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七章 紅茶とパンケーキ

 ディシド村から戻り、早くも一週間が過ぎた。

 幸いにも聖女の意識は三日程で戻り、薬の後遺症もないとのことだった。しばらくはどうしても多少の不調があるが、その内治まるという。ただ、栄養失調気味なのと、長らく意識が曖昧だったせいで感情の起伏が小さくなってしまっているそうだ。普通に笑ったり泣いたりできるようになるまでは、時間がかかるという。

 記憶は朧気ながらあったようで、エミリオとルーベンのことは自分を助けてくれた人、と認識しているらしい。知らない人に連れ去られた、と思われていなくてよかった。

「あの子、順調に元気になってるみたいッスね」

 エミリオは、展開した《情報端末》のディスプレイと睨み合いをしているルーベンの机に紅茶を置いた。今回の一件で、ルーベンはあれこれデータの処理に追われている。上への報告、ベルージの処遇など一週間経っても中々終わらないようだ。ベルージ達は、ひとまず詐欺罪で捕まった。聖女に投与されていた薬のことや、恐喝など余罪も多いという。何より、お互いに罪を押し付け合っていて、中々話が進まないらしい。

 その間、エミリオは本を見て自主勉強なので少し気が楽である。

「医師に《祝福》の測定結果も聞いたが、やはりSランクだそうだ。いくつも測定機器が壊れたと感動していたぞ」

「感動してる場合ッスか、それ……」

 壊れた機械はいいのだろうか。

「二百年ぶりのSランクだからな。だが、あの子のためにもこれは内密にしてくれ。今のところ知っているのは、本人と私とエミリオ、ソリスさんと主治医、聖皇猊下だけだ」

「分かってるッス。あの子がまた、何かに巻き込まれるようなことになったら嫌ッスからね」

 エミリオは大きく頷いた。ソリスも、それを忌避してルーベンに預けたはずだ。できるだけ穏やかに、普通に過ごせたらと思う。

「今回は君に書類データの作成の仕方を教えようと思っていたのだが、こんなことになるとはな。奇跡でもないのに、データ入力にこんなに時間がかかるのは初めてだよ」

 紅茶に手を伸ばし、ルーベンは目元を軽く揉んだ。

「うええ、オレがやったらミスだらけになりそうッスよ」

「何を言っているんだ、いずれは君もやるんだぞ。奇跡を記す重要な仕事だ」

「……先生は何で奇跡認定人になったんスか?」

 どうせお堅いことを言うのだろう、と投げやりに尋ねると、

「私はな、この目で本物の奇跡を見てみたいのだよ」

 意外な答えが返ってきた。

「本物の奇跡……ッスか?」

「よし、復習だエミリオ。《アルティクムの奇跡》とは?」

「え、ちょ、ちょっと待って欲しいッス!」

 いきなりの質問に、エミリオは必死に記憶を漁った。確か、工房で描いていた奇跡画のモチーフだったはずだ。

「え~と……《アルティクムの奇跡》は郷歴一三八九年、今から九三年前。現状一番新しい《準奇跡》ッス」

 そっとルーベンの横顔を盗み見ると、小さく頷いているので合っているようだ。少しだけ自信を持って、エミリオは続ける。

「西の国境付近にある、アルティクム村での奇跡ッスね。隣国から攻めてきた百人の兵を、たった一人の村娘が説得し、争うことなく和平へと導いたという奇跡ッス」

「ふむ、いいだろう」

 紅茶を一口飲み、ルーベンは満足げに言った。

「実はな、私の祖父がアルティクム村の出身で奇跡の目撃者なのだよ」

「え、すごいッスね!詳しく聞きたいッス!」

 エミリオは思わず机に身を乗り出した。ルーベンは遠い日を懐かしむように、目を閉じて語る。

「当時、祖父は五歳だったのだが、その光景はよく覚えていると言っていたよ。突如攻めてきた兵士達、恐れ怯える人々。そんな中、彼の村娘──ちょうど、今の君くらいの年だったそうだ。彼女だけが、毅然と敵兵に話をしに行ったらしい」

「殺されるかも、とか考えなかったんスかね」

「いきなり襲われることはないだろう、と踏んだらしい。国境を越えた時点で、兵士達は相当疲弊していたそうだからな。西の国境沿いの森には、その頃多数の《魔蛇》が生息していたのだよ」

「何でまたそんな所を……」

 エミリオの中で、村娘への賞賛が敵兵への同情に変わった。自ら地獄に向かうようなものである。

「ちょうどその数年、村は不作続きでな。村が弱っている今なら攻め込めると思ったのだろう。《魔蛇》が生息していることまでは知らなかったらしい」

「ありゃりゃ」

 《魔蛇》への対策もなしに、よく森を抜けられたものだ。それは疲弊もするだろう。

「娘は《魔蛇》に傷付けられた兵士達を助ける代わりに、村に手を出すなと説得したそうだ。初めは敵国の村娘の言うことなど、と相手も突っぱねていたらしいが、《魔蛇》の毒にやられた者が苦しみ出してな。『自国の民を守るのと、敵国の民を殺すのとどちらが大事なのか』と娘に一喝されたらしい」

「へぇ、格好いいッスね!」

「娘の言葉に、兵士達は戦わないことを条件に治療を求め、村側もその条件を受け入れた。食糧が少ない中、村側でも相当葛藤があったようだがな。それでも、兵士達を受け入れることにしたのだ。私は娘だけでなく、村の人々全員の勇気だと思っている。娘自身が《祝福》持ちだったそうで、率先して治療をしたそうだ。これが私が祖父から聞いた、《アルティクムの奇跡》の詳細だ。娘が必死に兵士達を説得し、少しずつ信頼を得ていく様子を祖父に何度も何度も聞かされたものだよ」

 楽しそうに話すルーベンは、どこか少年のようだ。

「そんな祖父の話を聞かされて育ったものだから、いつしか私も奇跡が見たいと思うようになったのだ。人々が心を動かす、本当の奇跡を」

「……何か意外ッス。もっと事務的な理由かと思ってたッスよ」

「君は私を何だと思っているのかね。まぁ、こんなことを話した部下は君が初めてだよ」

 ただの仕事人間かと思っていたが、人間らしいところもあったようだ。言えば怒られるのは明らかなので、黙っておく。

 ルーベンが《情報端末》に向き直ると、ドアの低い位置からノックが聞こえた。

「……?お客さんッスかね?」

「どうぞ」

 ルーベンが声をかけると、エミリオ達と同じダークグレーの制服を着た少女が入って来た。

「あの。こんにちは」

「どちら様で……うん?もしかして、聖女様!?」

 見覚えのある顔に、エミリオは目を丸くした。一瞬分からなかったが、長いストロベリーブロンドの髪は後ろで三つ編みにしてまとめている。エミリオの記憶より、随分と顔色が良い。まだまだ細く、表情もほとんど変わらないが、無機質な人形のような雰囲気は残っていない。

「もう、聖女じゃないよ。聖皇様に、聖記名ももらったし。わたし、今日からケテル・クレメンティっていうの」

 聖皇猊下。この大聖庁、エリュオン教のトップであり、国王陛下の次の地位にいるお方である。国民のほとんどにとって、雲の上の人だ。エミリオでは、会話どころかまず謁見すら許されないだろう。

「聖皇様に聖記名をもらえたのか!すごいな!」

「《祝福》のこともあるが、猊下はケテルの生い立ちを聞いて気にかけて下さっているのだよ」

 聖記名とは、本来二十歳になり成人した時に付けられる名前だ。幼い自分と決別し、《理想郷》を目指すための正式な名前となる。本来は成人した時に神学部門へ申請し、聖記名をもらう形式となっている。成人するまでの名前は俗名であり、成人後はごく親しい相手以外に明かすことはない。まだ成人していないエミリオは、俗名である。

 しかし、いくつか例外がある。未成年あるいは一度聖記名を得た者であっても、命に関わるような病気や事故をした時は、厄落しに聖記名をもらうことができるのだ。ただし、申請は通常の聖記名登録より複雑なため、権利があっても名を変えない人も多いという。ケテルは当然未成年のため、この厄落しの聖記名が聖皇猊下直々に認められたようだ。

「……って、クレメンティ?先生と同じ姓ッスね?」

「彼女は私の養子ということで、引き取ったのだよ。ソリスさんの許可も得た」

「うえええええええええ!?」

 予想だにしない事態に、エミリオは思い切り叫んだ。いつの間にそんなことになっていたのだろう。一言も聞いていない。

「聖記名や戸籍関係のデータもあって、この一週間忙しかったんだ。よろしく、ケテル」

「ん。よろしく」

 大混乱のエミリオをよそに、二人は握手をしている。

「なので、その。私のことは、養父パパと呼んでくれていいのだよ」

「いきなり親バカ炸裂させないでほしいッス!」

 照れながら言うルーベンに、エミリオはもう一度叫んだ。

「ごめんなさい。それは、ちょっと……」

「ほら!ケテルも困ってるじゃないッスか!」

 表情はほとんど動かないままだが、困惑しているのは流石に分かる。叫び過ぎたせいで、エミリオは息切れしてきた。精神的にも、無駄に疲れた気がする。

「ふむ、そうか……」

「えっと、ルーベンって呼んじゃダメ?」

「いや、構わんよ」

 一瞬気落ちしたルーベンだったが、すぐに復活した。単純すぎではないだろうか。

「ちょっと先生、どういうことッスか?大体、ケテルは出歩いて大丈夫なんスか?」

「ディシド村に戻れない以上、聖都での後ろ盾が必要だろう。《祝福》の件もあるからな、私が引き取った方が安心だと思ったのだ。まだ貧血を起こしたりするので、しばらくは病棟で様子見だがね」

「それは、そうかもしれないッスけど」

「何より、私自身昔から子供が欲しくてね。恋人すらいたことがないので諦めていたが、こんな形で叶うとは思わなかったよ。ちなみに《祝福》のことは伏せて、ケテルは『奇跡調査先で引き取った身寄りのない少女』という設定だ。君もそう接してくれ」

「またッスか……」

 設定も何も、《祝福》のこと以外はほぼそのままである。エミリオにとっては、妹分と言ったところだろうか。

「なら、ケテルが奇跡部門の制服を着てるのは何でなんスか?」

「それは、わたしが、聖皇様にお願いしたの。ルーベンとエミリオと、一緒がいいって」

 まだ少し、たどたどしくケテルが言う。

「体調が戻り次第、学校に編入させようと思ったのだが本人がこの調子でな。主治医からも、急に大勢の中に入るのは精神的に負担になるかもしれないと言われたのだ。それなら私の目が届く奇跡部門に、と聖皇猊下が仰ったのだよ」

「はぁ」

「教育は個別で、きちんと受けさせることになっている。何せ、四年も意識が混濁していたからな」

 もしや、ケテルはものすごい扱いを受けているのではないだろうか。もちろん、良い意味で。二百年ぶりのSランクが貴重ということなのだろう。それでも、ケテル本人の意思を尊重してもらえるのなら心配はなさそうだ。

「わたしね、……っ」

「おっと!」

 近くに来ようとしたケテルがよろめいたので、エミリオは慌てて抱きとめた。まだ本調子とは言えないのだろう。本部へ連れて帰ってきた時も思ったが、ラヴェニア教会にいた同じくらいの年の少女達よりずっと軽い。

「大丈夫か?」

「ん、ありがと。わたし、二人の役に立てるように。頑張るね」

「……無理はするなよ。これからよろしくな」

 表情は乏しいけれど、ディシド村にいた時と違い、瞳にはしっかりと強い意志が見える。エミリオはへにゃりと笑い、優しくケテルの頭を撫でた。


*   *   *   *


 ケテルは毎日ではないが、時間がある時に奇跡部門に顔を出すようになった。エミリオにとっても、ルーベンにとっても憩いの一時である。ルーベン曰く、ケテルはエミリオより優秀で、勉強も進んでいるらしい。

 一ヶ月経ち、ケテルの体調も安定してきた。貧血でよろめくことも、急な頭痛や吐き気に襲われることもなくなり、エミリオもルーベンもほっとする。

 午後からケテルも一緒に、奇跡にならなかった例を聞いていると、ルーベンの《情報端末》から呼び出し音が響いた。

「何だ、退魔部門からメールとは珍しいな。……ふむ、二人共すまない。呼び出しを受けてしまったので、今日はここまでにしよう」

「今日はもう帰っていいってことッスか!やった!」

 喜ぶエミリオに、ルーベンはため息をつく。

「君は、復習でもしたまえ」

「うえ~。ゆっくり絵が描きたかったんスけど」

「エミリオ、絵を描くの?」

 エミリオが不満げに言うと、ケテルは奇跡規定大全から顔を上げた。

「あれ、言ってなかったか?オレ、ここに来る前は絵描きの仕事をしてたんだ。下っ端だったけどさ」

「そうなの?わたし、エミリオの絵を見てみたい。ルーベン、ダメ?」

「……仕方ない、遅くならない内に病棟へ戻るんだよ」

 一瞬渋い顔をしたものの、ケテルに甘いルーベンはあっさり許可を出した。


「おじゃま、します」

「ほい、ど~ぞ。悪いな、散らかってるけど気にしないでくれ」

 落ちている洗濯物やゴミを拾って、エミリオはケテルを部屋に通した。中古でタンスを買ったので、これでもかなりマシになった方である。多少乱雑なダイニングを見てもケテルは反応しなかったが、

「こっちが工房兼寝室な」

「……わ」

 寝室のドアを開けた途端に固まってしまった。

 奥にはベッドとタンス。そして部屋中に散らばっている筆に鉛筆、絵の具、紙と紙とひたすら紙。エミリオ自身にも、ゴミなのかメモなのか分からないものがほとんどだ。

「汚くて、本当にごめんな……」

「ちょっと、びっくりした」

 表情は変えないまま、ケテルは目をぱちくりさせた。

「今は、何の絵を描いてるの?」

「窓から見える風景とか、大聖庁の建物とかだよ」

 落ちていたスケッチを何枚か拾い、ケテルに見せる。線だけのものや、色まで塗ってあるもの、描きかけなどまちまちだ。

「不思議な風景のもあるね」

「それは、《理想郷》をイメージして描いたやつなんだ。昔から、憧れでさ」

「聖典に出てくる、この世界じゃない綺麗なところ、だよね。大聖庁の、エントランスの天井の絵もそうだっけ」

「そうそう。イメージって言っても、オレ自身の記憶も混ぜてるけどな」

 エミリオは、絵を眺めながら遠い昔を思い返した。トーマス神父に引き取られる前、まだスラムにいた頃のぼんやりとした記憶だ。何故、どうしてスラムにいたのかは分からない。親に捨てられたのか、亡くなったのか。エミリオの記憶は、薄汚れた町、自分と同じように親のいない子供達の集まりからしかないのだ。いつも空腹で、パンや果物を盗んだのは一度や二度ではなかった。ラヴェニア教会に来てからは、悪事は止めたけれど。

 そんな中で、今もエミリオの心にきらきらと残っている記憶がある。

「小さい頃、綺麗な庭みたいなところに迷い込んだことがあるんだよ。見たことない植物ばっかりだったんだけどさ。今思えば、あの時は死ぬほど腹が減ってたから幻覚に近かったのかもな。歩き回ってたらいい匂いがして、行ってみたらやっぱり知らない木の実が生ってたんだ。林檎に似た、黄色っぽい木の実だったな。あんまり腹が減ってたから齧りついたんだけど、ムチャクチャ不味かったのを覚えてるよ」

「それ、大丈夫?毒とかなかった?」

「不味すぎて一口で放り投げたし、今こうしてピンピンしてるから平気だろ」

 ニカッと笑って、エミリオは胸を叩いて見せた。

「多分金持ちの別荘の庭園か何かだったんだろうけど、あれがオレの《理想郷》のイメージに一番近いんだよ。綺麗で眩しくて、いい匂いがする場所」

 風景はもう朧気だが、柔らかく鮮やかな甘い匂いと、苦く渋く鼻まで突き抜けた辛さの木の実の味はまだ覚えている。匂いと味がバラバラすぎて、強く印象に残っているのだろう。

「創記師エリュオンが、もう一度《理想郷》に行きたかったのも分かる気がするよ。オレも、もう一度あの庭に行けたらスケッチさせてほしいからな」

 創記師エリュオンは晩年、再び《理想郷》へ行こうと躍起になっていたという。《理想郷》の美しさに魅入られたせいか、優れた研究者でもあったと残されているので、それ故の探求心からか。ただ、あまりにも鬼気迫るものがあったと建国に関わった当時の信徒の記録がある。

「……《理想郷》って、そんなに素敵なものかな。わたし、あんまり《理想郷》行きたくない」

「えっ?何でだ?」

 小さな一言に、エミリオは絵からケテルに視線を移した。この《理想郷》信仰の国で、そんな意見があるとは思わなかった。誰もが《理想郷》を夢見、《理想郷》を目指すというのに。

「わたしもね、聖女になる前に、森で綺麗な場所に迷い込んだことがあるの」

 それは先日の一件があった、ディシド村のはずれの森のことだろう。

「お母さんに、お花をあげようと思って探してたの。お父さんが亡くなって、元気がなかったから」

「ケテルはいい子だな」

 エミリオは優しくケテルの頭を撫でた。恐らく、数少ない思い出の一つなのだろう。目を閉じて、ケテルはほんの少し柔らかい声で続ける。

「ありがと。でも冬だったから、全然お花見つからなくてね。あちこち探して、気付いたら、急にお花も植物も、たくさんあるところに出たの」

「冬なのにか?」

「わたしにも、分からない。お母さんは、冬に咲く花が集まってる場所かもって言ってた。すごく綺麗だったけど、変に綺麗すぎて。お花も摘まないで、帰ってきちゃった」

 あの森に、そんな場所があったとは意外だ。崖の場所や、張りぼてと人形の隠し場所を確認するのに軽く歩き回ったが、それらしきものは見なかった。

「お母さんは、まるで《理想郷》みたいね、って言ってたけど。もし、《理想郷》があの場所みたいなところなら、怖いなって」

「怖い?」

 エミリオはケテルの言いたいことが分からず、首を傾げた。綺麗が怖い、とはどういうことだろう。エミリオにとって、美しいものは人であれ物であれ好ましいものだ。絵にしたい、と思うくらいに。

「あんまりにも綺麗で、世界がいつもと違うように見えて。それで、怖くなったの。そこにいたら、いけない気がしたんだよね」

 ケテルの言いたいことを、エミリオも何となく理解した。美しすぎるものは、時に近寄りがたい。

「帰れなかったら、どうしようかと思った。どんなに素敵でも、知らない場所って、怖いよ。帰り方が分からないと、もっと怖い」

「そうだな」

 ケテルは制服のスカートの裾をぎゅ、と握り締めた。エミリオ自身、ラペト村からアーテルボルに来た時は緊張ばかりだったし、何度も帰りたいと思ったのは記憶に新しい。

「《理想郷》へ、生きてる間に行く方法が分からないなら。帰って来る方法も、分からないんだよね。例え《理想郷》へ行けても、帰って来られないのは嫌だな」

 確かに、《理想郷》への行き方も、帰り方も未だに分かっていない。残されている帰還者の記録では、気付けば見慣れぬ植物の園にいて、いつの間にか帰って来ていたというものばかりだ。創記師エリュオンでさえ、もう一度行くことは叶わず失意の内に亡くなったとされている。

「どんなところか、はっきり分かってないのに。何でそんなに、皆行きたがるんだろう」

「ケテルは頭がいいんだな。オレなんて、そんな難しいこと考えたこともなかったよ。《理想郷》へ行けても帰って来れないのは困る、ってのは少し考えたことあるけどさ」

 エリュオン教の大前提として、《理想郷》は美しく苦しみのない救いの地、と教わるのでそこに疑問を持ったことなどなかった。正しき者は死後に迎えられ、生きている内に辿り着けるのは至上の僥倖なのだと。

 四年もの間、自分に群がる異常な信徒達を見てきたケテルだからこその考えなのかもしれない。

「オレは、解明されてないからこそ行ってみたいよ。カメラが発明されて二百年近いけど、まだ《理想郷》の写真を撮った人もいないしさ。もしかしたら、《理想郷》で迷子になってる人がいたりしてな。ま、エリュオン教徒なら大喜びだろうけど」

「男の人って、冒険好きだよね」

 淡々と言うケテルに、エミリオは苦笑した。エミリオの場合、《理想郷》の風景を描き残したいという野望のためなのだが。

「そんじゃ、ケテルが知ってそうな絵を見るか?」

 エミリオは大聖庁、寮からの景色、奇跡部門室などの絵を拾い上げた。その内の一枚を、ケテルはじっと見つめた。

「これ、ルクゴール教会だね」

「お、よく分かったな。ディシド村じゃ絵を描いてる時間がなくて、帰って来てから描いたやつなんだ」

 記憶頼りにラフだけ描いたもので、かなり大雑把なものだ。ケテルはしばらく絵を見つめると、遠慮がちに口を開いた。

「……あのね。この絵、完成させてほしいな」

「いいけど、細かいとこは覚えてないぞ」

「《情報端末》で調べたら、写真出てこない?」

「……その手があったか」

 ケテルに言われ、早速《情報端末》で検索してみる。だが、出てきたのは外壁が塗り直される前のもので、写真自体も引きすぎていて細かい部分が分かりにくい。

「う~ん、この写真しか出てこないな」

「入り口には、外灯があったよ」

「そういや、二つ並んでたな」

「あと、ここの飾り、鳥だったと思う」

「どれどれ?」

 エミリオは近くに落ちていた鉛筆を手に取った。見つかった写真とケテルの助言、自分の記憶を辿りながら描き込んでいく。ここはどうだった、これはああだった、と言い合って絵を描くには賑やかだ。ケテルにとっては嫌な思い出もあるだろうから、なるべくそこには触れないように。

「うっし、こんな感じでどうだ?」

 消しゴムのカスを払い、エミリオは線画をケテルに渡した。完全にそのままとはいかないだろうが、かなり近付いたのではないだろうか。

「ん。こんな感じ、だったと思う」

「色は後にして、休憩するか」

 ラヴェニア教会から持って来た目覚まし時計を見れば、四時近かった。いくらか小腹もすいた気がする。

「ケテル、絵を見てていいから、ちょっと待っててくれ」

「……?分かった」

 不思議そうにするケテルを置いて、エミリオはキッチンを漁った。特売で安くなっていた小麦粉と、自作のラズベリージャムを引っ張り出す。卵もまだあったはずだ。


「お~い、ケテル!おやつできたぞ!」

「おやつ……」

 エミリオが声をかけると、ケテルはドアを開けてキッチンのテーブルに視線を向けた。こんがりキツネ色に焼けたパンケーキが、二人分並べてある。

「パンケーキを焼いたんだ。ジャムもあるからな」

「わ、いい匂い」

 ケテルを椅子に座らせ、ティーバッグで紅茶も淹れる。ティーバッグは奇跡部門室から、いくつか失敬したものだ。お茶の用意はエミリオの仕事になっているので、バレていないと思いたい。

「いただき、ます」

 ジャムをたっぷり乗せて、ケテルはパンケーキを頬張った。

「おいひぃ!」

 へにゃり、とケテルは初めて笑顔を見せた。普段は無表情なので冷たく感じられるが、笑顔は年齢より幼く見える。本人は意識したわけではないようで、すぐに無表情に戻ってしまった。それでも、大きな一歩なのだろう。

「……そうか、ならよかったよ」

 エミリオも自分の分を食べようとすると、部屋の呼び鈴が鳴った。

「お客さん?」

「誰だろ?」

 イェソドは三日前から、凶悪事件に出動しているはずだ。《退魔師》は《魔蛇》討伐が仕事の主だが、アルビレオが文句を言いに来るほど騒いだ覚えもない。首を傾げながらドアを開ければ、

「エミリオ!いい匂いがする!」

 やたらボロボロなイェソドだった。

「結局お前かよ!っていうか、ボロボロだぞ!」

「たった今、仕事から帰って来たんだよ……」

 大きな怪我はなさそうなものの、制服は泥だらけの傷だらけだ。《魔蛇》との戦闘の激しさを物語っている。

「なぁ、いい匂いがするけど何の匂いだ?」

「パンケーキだけど」

「パンケーキ!代金は出すから、もらえないか?朝から何も食ってなくて、ハラペコなんだよ」

「いいけど、今は……」

「助かる!ありがとな!」

 エミリオの話を最後まで聞かず、イェソドは部屋に押し入った。

「こんにちは」

「え、あ、こんにちは……?」

 入ってすぐのダイニングで、パンケーキを食べていたケテルと鉢合わせてイェソドは固まった。来客がいるとは思わなかったのだろう。ケテルは無表情のまま、ぱちぱちと瞬きをした。

「えと。エミリオの、友達?」

「おう。コイツは、隣の部屋のイェソドだ」

 固まったままのイェソドの代わりに、エミリオが答える。イェソドはそれで我に返ったようで、小声で尋ねてきた。

「エミリオ、この子誰だ?」

「オレの妹分で、先生の養子のケテルだよ」

「ああ、例の……」

 簡単には説明してあったので、イェソドはすぐに納得したようだった。ルーベンの言い付け通り、《祝福》のことは話していないけれど。

「イェソドだ。よろしく、ケテル」

「ん。よろしく」

 二人の挨拶を背中で聞きながら、エミリオは冷蔵庫から卵を取り出した。

「しょうがない。イェソドはそのパンケーキ食べていいぞ、まだ手をつけてないし。オレの分は新しく焼くから」

 小麦粉をカップで計ろうとすると、イェソドがバッと振り返った。

「これ、エミリオが作ったのか!?買ったんじゃなくて!?」

「まぁな。流石に、これくらいで金は取らないから安心しろよ」

「お前、お菓子作れたのか!」

「美味しいよ」

 謎の勢いで詰め寄って来るイェソドの奥から、ケテルものんびり言う。

「オレが菓子作れるの、そんなに意外かよ?簡単なのしかできないぞ」

「いや、すごい嬉しい……」

「は?」

 何故か感動しているらしいイェソドから、エミリオは少し距離を取った。ちょっと気持ち悪い。

「俺、甘い物に目がないんだ。でも、食堂では滅多に出ないからあんまり食べられなくて」

「ケーキ屋に行けばいいだろ」

「一番近いケーキ屋は、出禁になってるんだよ。他のケーキ屋は遠いし」

 イェソドの言葉に、エミリオは思わず半目で返した。一体、ケーキ屋で何をしたのだろう。

「頼む、材料費は出すから!たまにでいいから!」

「嫌だよ、可愛い女の子ならともかく。自分で作れるように努力しろ」

「料理は苦手なんだって!皿洗いもするから!」

 虫に続き、イェソドはもう少し自分でどうにかして欲しい。二人がやいのやいの言っていると、隣のイェソドの部屋から呼び鈴の音がした。

「……イェソド?いないの、イェソド!」

「ゲッ、ティファだ!」

 廊下から聞こえてきた声に、イェソドは面倒臭そうな顔をした。

「え、ティファ?もしかして、ティファ・カリシオさん?」

「そうだけど……」

「ちょ、お前、ティファさんとどういう関係だよ!?」

 今度はエミリオがイェソドに詰め寄った。肩を掴み、ガクガクと揺さぶる。

「部屋にティファさんが来るくらい親しいのかよ、ずるいぞ!」

「落ち着け、落ち着けエミリオ!」

 イェソドはバシン、とエミリオの鳩尾に一撃入れた。現役の《退魔師》だけあって、かなり効く。エミリオは低く呻きながら、しゃがみ込んだ。

「何を勘違いしてるか知らないが、俺とティファは単なる双子だ」

「……は?双子?」

 鳩尾を押さえながら、エミリオは顔を上げた。イェソドは顔をしかめ、心底嫌そう言う。

「アイツが姉で、俺が弟。変な勘違いは止めろ」

「でも、似てない……」

「そりゃ、二卵性双生児だからな」

 言われてみれば、イェソドとティファの髪と目の色は同じだった気がする。

「ね、出なくていいの?怒ってるみたいだよ」

 ケテルの一言に、二人は廊下の声がエスカレートしていることに気付いた。

「イェソド!私がわざわざ忘れていった細剣レイピア持ってきてあげたのに、無視なわけ!」

 声と共に、ガァン!と、ドアを強く蹴り飛ばしたような音が響く。途端に、イェソドは顔色を青くした。

「ヤバい、またドアが壊される!」

 イェソドはバタバタと玄関へ走って行った。ケテルは意に介さず、もきゅもきゅとパンケーキを食べている。

「……また、壊される?」

 双子というショックから戻って来たエミリオは、イェソドの言葉をぼんやりと繰り返した。また、ということは過去にも壊されたことがあるのだろうか。寮のドアはオンボロなラヴェニア教会と違い、朽ちかけた木製ではなく、しっかりした鉄製である。そう簡単に壊れるものではないはずだ。そういえば、前にルーベンも器物破損がどうのと言っていたような。いや、あの可憐なティファに限ってそんなことはないだろう。何かの聞き間違いだ、そうに違いない。

「悪い、ティファ!」

「遅い!って、あら?アンタの部屋、そっちだった?」

「こっちは友達の部屋なんだ。ちょっと、話をしてて」

「ふーん」

 興味のなさそうなティファの声に、エミリオは突然ピンと閃いた。

「ケテル、せっかくだからティファさんもお招きしようと思うんだ!」

「賑やかになるね」

 ケテルの承諾を得て、先程のイェソドを上回る勢いで玄関に向かう。

「こんにちは、イェソドの友人のエミリオッス!前にお会いしたことがあるんスけど、覚えてるッスか?」

「え、そうなのか?いつだよ?どこでだ?」

 いきなり出てきたエミリオにティファは驚いたようだったが、それ以上にイェソドの方が食いついく。ティファはエミリオの顔を数秒見つめると、小さく頷いた。

「……ああ、食堂の場所が分からなかった人?」

「はい、そうッス!あの時のお礼と言っては難ッスけど、パンケーキ焼くんでティファさんもご一緒にいかがッスか?」

「へぇ、パンケーキ。ご迷惑でなければ、いただこうかしら」

「どうぞどうぞ!オレの妹分も一緒ッスけど!」

「食堂?何の話だ?」

 戸惑うイェソドを放置して、エミリオはティファを中へ通した。

「あら、あなたがエミリオの妹分さん?」

「初めまして、ケテルだよ」

「私はティファよ、よろしくね」

「ああ、女の子がいると花があるなぁ……」

 ティファとケテルが話しているのを見て、エミリオはしみじみと言った。もしかしたら、ここが《理想郷》だったのかもしれない。しかし、エミリオが幸せを噛みしめていると、後ろで結った髪をぐいと引っ張られた。

「おい、食堂って何の話だ?」

「いてて。ここに来た初日に食堂の場所が分からなくて、偶然通りかかったティファさんに教えてもらったんだよ」

「俺は聞いてないぞ」

「そりゃ、お前とティファさんが姉弟だなんて知らなかったからな。大体、姓も違うだろ」

 ティファ・カリシオとイェソド・バーティ。名前を聞いただけでは双子どころか、姉弟だとも気付かないだろう。

「俺達は両親を《魔蛇》に殺されたんだ。それで、別々の親戚に引き取られたから姓が違うんだよ」

「ま、すぐにこの大聖庁で再会したんだけどね。《退魔師》として」

「わ、すごいね」

 イェソドの言う内容は中々重かったが、ティファがカラリと笑って言うので相殺されてしまった。性格も似ていないようだが、二人並ぶとやはり髪と目の色が同じなのがよく分かる。

 エミリオはパンケーキの材料をもう一人分出しながら、小声でイェソドに話しかけた。

「菓子の件さ。ティファさんも交えてのお茶会なら、考えてもいいぞ」

「……言っとくが、ティファはただの怪力女だからな」

「強い女性って、格好いいじゃん」

「ドアに大穴を開けて、素手で《情報端末》を壊すような奴がか?」

 《情報端末》は細く脆そうに見えるが、頑丈な造りで落としたり踏みつけた程度では壊れない、と取扱説明書に書かれていた。イェソドのケーキ屋出禁といい、一体どんな状況でそうなったのだろう。この双子は、変なところだけ似ているようだ。


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