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九章 帰還者

 翌日、エミリオは見知らぬ町を一人寂しく歩き回ることになった。

 何より、当てもなく庭のある家々を訪ねなければならないのが辛い。ドッティのことを尋ねては知らない、と不審な目で見られ、エミリオの精神的ダメージは甚大だ。胃が痛い。

 十件ほど回ったが、中々ドッティを知る人に当たらない。ドッティの名前だけ尋ねているのがよくないのかと、簡単な似顔絵を見せ性格も話してみることにした。大急ぎで道の隅でクロッキー帳に似顔絵を描いていると、通り過ぎる人にまで不審そうに見られた。胃が不快感と共に、キュルキュルと愉快な音を立てている。

「ドッティさん?……ああ、この人かい!」

「お婆さん、知ってるッスか!……あ、いえ、知ってるんですか?」

 十八件目で、ようやく似顔絵に反応する人に当たった。喜びのあまり、いつもの口調で話してしまい、エミリオは慌てて敬語に直した。

「半年くらい前に、新しく花壇を増やしたくて来てもらったんだよ。仕事はできる人だったけど、不思議な人だったねぇ」

 老婦人は眼鏡をずらし、まじまじと似顔絵を見た。やはり、ドッティの調子は仕事先でも変わらないらしい。

「楽しそうに色々話してくれたけど、私はちょっと心配になってしまったよ」

「ああ、分かります……」

 落ち着きがない上に言っていることが支離滅裂で、これまでどうやって生きてきたのかエミリオも心配になったくらいだ。仕事の腕はいいようなので、それがせめてもの救いだろうか。

「自分を帰還者だ、なんて言っていたしねぇ」

「…………はい?」

 予期せぬ老婦人の言葉に、エミリオの胃がキュルルっと鳴った。

「ドッティさんが帰還者、ですか?」

 帰還者、《理想郷》へ行き戻って来た人。創記師エリュオンが最も有名だが、確かに歴史上認められた人は何人もいる。中には、本人が主張しても証拠がないと切り捨てられたケースもあったという。

「本人はそう言っていたよ。庭師として、自分が見た《理想郷》に近い庭を作りたいって」

「すいません、その話もう少しお聞きしてもいいですか?」

「ええと、そうだねぇ。一年位前に、仕事帰りに見知らぬ場所に迷い込んだらしいよ。周りの植物がこの世のものじゃないって、すぐに気付いたって言ってたねぇ」

 庭師という職業柄、植物には詳しそうなので本当ならば信憑性は高そうだ。一年前というと、ドッティが空き家を買った時期である。ドッティは《理想郷》へ行き、感化され庭付きのあの家を買ったということだろうか。本当に《理想郷》へ行ったかどうかは、本人の証言だけなので何とも言えないが。

「あの、何か《魔蛇》のことを言ったりしてませんでしたか?」

「《魔蛇》かい?ちょっと記憶にないねぇ。そういえば、《理想郷》の再現に必要なものは手に入れた、みたいなことは言っていたよ」

「《理想郷》の再現に必要なもの、ですか」

「それが何かは、知らないけどねぇ」

 順当に考えれば、《理想郷》の植物を持ち帰ったということだろうか。それはそれで、奇跡認定の可能性がありそうだ。だが、それならドッティの性格的に嬉々として話をするような気がする。

「そうですか……。お話、ありがとうございました」

 老婦人に礼を言い、エミリオは次の家へ向かうことにした。どうにも、謎ばかり増えてしまった。


*   *   *   *


「う~ん、ダメだな……」

 エミリオは町並みを眺めながら、ため息をついた。

 夕方まで話を聞いて回ったが、老婦人の話以上の収穫はなかった。そして、ルーベンからも連絡がない。そんなに積もる話があるのだろうか。

「少しくらい、息抜きしてもいいよな」

 ほぼ一日歩き回り、足が疲れ切っている。宿の近くに広場があったので、そこのベンチで休むくらいは許されるだろう。広場を目指し、エミリオはもう少しだけ町を歩くことにした。

「……あれ?」

 広場で空いているベンチを探していると、エミリオは紺色の制服の集団に気付いた。中には、見慣れた赤髪が見える。雑談をしているらしく、仕事中というより彼らも休憩中のようだ。エミリオはそっと後ろに近付き、肩を叩いた。

「よっ、イェソド!」

「うわっ!?え、エミリオ?何してるだ、お前……」

 イェソドは一瞬腰の細剣に手をかけたが、すぐにじとりとエミリオを睨んできた。

「オレは仕事だよ。イェソドもか?ティファさんはいないのかよ?」

「俺だって仕事だ。ティファは今、飲み物を買いに行ってる。お前こそ、クレメンティ部門長と一緒じゃないのか?」

 エミリオが一人なのを見て、イェソドは周りをキョロキョロと見た。

「先生とは別行動で、調べものしてるんだ」

「そうなのか。まぁ、クレメンティ部門長とどう話したらいいか分からないし、ある意味助かる」

「あの人、顔程厳しくないぞ」

 ケテルに激甘だし。エミリオがしれっと言うと、イェソドは微妙な顔をした。

「まず他の部門は、副部門長以外は部門長と会話する機会なんてほとんどないんだよ。各部門内にも細かい区分があって、基本は直属の上司としか話さないぞ。俺だって、うちの部門長と話したことは二、三回しかない」

「マジかよ!つっても、奇跡部門うちはケテルが入ってようやく三人だからな……」

 エミリオは額を押さえ、小さくため息をついた。そもそも、奇跡部門は区分どころか副部門長すらいない。根本が他の部門と違うので、同列には語れないだろう。悲しき人手不足である。その人手不足を招いた原因の一つに、ルーベン自身もあるのだろうけれど。

「……うん?イェソド達が仕事で来てるってことは、《魔蛇》が出たのか?まさか、やっぱりマー君が……」

「誰だ、それ?俺達はこの近辺の町で猟奇事件が続いてるっていうんで、来たんだ。行方不明者が何人も出てて、時々腕だけだったり荷物だけが見つかるらしい」

「何だそれ、怖い」

 ルーベンから、そんなとんでもない話は聞いていない。奇跡やドッティとは関係なさそうなので、ルーベンも知らされていないのかもしれない。

「最初は確かに《魔蛇》の仕業だろう、って俺達が呼ばれたんだが、どうにもな。調べてみたら、《魔蛇》の仕業にしては色々おかしくて」

「おかしい?《魔蛇》が人間を襲う話なんてよくあるだろ」

「見つかった部位の切断面が、綺麗すぎるらしいんだ。《魔蛇》の牙は切断するような造りにはなっていないし、《魔蛇》の毒も検出されなかったって聞いた」

「なら、人間が犯人ってことか?」

「だとしたら、遺体の他の部位が見つからないのが謎なんだよな。目的も不明だ。見つかった持ち物に金品は残ってたから、物取りでもない。《魔蛇》の仕業なら、餌として丸呑みしたんだろう、で終わるんだが」

 イェソドは腕を組み、顔をしかめた。それはそれで、十分恐ろしい。マラカイトとは別の《魔蛇》が町の周辺にいるとしたら、それも大問題である。

「他にも、町から出ていない人も被害に遭ってるのに、《魔蛇》の目撃情報はないんだ」

「まず、町に《魔蛇》が入り込んだら大騒ぎだろうしな。何年か前に、そんな事件あったし。え~と、何とか通り事件、って言ったような……」

 ルーベンが話していたが、事件の名前が思い出せない。エミリオが唸っていると、

「ペラゴレス通り事件よ」

 背後から答えが返ってきた。

「ティファさん!よくご存じッスね」

 振り返れば、どこかのカフェで買った紙コップと槍らしきものを持ったティファが立っていた。

「まあね。私達の両親が殺された事件だもの」

「えっ」

 思わずイェソドの顔を見れば、ため息をついて頷いた。

「六年前、町の大通りであるペラゴレス通りに《魔蛇》が侵入。買い物に行っていた俺達の両親、他十七人が死傷した事件だ。俺達は家で留守番してて、現場にはいなかったけどな」

「えと、その、悪い……」

「気にしないで。ここ五十年で最悪の《魔蛇》被害の事件だもの。何かの引き合いに出されるのはいつものことよ」

 ティファは別段表情を変えず、飲み物を一口飲んだ。

「ところで、エミリオはどうしてここに?」

「えっと、奇跡調査なんスよ。その、《魔蛇》の飼育をしてる人がいて……」

「ハァ!?あの化け物を飼う?その人、正気なの!?」

「まぁ、ちょっと変わった人かもしれないッス。でも、周りに家のない町から離れたところで、その、広い庭で飼われてるんスよ」

 突然激昂したティファに、エミリオはしどろもどろに説明した。

「そうだとしても、いつ暴れ出すか分かったものじゃないのに!」

「そ、そうッスね。ところでティファさん、その槍みたいなの格好いいッスね!」

 髪を振り乱し、憤る美人は中々に迫力がある。どうにか話の方向を変えようと、エミリオはティファの武器を指した。

「これは私の槍斧ハルバードよ。これに《祝福》を込めて、《魔蛇》を殺すの」

 槍部と斧部の合体した先端で、ティファは軽く地面を叩いた。先端は銀製なのだろう、かなり重量がありそうだ。《祝福》の伝導率は金が最も高く、次いで銀だという。金は貴重性から滅多に使われないため、《退魔師》は銀製の銃弾を扱うのがほとんどだと聞いている。

「《退魔師》は銃を使うイメージがあったんスけど……」

「確かに銃を使う奴は多いけど、それだけってわけじゃない」

 ぽん、とイェソドは自分の細剣の柄を叩いた。そういえば、ティファだけでなくイェソドも銃を使ってはいない。

「私の場合は、いちいち弾を装填するのが面倒だっただけよ。イェソドは昔から剣術習っていて、扱いやすかっただけだし。それに、槍斧の方が《魔蛇》をちゃんと殺してる感じがあるの。もちろん、銃の訓練はしてるわよ」

「格好いいッスねぇ」

「いやいやいや。そいつは《魔蛇》殺し狂、なんて言われてるんだぞ」

 イェソドがそう言った瞬間、ティファの蹴りがイェソドの脛を直撃した。イェソドは地の底から響くような恨めし気な声を出しながら、足を押さえて沈んだ。

「失礼ね、父さんと母さんを殺した《魔蛇》を根絶やしにしたいだけでしょ!」

「ご両親のためなんスねぇ」

「エミリオ……お前な……」

 イェソドは涙目でエミリオを睨んだ。この双子は、姉であるティファの方が圧倒的にヒエラルキーが上のようである。

「そうだ。二人は色の明るい《魔蛇》について、何か知ってるか?」

 ふと、《魔蛇》と対峙することの多いであろう二人に尋ねてみた。

「う~ん、聞いたことないわね」

「……色の明るい《魔蛇》?前に本で見たような気がするな」

 首を傾げるティファの横で、イェソドがよろめきながら立ち上がって言った。

「お、知ってるか?目撃情報が極たまにあるらしい、ってことくらいしか分からなくってさ」

「俺が見た本も、目撃者の話が少し載ってただけだぞ」

「それ、孔雀石みたいな色って書いてあったか?」

「いや、本にはエメラルドのような色って書かれてた。だから、孔雀石よりもっと明るい色じゃないか」

「へぇ、エメラルドなんてのもいるのか」

 マラカイトも十分明るい色だと思ったが、もっと明るい色の個体もいるらしい。

「帰還者の一人が、《理想郷》でエメラルドみたいな色の《魔蛇》を見かけたって話だったんだ。珍しい色だったので驚いた、って本にはあったな」

「は?何で《理想郷》に《魔蛇》なんかがいるのよ」

「俺に言われても。まぁ、人間が迷い込むんだから、他の動物や《魔蛇》も迷い込むことがあるんじゃないのか」

「神に見捨てられた奴が、図々しいわ。《理想郷》の空気が汚れそうだし、串刺しにしたいわね」

 すさまじく嫌そうな顔をして、ティファは槍斧でガツリと地面を叩く。地面が抉れるからやめろ、とイェソドが止めるが、最早エミリオの耳には入ってこなかった。

「帰還者、が……?」

 ということは。エミリオが思案していると、制服のポケットに入れた《情報端末》から呼び出し音が鳴った。取り出せば、メールではなく電話である。

「悪い、ちょっと電話だ」

 双子に断りを入れてから、電話に出る。

「もしもし、先生?やっと終わったッスか?」

 ルーベンの《情報端末》からの着信だったので、電話の相手もルーベンだと思って話しかけると、

『えと、ごめんねエミリオ。ルーベンじゃなくて、わたし。ケテルだよ』

 帰ってきたのは、申し訳なさそうなケテルの声だった。

「あれ、ケテル?先生は?」

『それがね。ルーベンが本部の人だからって、役場の人達が愚痴とか相談とかいっぱいしてて』

「あー……」

 イメージは、非常に簡単に浮かんだ。かつてラヴェニア教会に《魔蛇》が侵入し《退魔師》達が駆け付けた時に、エミリオもあれこれどうにかならないかと彼らに訴えたものである。食事のこと、建物のこと。今思えば、彼らも管轄外のことを言われ困ったに違いない。

『ドッティさんに話を分かってもらえない、話が通じないって。どうしたら、こっちが言ってることを分かってもらえるか、アドバイスを聞かれたりしてるの』

「そっちかよ!それは、先生でもどうしようもないような……」

 ルーベン本人も気を滅入らせていたのに、アドバイスなどできるのだろうか。今頃きっと、眉間の皺を谷より深くして話を聞いているのだろう。

『でも、もうすぐ終わりそうだから。エミリオは何か、分かった?』

「一人だけ、ドッティさんを知ってるお婆さんがいたよ。どうも、ドッティさんは自分を帰還者だって言ってたらしい」

『帰還者?それって、えと、どういうこと?』

「それが、オレにもよく分からないんだよな。結局、マー君のことは知らないみたいだったし」

 考えがまとまらず、エミリオは力なく笑って返した。何か分かったような、分からないような。肝心のマラカイトのことは、謎のままである。

「そうそう、こっちはイェソドとティファさんに会ったんだ」

『イェソド達に?』

「どうも、不審な行方不明事件が続いてるらしくってさ。最初は《魔蛇》の仕業か、ってことで呼ばれたらしいんだけど、どうもおかしな点が多いみたいなんだ」

『行方不明……』

「そっちは、その話は聞いたか?」

 電話の向こう側で、一瞬ケテルが言いよどむ気配がした。

『あのね。ドッティさんの家の前の持ち主も、行方不明なんだって』


*   *   *   *


 ルーベンがドッティに確認したいことがあるらしく、ドッティの家の前で待ち合わせをしてケテルからの電話を切った。

 双子と別れて、エミリオはそれぞれ聞いた話を頭の中で整理してみる。ドッティが帰還者かもしれず、マラカイトも《理想郷》へ行った可能性があり、行方不明者が出ている、と。マラカイトの色と性格は、単にそういう個体なのかもしれないが、《理想郷》の話を聞いた後では何か関連性がありそうな気もする。

「《理想郷》の聖なる空気に浄化された、とか?」

 必死に頭を働かせた末、思い付いたことをぽつりと呟いてみた。清らかだという《理想郷》の空気ならば、あり得るだろうか。しかし、確かめようがないので完全に机上の空論である。

 ドッティが本当に帰還者ならば、何か知っているかもしれない。エミリオとしても、《理想郷》の話を詳しく聞いてみたい。どんな場所で、この世界とは何がどう違うのか。

 あれこれ考えている内にドッティの家に着いてしまったが、ルーベンとケテルはまだ来ていないようだった。《情報端末》を見れば、『少し遅れる』というメールが来ていた。

 町から歩いて来る途中で陽が落ちてしまったので、辺りは既に暗い。外灯もないため、夜と言うより闇が迫って来るようだ。ドッティの家も、玄関から見える窓には明かりがついていない。留守なのだろうか。確認して、もし留守ならルーベンに連絡した方がいいだろう。

「ドッティさん、いらっしゃいますか?ドッティさん?」

 数回呼び鈴を鳴らして声をかけるが、返事も物音も聞こえない。そっとドアノブを回してみれば、鍵はかかっていなかった。

「ドッティさん、お留守ですか~?」

 数センチだけドアを開け、最後に一声だけかけて帰ろうとすると、中から僅かに血の匂いがした。

「……ドッティさん?」

 もしや、マラカイトが何かの拍子に暴れて怪我をしたのだろうか。

「ドッティさん、大丈夫ですか!」

 エミリオは失礼を承知で、家に踏み込んだ。何事もなければ、大人しく怒られよう。血の匂いがする方へ廊下を進んで行けば、地下に続く階段が見つかった。匂いは地下から漂ってきている。

「ドッティさん、ドッティさん?」

 階段を駆け下り、突き当りのドアを開ければ血の匂いが一気に強まった。どうやら地下室を倉庫として使っているようで、プランターや支柱、積まれたレンガなどがいくつも並んでいる。だが、肝心のドッティの姿はない。地下室の隅には、古い大きな業務用の冷蔵庫が置かれていた。花の保存にでも使っているのだろうか。

「ドッティさん、どこだろ……?」

 とりあえず、血の匂いが強い冷蔵庫を開け、

「う、うわあああ!?」

 エミリオは一瞬で後悔した。

「え、は、何だよこれ……!」

 中に入っていたのは花でも食料でもなく、ビニール袋に詰められた人の腕や足だった。明らかにドッティとは違う老人のものである。エミリオは勢いよく冷蔵庫を閉め、深呼吸をした。足はガクガク震え、心臓は痛いくらい早鐘を打っている。胃は既に瀕死だ。一体、何がどうなっているのか。匂いの元は、もしかしなくとも冷蔵庫の中身だろう。

 ふと、イェソドの言っていた猟奇事件を思い出した。遺体が一部しか見つからない、《魔蛇》が丸呑みでもしたのか──

「ヤバイ、ヤバイ……!」

 エミリオは《情報端末》を取り出し、ルーベンにメールを打とうとした。しかし、手が震えてしまい上手く文字を打つことができない。

「ああ、もう……!」

「おやー?誰かと思えば、奇跡認定人の方じゃないですか。不法侵入ですよ?」

「おわッ!」

 振り返れば、ドッティが昨日と変わらぬ無邪気な笑顔で立っていた。

「あ、あの、すいません!ドッティさんが……えっと、《理想郷》に行ったらしいって話を聞いて、その、詳しくお話を聞きたくて来たんスけど、呼び鈴を鳴らしても返事がなくて、あの」

 頭が真っ白で、とてもではないが敬語も言い訳も出てこない。激昂するでもなく取り乱すでもなく、笑みを浮かべるドッティに恐怖が募る。冷汗が、大量に背中を伝った。

「わぁ、マー君だけじゃなくて僕の話も聞いてくれるんですね!ところで、他のお二人は今日は一緒じゃないんですか?」

「あっと、先生達は遅れて来るので……。でも、そう、すぐに、すぐに来ると思うッス!」

「そうですかー。じゃあ、ちゃちゃっと終わらせないといけませんね」

「は、ええと、何をッスか?」

「君の片付けを、です」

 途端、ドッティは背中に隠し持っていた血濡れた大きな剪定ばさみで切りかかってきた。

「うおっ!?」

 咄嗟に避けたものの、左足に鋭い痛みが走った。太ももが大きく切れ、じわじわと血が滲み出したのが見なくとも分かる。

「ウ、グゥ、何するんスか!」

「だって、冷蔵庫の中を見ちゃったんでしょ?言いふらされると、僕もマー君も困っちゃいますから」

「ってことは、アレは……!」

「マー君のご飯です。言ったでしょう、グルメだって」

 ニコニコと困った様子もなく、ドッティは明るく言った。身の危険への恐怖よりも、ドッティの精神の異常性に対する恐怖が圧倒的に勝る。話が通じないという次元ではなく、最早頭が理解することを拒否している。もう何も見なかったことにして、帰りたい。強い緊張状態の中、エミリオは現実逃避にそんなことを思った。

「狂ってるッス……」

「僕だって、できればこんなことしたくはなかったんですよ。でも、マー君は他の物は食べてくれなくて、どんどん弱って体の色もくすんできちゃって。だけど、ソレだけはちゃんと食べてくれるんです」

 手間のかかる子供の話をするように、ドッティは言った。

「なので、君にもマー君のご飯になってもらいます。申し訳ないですが、他のお二人には君は来なかったとお伝えしますね」

「全力でお断りするッス!」

 再び剪定ばさみを振りかざしたドッティに、両腕の袖の小型ナイフを投げ付けた。一つは剪定ばさみに命中し、一つはドッティの右腕をかすめる。ドッティが怯んだ隙に、エミリオは地下室の入り口まで駆け抜けた。

「いたたっ、何てことするんですか!危ないですよー!」

「アンタには言われたくないッスよ!」

 この期に及んで調子の変わらないドッティに、眩暈がした。人として、何かが決定的に歪んでしまっている。以前は大人しかったと聞いたが、何故こんなに嫌な方向にアグレッシブになってしまったのだろう。それとも、表に出さなかっただけで元から危険人物だったのだろうか。

 エミリオは地下室を飛び出し、ひたすらに外を目指した。ルーベンが来るまで逃げられれば、何とかなるはずだ。ルーベンが銃を持っているはずであること、人数的にもこちらが多いことで、降参して諦めてほしい。ケテルを危険に晒したくはないので、後のことはルーベンに任せたい。必死に走り、エミリオはどうにか外へのドアを乱暴に開けた。

「……あれ?」

 広がっていたのは暗い夜道ではなく、草木生い茂る庭だった。

「ヤベ、間違えた!」

「ありゃりゃ、意外とお馬鹿さんですねー。僕は助かりますけど」

「くっそ……!」

 背後からドッティの声が迫り、エミリオはズボンの裾からもナイフを投げた。逃げ場が他にないため、仕方なく庭に駆け出す。殺人犯に追われていること、ここに《魔蛇》がいることを考えなければ、美しい庭だった。冬も近付いて来たというのに、花は色とりどりに咲き、《魔蛇》が通れる大きさのアーチにはしっかりと蔦が巻き付いている。本来なら花の甘い匂いがするのだろうが、地下室で強烈な血の匂いを嗅いだためにエミリオの鼻は麻痺してしまっている。

「ちょっと、お庭を荒らすのは許しませんからね!」

「そんな余裕ないッス!」

 制服の内側を改造して仕込んでいたナイフを次々投げるが、頭が本格的にクラクラしてきた。可能な限りの速さで逃げてきたが、切りつけられた左足がそろそろ動かない。とうとう、エミリオは足がもつれて顔から転倒した。

「い、つつつ……」

「強情な人ですねー。一体、何本ナイフを持ってるんです?」

「さぁ、何本だと思うッスか?」

 エミリオは追いついたドッティに、ベルトの折り畳みナイフを引き抜いて虚勢を張った。月明かりの元、ナイフは白銀に発光する。これが、最後の一本だ。

「町で行方不明事件が続いてるっていうのは、アンタの仕業ッスね。地下の冷蔵庫の中身は、被害者なんじゃないッスか」

 苦し紛れにナイフをドッティに向けて、エミリオは睨みつけた。上がった息が中々戻らない。だがそれはドッティも同じようで、大きく息を吐いた。

「フゥ、話題になっちゃってたんですね。そろそろ、別の町から調達しないとダメかー」

「この家の前の持ち主も、行方不明だって聞いたッス」

「ああ、あのオジサンのおかげで随分助かったんですよ!マー君が何を食べるのか、あのオジサンのおかげで分かったんですから」

「え?」

 思わず、エミリオは眉根を寄せた。

「マー君のご飯に困っていた時に、あのオジサンが庭を見に来たんです。庭を回ってたら、日向ぼっこをしていたマー君に驚いたみたいで。転んだ拍子に腕から血が出ちゃったんですけど、その匂いをかいだマー君はパクリと噛みついたんです!しかも、その後残したりしないで全部食べてくれたんですよー」

 すごいでしょう、とドッティは自慢するように言った。胃は不快感を通り過ぎ、吐き気しか込み上げない。餌としてしか認識されていない前の持ち主を、ただただ不憫に思った。

「それで、マー君は新鮮な血が滴るお肉が好きってことが分かったんです。それ以降は食べやすいように、手足を切り落とすようにしてるんですよ」

「……他の肉じゃダメだったんスか?」

「前に色々試してみましたが、口を付けてくれなかったんですよねー」

 人の血の匂いにだけ、反応するということだろうか。《理想郷》の空気に浄化されたのでは、と道すがら思いもしたが、人を喰らっている時点でそんなことはないようだ。もう聞きたくもないがエミリオが動けず油断しているようなので、時間稼ぎに次の話題を振る。

「アンタ、何で《魔蛇》のためにそこまでするんスか?」

「僕の理想のために、マー君は必要なんですよ」

「理想……?この庭を、《理想郷》に近付けたいってヤツッスか?」

「はい!僕は一年前、仕事の帰りに知らない場所へ迷い込みました。すぐに《理想郷》だって分かりましたよ!サラサラでブリリアントな匂い、ドッシリとロマンチックな風景が広がっていました!」

 両手を大きく広げ楽しそうにしていたドッティは、そこまで言うと急に真顔になった。突然の豹変に、ぞわりと腕に鳥肌が立つ。

「それから植物の大きさ、色、花や葉の形状。全てが見たことのないもので、この上なく美しく圧倒されました。でも、そんな中で一番綺麗だったのが《魔蛇》……マー君だったんです」

 今までのネジが外れた様子は鳴りを潜め、ドッティはひどく淡々と語った。

「《魔蛇》が?」

「マー君は、悠々と《理想郷》で暮らしていたんですよ」

「暮らしてた……?」

 つまり、どういうことなのだろう。血が足りていないのか、頭がうまく働いてくれない。マラカイトはドッティと一緒に、《理想郷》へ迷い込んだのではないのだろうか。

「マー君は僕を気に入ってくれたみたいで、気が付いたら一緒に《理想郷》から付いてきてくれていました。だから僕は、マー君が最も映える庭を作りたいんです!」

 ドッティは調子を戻し、無邪気すぎて狂気を感じる笑顔を浮かべた。老婦人の言っていた《理想郷》の再現に必要なものは、マラカイトそのものだったらしい。帰還者に憧れる身としては詳しく話を聞きたいところだが、そんな気は起きなかった。ドッティとエミリオの思い描く《理想郷》の姿は、大きく食い違っているようだ。

「ああ、マー君!ちょうどいいところに!」

「は」

 ドッティの言葉に暗い庭を見回せば、ドッティの後ろに爛々と光る二つの大きな目玉が見えた。すぐに、十メートル程の巨体が近付いて来る。いつの間に、こんなに傍まで来ていたのだろう。音などほとんどしなかった。エミリオは座り込んだまま、少しでもマラカイトから距離を置こうと後退った。

「ほら、マー君。新しいご飯だよ!」

「な、ふざけんな!」

 血まみれの左足の傷を急いで押さえるが、そんなことで匂いを消すことはできない。当然、マラカイトはずずず、とエミリオに迫って来た。足の痛みも忘れて立ち上がろうとするが、体重をかけた途端に左足に激痛が走った。とてもではないが、これでは歩くこともままならない。モタモタしているエミリオに構うことなく、マラカイトは大きくその口を開き──左足に噛みついた。

「っぐうぅ!」

 あまりの激痛に意識が飛びかけ、歯を食いしばる。足からは、痛みと共にミシミシと嫌な音が聞こえた。マラカイトは立派な牙をエミリオの左足に食い込ませ、食い千切るつもりなのだろう。大きな縦長の瞳孔が、冷たくこちらを見つめていた。痛みと恐怖に、涙で前が滲む。死んでたまるか。まだやりたいことも、描きたい絵も山ほどあるのだ。何より、まだ何もできていない今死んではきっと《理想郷》へ行けない。エミリオは白銀に煌めく折り畳みナイフを、マラカイトの片目に力いっぱい付き立てた。

「でりゃあ!」

 ケテルに《祝福》を込めてもらったナイフは、マラカイトの眼球に深々と刺さった。流石に堪えたのか、マラカイトはシャーと唸り口を離した。その隙を突いて、エミリオは這うようにマラカイトからできるだけ遠ざかる。

「マー君!大丈夫ですか、マー君!なんてひどいことを!」

 遅々とした動きで前進していると、背後から痛ましいドッティの声がした。首だけ振り返れば、痛みにのたうち回るマラカイトに、ドッティが悲愴に満ちた顔で駆け寄っていた。

「……よくもマー君を。許しません許しません許しません許しません!」

「しまっ」

 とうとう、ドッティが怒りをあらわにした。別人のように顔を歪ませ、ギロリとエミリオを見据える。エミリオは這って逃げようとしたが、足は牙の毒のせいか感覚がなくなってきた。舌打ちをし、それでも腕だけで進もうとする。近付いて来る足音にせめて横に転がれば、ドッティが剪定ばさみを振り上げたところだった。そして──その後ろから、マラカイトがドッティの右腕に噛みついた。

「うぎゃああああぁぁ!」

 ドッティは絶叫すると、地面に崩れ落ちた。絶叫に紛れ、骨の折れるようなゴキンという音が聞こえた気がする。放り出された剪定ばさみが、ゴトリと転がった。

「え、は、何で……」

 呆然とするエミリオをよそに、マラカイトは長い舌で倒れたドッティの右腕の匂いを嗅いでいる。どうやら目をやられたことで、距離が近い方の血の匂いに反応したようだ。しかし、マラカイトはすぐにエミリオの方に顔を向け、鎌首をもたげた。

「オレの、方が、血も滴るいい男ってか?嬉しくない、っての」

 強がってみるが、掠れた弱弱しい声しか出ない。マラカイトが間近でもう一度大きく口を開くと、エミリオのすぐ後ろから銃声がした。瞬間、マラカイトの巨体が傾く。

「せ、先生、遅い……え?」

 振り向けば、そこにいたのはルーベンではなかった。極々小さな白金の拳銃を両手で構えた、無表情のケテルだった。


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