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天使が街にやってきた(前編)


 ――アナちゃんに脅されて、私もすっかり野良熊恐怖症になってしまった。


 よし、もうアナちゃんの見た熊が本物か幻覚かなんてことは考えない。

 この森には熊が出る。そして昨日アナちゃんは森で熊を見た。その前提で動く。

 なにせ熊に襲われてからでは遅いのだ、できる限りの対策は今のうちにやっておかねば。


 ……だが、そう思い立つと案外やることが思い浮かばない。


 国により用意されたこの建物の頑丈な壁は十分に分厚く、窓にはしっかりと鎧戸がはめ込まれている。もちろん、隠し金庫も床下にあり荒らされる心配もない。

 姫もしばらく旅に出るとかで、そっち関係でトラブルの種になる心配もなさそうだ。

 なら、ひょっとして私はそこまで神経質になる必要もないのだろうか。

 

 ――あ、そういえばアナちゃん、役所に害獣対策の部署があるなんて言ってたな。

 よし、念のためだ。これから役所でちょっと相談に乗ってもらうとするか――。


**

 

 私はついさっき貰ったばかりの熊除けの鈴をその身に着け、急ぎ足で森を突っ切り街へと向かう。

 事務所を出発したばかりの頃は、そりゃあもう頭の中は熊のことでいっぱいだった。

 だが街に入ってすぐ、私は熊のことなど一瞬で吹き飛んでしまうような光景に遭遇する。


 ――天使である。そう、あろうことか天使が私の目の前に降り立ったのだ――。


 こう見えて私は滅多なことでは動じないのだが、さすがにこれは面食らった。

 愛らしい顔、華奢な身体、背中の大きく空いた服、そしてそこからばさっと生える大きな翼。

 そんな神話世界の生き物が、街の中のオープンテラスで厚切りのソテー肉をがっついているのだ。


 彼女のまわりにはすでに黒山の人だかり。野次馬だらけ。

 だが当の天使は周りの視線などお構いなしで、目の前の肉を平らげることのみに全神経を注いでいる。

 そしてテーブルの上にはどういうわけか砂時計。

 なんだなんだ、あの天使はこの街にいったい何をしに来たのだ。

 

(――おや、あの包み紙。あれはハンス家が料理を包むとき使うやつでは――)


 私は彼女のテーブルの上に、毎日のように眺めている包み紙が畳まれているのを発見する。

 そしてその神の上には綺麗にしゃぶりつくされた鶏の骨が二本三本と乗せられていた。


 ああ、間違いない、あれはハンス家の新商品「食べ歩き柑橘チキンレッグ」だ。


 いや、ちょっと待て。あのチキンレッグってたしか若鶏の腿肉の丸揚げ料理だぞ。

 大の大人でも一本で満足できる量なのに、あの天使どれだけ胃袋でかいんだよ――。



 ――そのうち、テーブルの上の砂時計の砂がすべて落ちる。


 彼女はそれをちらっと確認すると、砂時計を懐に戻してオープンテラスを後にした。

 もちろんその行き先は雲一つない上空である。

 彼女は野次馬に邪魔されることなく、あっという間にはるか遠くへと飛び去ってしまった。

 

**


 ――私はすぐさまシーナちゃんの店を目指す。


 天使が持っていたチキンレッグの残骸から、私はすでにハンス家の誰かがあの天使と接触していると予想したのだ。そして、その予感は見事的中した。

 柑橘チキンレッグを天使に手渡したのは、そのときちょうど店番をしていたシーナちゃんだったのだ。



 「……あの天使さんならまた店に来て、うちのデザートを買っていきましたよ」


 そんなことを言いながら、シーナちゃんは私の手を引き二階の窓へと連れて行く。 


 彼女の指さすほうを見てみると、いた天使。今度は屋根の上に陣取ってデザートタイムだ。

 その手には定番のアップルパイと新製品のとても美味しそうないちごムース。

 そしてその真下には周辺の市民たち。ここまではオープンテラスと似たような光景だった。


 だが、視界の端、人ごみから少し離れたところに見覚えのある顔がいくつかある。


 ――あれは姫だ。そしてその横にはハンス君とウパまでいる。


 そしてその三人ともがこの異常事態ともいえる状況に大した驚きの表情を見せていない。

 それどころか、全員が店のサンドイッチを食べながらあの天使に何やら合図を送っているのだ。

 

「……ねえシーナちゃん、ということは、あの天使ってまさか姫の仕込みなの? 特に何も聞いてないなら、私が姫に直接聞きに行っちゃうんだけど……」


--


 姫たちがたむろしていたその場所は、まるで野外でピクニックでもしているかのような空間だった。

 大きな敷物が広げられ、その中央には料理や飲み物が並べられている。

 そしてその敷物の上で、食欲旺盛なあの天使が相も変わらず盛大に飲み食いをしていた。

 さっきデザートを食べたばかりだというのに、いったいこの天使どれだけ食べれば気が済むのだろう。


「えっと、トルプル豚レバーとチリベーコンパラダイスとツナエッグマウンテンをください。あと、野菜を追加、大盛りで」


 天使の注文にハンス君が応じ、籠の中から手際よく料理が取り分けられる。

 このへんでは聞きなれない料理名ばかりだが、これ全部新製品のサンドイッチなのである。

 そしてハンス君が持っていた大きな配達籠の中には、なぜかこの非常識な注文に対応できるだけの十分すぎる食材が入っていた。


 相変わらず周囲の視線など一切気にしない天使さんは追加の料理を私たちの前で黙々と食べ続ける。

 そんな彼女とギャラリーを交互にちら見しながら、私はそばにいる姫に聞き取れるギリギリの小さな声で話しかけた。


(……あのさ、いろいろ聞きたいことあるんだけど……)

(……あー、今は人がいます。話は後ほど……)


 ……うっ、拒絶が異様に早い。なにか表に出せない事情でもあるのだろうか。

 ならばと私はおもむろに、姫への情報の伝達手段を諜報員時代の手信号式に切り替えてみた。

 姫の肩をちょんと叩いて、振り向いたところに意味を込めた手の動きを見せる。


『……ねえ姫、今やってるこれって何か意味でもあるの?』

『話せば長くなります。細かいことは彼女の「食事」が終わった頃に全部わかると思いますよ』


 姫は表情を一切変えず、だらんと垂らした手の指先だけでそんな意味合いの動きを作り、私に返答した。そしてハンス君の食材籠から小さなデニッシュを取り出して、さあどうぞと私の口に突っ込んでくるのだった。

 顔は不自然ににこやかだったが、まあこれはしばらく私に話しかけるなという合図なのだろう。

 そして、ハンス君がこれに続く。

 

「……ドミノさんもお昼まだですよね、一緒に食べていきません?」

 

 どうやらこの食材籠は私が勝手に手を突っ込んでしまっていいものらしい。

 どれどれと無遠慮に籠の中を覗くと、まだまだ出来合いのサンドイッチのおいしそうなラインナップがたくさん残っている。


 んー仕方ないな、それじゃあ私も好意に甘えて野外ランチとしゃれこみますか――。


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