の人だからねということはざっくりと……」
「……その話を知ってるのは、今のところハンス君、あなただけね?」
「はい、姫からはこの話は「特級の隠匿条項」と聞かされているので……」
「……姫に相当気に入られているのね。あの子、普段はそんなオープンにいろいろ話したりしないわよ……」
つまるところハンス君は、すでに王女様が純血淫魔だと姫様から聞かされていたということになります。
「アナさん、念押ししておくけど、あなたも私たちにとっては特別枠なんだからね。ドミノ一派の信頼を勝ち得るってすごいことなんだから」
すべてに慎重なエステさんが無条件に情報を渡し、フェロモンの中和剤である飴までをも分け与える相手。
ドミノさんが王族の従者という役割をポンと丸投げしてしまう、そんな相手。
その光景を見て王女様は、私が選ばれた人間であることを確信したのだそうです。
「いえ、たまたまな気がしますけどね……たまたま……」
ここで私はハッとします、この揮発香成分を中和する飴の存在をすっかり忘れていました。
平静を装いながらもハンス君、その顔面は揮発香の影響で紅潮し落ち着きもありません。
私はハンス君に例の飴を一つ手渡し、ひとまずその場をしのいでもらうことにしました。
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「ララブ戦記は誰でも気楽に楽しめる娯楽大作。けしてお堅い本ではないから、若い子たちでも楽しめるはずよ」
王女様の発言にハンス君が頷きます。ですが私は旺国の言葉なんて一言も読めません。
「ハンス君の訳文冊子があるじゃない」王女様は言います。
「いやー……あれから旺文に入るのはかなりきついと思いますよ……」ハンス君がその発言にはっきりと異を唱えます。
姫の時もそうだったそうですが、いざ趣味の話となるとハンス君は身分の差など考えない物言いになってしまうとか。
そして姫がそうだったように、王女様もそれを不愉快に感じることもないようでした。
「じゃあ、私がアナさんにハンス訳ベースの読み聞かせをすればいいんじゃない?」
はい、ハンス邸へのお泊りが決定しました。あんな分厚い本一日で読み切れるわけがありません。
念のため王女様に滞在日程を聞いたところ、お迎えが来るまで帰るつもりはないと実に気の長いお話を聞かされました。
……まあ、別にいいですけどね。ここから私の家近いですから……。




