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シュレディンガーの熊


 ――さて、ここで余談になるが、罠に囲まれた留守中の事務所に足を運ぼうとした人物がもう一人いた。金塊のことと私たちの留守のことを両方知っているアナちゃんである。


 彼女は事務所に残された剥き出しの金塊が心配で心配でたまらなかったらしく、様子見のため事務所を訪れようとしていたらしい。

 だが、その道すがら熊が現れ、怖くなってその日は引き返していったのだという。


 そして本日、アナちゃんは私たちに熊が出たことを伝えるため、危険を承知でこの事務所までやってきた。がらがらと大きな音の出る熊除けの鈴をたくさん腰にぶらさげて。


**

 

 私は今回、アナちゃんに棄児院の森の設置罠の存在を教えていない。

 よって、この熊が罠の見せた幻覚である可能性は非常に高いと私は見ている。


 ――今回事務所の周りに撒かれたのは、私が棄児院にいた頃に使われていた旧式の罠。


 私もよく知るその罠の持つ機能は人間の記憶の抽出と投影、ただそれだけ。

 そう、やっていることは夢の中の白い人形とまったく同じなのである。

 ただし引き出される記憶情報はこの罠と人形とでそれぞれ違う。

 白い人形は理想の異性を、白昼夢の罠は恐怖体験を対象の記憶から抽出するのだ。


 今回の場合、罠はアナちゃんの記憶から恐怖の対象――熊のイメージを抽出して彼女の視覚に投影したと思われる。

 アナちゃんはその熊の幻影を見て危険を感じ、その場からUターンして家に帰宅した。

 幻覚そのものは罠の効果範囲外に出ることで消えてしまうので、彼女は幻覚を見たという自覚すらないまま日常世界へと戻っていったことだろう。


 ……この流れこそが、昔の私たちが理想とした本来の白昼夢の罠の防衛パターンなのだ。


 拠点に人を到達させず、そして侵入者を傷つけることなく罠は危険の認識のみを植え付けてくれる。


 そう、以前パン屋でシーナちゃんが「森の中には熊がいるから危ない」と言っていた、あれ。

 あれこそが私たちにとってはまさにこちらの狙い通りの最高のリアクション。

 シーナちゃんの森でのトラウマ体験の語り部が、これから森に入ろうとする者たちへの抑止力となるのである。 


 だが今回の姫のように、この旧式の罠は時に想定外の事態を引き起こす。

 幻覚を見ている者が、自分の意思で罠の効果範囲内に留まることができてしまうからだ。


 だが、それを踏まえてなお、この罠は実用性においてまったく不足のあるものではない。

 私が森を管理していたころは、ほとんどの侵入者はこの罠だけで十分に対処できていたのだ。

 「時代遅れの欠陥品」として、棄児院の物置きに眠らせておくには惜しい代物なのである。


**

  

 「――で、熊とは関係ない話ですけどついに来てしまいました、これ――」


 アナちゃんの手に握られていたのはドリームデリバリーの発注書とその代金。

 ああ……はい。それ、アナ商店でお客さんに私に渡せって頼まれたのね。了解了解。

 まあ、私とつるんでる以上、遠からずこういうことになるとは思ってた。

 で、どうする? 時間もあるしこのへんで一件当たりの取り分(マージン)の話でもしとく?


**

 

 ――ここで今アナちゃんの置かれている状況を理解してもらうため、私の夢の商売の発注書の受注ルートのお話でもしておこうと思う。


 まずドリームデリバリー社の代表であるこの私に夢の発注書を渡す手段は四通りほど。


 まずひとつめ、私に発注書を直渡しする方法。

 私を街で捕まえられることさえができれば、これが一番確実で手っ取り早い。

 だが私は忙しい、夢の仕事以外にも常にいろんな用事を抱えて動き回っている。

 どこかで待ち伏せでもしない限り、私本人を発注書の窓口とするのは難しいだろう。


 ふたつめ、事務所に設置されたポストに発注書を投函する方法。

 これは事務所据え付けのポストに発注書とお金を入れるだけで受注が完了するのだが、まあこの窓口の利用者の本当に居ないこと居ないこと。

 おそらくその原因はその立地。この事務所は街からあまりにも遠すぎるのだ。

 なにかと忙しい市民たちが、隙間時間に立ち寄れるような場所ではない。


 みっつめ、私と親しい人間に発注書を託す方法。

 私の知らぬ間に自然発生していたこの窓口、何を隠そう利用者が一番多い。

 要はシーナちゃんとハンス君が自分の店で発注書回収の代行をやってくれているのだ。

 あちらの好意で始まったことだが、あっという間に街で一番気軽で便利な受注窓口となっている。

 こちらとしてもこの窓口にはだいぶお世話になっているので、今現在は一件いくらで相応のマージンを支払うようになっている。

 

 そして最後。お役所経由で私に発注書を送る方法。

 そう、あの王がこの国のお役所にドリームデリバリーの受付窓口を作ってしまったのだ。

 もうここの王様馬鹿なんじゃないのという感想しか出てこない。

 ちなみにこの窓口、確かに便利ではあるが利用者の数はそこまで多くはない。

 おそらくだが、この窓口を使うことに抵抗を感じる人たちが少なくないのだろう。

 なんせこの窓口の周りには、まじめ顔で仕事をしているたくさんのお役人さんがいるのだから。


**


 ――そして今回、幸か不幸かアナちゃんはこのみっつめの受付窓口になってしまった。

 彼女は期せずしてお客様のちょっとした秘密を握る立場になってしまったのだ。

 

 ……いやほんと、アナちゃんに夢遊び体験をさせておいてよかったよ。

 アナちゃんに発注書を託す人、私の「あの内容の夢」を買いに来てるんだからね。

 自分の秘密を口外されないことを心から信じて、アナちゃんにその発注書を託してるんだからね。


 私は夢の売り上げから、その一割をマージンとしてアナちゃんに渡す。


 その金額を単なる受付手数料と考えたら、常識的な相場よりは高いのかもしれない。

 だが、これから彼女が背負うであろう気苦労のことを考えたらここを安く叩く気にはなれないのだ。

 知らないほうが良かった、そんなことは世の中にいくらでもあるのである。


**


 するべき話は済んだからというアナちゃんを見送りるため、私は彼女と一緒になって玄関へ。

 そこで再びアナちゃんは、森で見たという熊の危険性を語り始めた。

 まったくシーナちゃんといいアナちゃんといい、この土地の人たちはどれだけ熊が怖いのだろうか――。


「……いいですか、この土地の熊は割と頻繁に街まで降りてきます。常時食べ物を備蓄しているような家は特に被害を受けやすいので注意してください。熊と会ってしまったときの動き方は様々ですが、基本的にはひとまずその場を静かに離れるのがいいと言われています。この事務所は本当に熊の出る場所の近くにありますから、熊を見たらすみやかに害獣駆除の申請を役所に出してください。これは地域住人の人命にも関わる大切なことですからね」


 ……えっ、ちょっとやめて、忠告の内容が具体的すぎやしませんか……。


 私はアナちゃんに「外出時に必ず身に着けてください」と熊除けの鈴をいくつか手渡された。

 やだ、笑えない。私もアナちゃんが帰ったらちゃんと熊のこと考えよ……。


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