四章 ディシド村
エミリオが聖都アーテルボルに来て、早くも二週間が過ぎた。明日は待ちに待った給料日である。
「やっと明日は給料日か、長かった……」
一日が終わり、エミリオはのろのろと寮の自室のドアを開けた。
結局ルーベンが譲らなかったため、エミリオは奇跡を七十件覚えるはめになった。ただ奇跡を覚えるだけではなく、奇跡の年号や大まかな内容も言えるように、というのだからエミリオには辛い。そこに奇跡認定人の規定やら正しい敬語を叩き込まれているので、最早頭はパンク寸前だ。むしろ、一つ覚える度に一つ忘れている気がする。
エミリオは制服の上着をテーブルに放り、伸びをしてから冷蔵庫を覗いた。
「残り物でミネストローネにでもするかな~」
中に入っている物を確認して夕食のメニューを考えていると、リンゴンと呼び鈴が鳴った。尋ねて来るのは、友人となった隣室のイェソドくらいである。
「ほいよ~?」
「え、エミリオ!よかった!」
ドアを開ければ、案の定イェソドが立っていた。しかし、どことなく顔色が悪い。
「悪いんだが、助けてほしい!」
「……金は貸せないぞ」
「違う!」
エミリオが胡乱気な目で見ると、イェソドは怒鳴って否定した。
「あのな……部屋にゴキブリが出て……」
「ごめん、ヤツはオレも苦手だ」
オドオドと言うイェソドに、エミリオは首を横に振った。彼の空飛ぶ黒い悪魔は、エミリオの芸術感性的にアウトである。あのベチャっとした形状も、カサカサした動きも本能が受け付けないのだ。恐らく、世界で一番絵にしたくない。
「俺が追い詰めるから、エミリオが退治してくれ!箒と塵取り貸すから!」
「イェソドは《退魔師》だろ、普段もっと怖い《魔蛇》を相手にしてるならいけるって!」
「虫だけは苦手なんだよ、それに《魔蛇》は飛ばない!」
「それはそれで怖ぇな!」
二人して廊下でぎゃいぎゃい言い合っていると、
「何事です、騒がしいですよ!」
一階から上がってきた男性に怒られてしまった。
「寮監さん!」
「えっ、寮監さん?」
エミリオ達を睨みながら歩いて来る男性は、線が細く中性的でイメージと大分違う。明るい栗色の髪は肩下まであり、三つ編みにしてまとめられている。年齢は二十代後半くらいだろうか。
「まだ夕方ですが、こんなところで騒いでは他の部屋の方の迷惑になります」
「す、すみません」
「おや、君が最近入ったラヴェニア君ですね。僕は寮監のアルビレオ・ヴェントです」
「どうもッス……」
筋肉隆々ではなかったが、きっぱりした物言いはそれだけで威圧感がある。イェソドが怒らせると怖い、と言っていた意味が分かるような気がした。
「それで、何が原因で騒いでいたんですか?」
「えっと、俺の部屋にゴキブリが出て……。俺達どっちも苦手で、どうしようかって話してたんです」
「ゴキブリですか?」
アルビレオは眉をひそめ、イェソドの部屋のドアを見やった。
「なら、僕が退治しましょう。どこにいたんです?」
「え、ありがとうございます!流し台の下の辺りにですね……」
イェソドが説明しながらドアを開くと、玄関横の壁を黒い何かが素早く下から上へ移動した。
「うわわわ!壁、壁!」
「嘘だろ!」
エミリオとイェソドはゴキブリを視認した瞬間、ドアから飛び退いた。お互いを盾にしようとして、掴み合う形になってしまう。アルビレオだけが、玄関に踏み込んだ。しかし次の瞬間、上からもう一匹降りてきた。カサカサと。
「うわぁああ!二匹目だあああ!」
「嘘だろおおお!」
エミリオとイェソドは掴み合ったまま、思わず絶叫した。圧倒的絶望を前に、恥も外聞もない。二人揃って、涙目である。
「煩いです!」
ダン、バァン!
イライラと、アルビレオが壁を強く殴りつけた。エミリオ達は、ゴキブリに対するのとは違う意味で縮み上がる。
「退治はしました、これ以上騒がないようにして下さい」
「は……え……?」
見れば、壁には黒く潰れた何かが二ヵ所飛び散っていた。アルビレオの手にも同じものが付着している。
「それでは、僕は失礼します。掃除はきちんとして下さいね」
茫然と立ち尽くす二人を残して、アルビレオはさっさと一階へと戻って行った。あまりのことに、頭が状況をうまく処理してくれない。
「まさか……素手で?」
「素早いゴキブリを、二匹狙い撃ちだと……」
壁に飛び散ったモノに慄きながら、二人は感嘆とも驚嘆ともつかない声を零した。退治してもらい助かったのは事実だが、素直に喜べない。
「……片付け頑張れよ、イェソド」
「ちょっと頑張れない……」
イェソドの顔色は、当初よりずっと青白くなっていた。
壁の掃除を手伝い自室に戻って来る頃には、エミリオの食欲は完全に失せてしまっていた。夕食は後にして、先にシャワーを浴びることにする。まだ収納家具がないので出しっぱなしの着替えを漁っていると、《情報端末》から着信音が鳴り出した。
「うお、メールじゃなくて電話だ!」
着信画面を見て、エミリオはわたわたと《情報端末》を手に取った。
『もしもし、エミリオ。今、大丈夫かね?』
聞こえてきたのは、ルーベンの声だった。そもそも、トーマス神父、ルーベン、イェソドしか登録していないのだが。
「はいは~い。どうかしたんスか、先生?」
『急で悪いが、明日から奇跡調査に行くことになった。もちろん、君もだ』
「うえ!?」
『調査には数日かかると思われるのでな、着替えや必要なものを持って来てくるように。制服ではなく、私服で大丈夫だ。ああ、交通費は経費で落ちるから心配いらん』
「はぁ……」
『詳しくは明日説明しよう。荷物を持って、朝九時にアーテルボル駅の中央口に来てくれたまえ』
言うだけ言うと、電話はブツリと切られてしまった。エミリオは呆然と《情報端末》の画面を見たまま立ち尽くしていたが、ハッと我に返った。
「賞味期限がヤバイやつ、食べ切らないと!」
どこまでも、貧乏性である。
* * * *
翌日。
「今回奇跡申請があったのは、ディシド村というところだ。アーテルボル駅から、汽車に二時間半程乗る」
「うちの村よりは近いんスね」
人がごった返すアーテルボル駅で、エミリオはラヴェニア教会から持って来た大きなカバンを横に壁に寄りかかった。ルーベンのセピア色のトランクケースは、エミリオのものより二回りほど小さくコンパクトだ。
「そこからバスで一時間、さらに徒歩で一時間かかる」
「思ったより遠いッスね!?」
ラペト村も田舎だが、これから向かう場所も似たりよったりなのかもしれない。
「よくあることだ。ほら、君の切符だ」
「よくあることなんスか……」
切符を受け取りながら、エミリオは今後の不安を感じた。エミリオも持ち運びしやすいトランクケースを買った方がいいのかもしれない。
「そういえば、先生今日は一般制服なんスね」
ルーベンはいつものダークグレーの制服でも、私服でもなく、黒の一般制服を着ている。心なしか、厳しさが増して見える。
「奇跡認定人として正直に行っては、物事の表面ばかり見せられることが多いのだよ。今回、私と君は奇跡の噂を聞いて訪れた巡礼の師弟、という設定だ」
「設定ッスか……」
ルーベンの口から、そんな単語が出てくるとは思わなかった。
「何、基本的に普段と同じようにしていればいい。申請内容としては、『奇跡を起こす聖女がいる』とのことだ。人々の傷と心を癒す村の救世主、らしい」
「へぇ、聖女様ッスか」
「まぁ、九割方偽物だろうがな」
「えっ」
ルーベンはさらっと、調査の根本を揺るがすことを言った。
「聖女も聖人も、昨今そうそういるものではない。今回は君の研修のようなものだ」
「うええ……」
淡々と話すルーベンに、エミリオは反応に困った。気楽でいいと喜ぶべきか、決めつけていいのかと訝しむべきか。
「さて、そろそろ汽車の時間だな。行くぞ」
広大な駅を、ルーベンの案内で進む。慣れないエミリオにとっては、ほとんど迷路のようだ。ホームも人も多すぎる。初めて訪れた二週間前が、遠いような昨日のようなおかしな感覚だ。
定刻通りに来た汽車は空いていて、二人共が座るとすぐに発車した。
「それにしても……」
「何かね?」
「男二人旅って、誰も得しないッスよコレ……」
落胆するエミリオに、ルーベンはまたか、という顔をした。
「せめて、彩りを添える女の人が欲しいじゃないッスか。ティファさんとか、ティファさんとか!」
拳を握り、エミリオは力説した。初日以降ティファには会えていないが、彼女がいてくれればエミリオの士気は段違いだっただろう。
「部門の違う彼女が同行することは、まずありえん」
「うぅ、そうッスよね……」
分かってはいたが、夢くらい見させてくれてもいいだろう。この二週間、勉強漬けで絵を描く気力もなかったので、心に潤いがほしかったのだ。ノートの端に、こっそり落書きはしていたけれど。
「乗り換えは何回くらいあるッスか?」
「一度だけだ。一時間と二十分程、この汽車に乗る」
乗り換えはラペト村より楽なようだ。何より、それだけ時間があれば久々にスケッチくらいできそうだ。カバンからクロッキー帳とペンケースを出せば、興味深そうにルーベンが覗いてきた。
「わざわざ持って来たのかね?」
「ダメだったッスか?ちゃんと、仕事に差し支えないようにするッス」
「それは構わんが……。カバンが重いだろう」
「大したことないッスよ。へへへ、絵の具も持って来たんスよ」
ニヤリと、エミリオは使い古した水彩絵の具を見せた。残り少ない色もあるが、スケッチに軽く色を付けるくらいなら足りるだろう。
二人旅は乗り換えもスムーズで、順調かと思いきや問題はバス停で起こった。
日に焼けて、黄色く変色した時刻表に書かれていたのは。
「先生……バスが一日一本しかないッス……」
「しかも、二時間前に出てしまっているな……」
これにはルーベンも渋い表情をした。
「どうするッスか?」
「……歩いて行くしかあるまい」
選択肢は一つしかなかった。
* * * *
どうにかこうにか、二人がディシド村に着いたのは陽が暮れてきた頃だった。
「やっと着いたぁ……!四時間もかかったッスよ……」
「流石に足が痛いな……」
村の入り口で、既に二人共瀕死の状態である。何度か休憩を挟んだとは言え、山を越えて四時間も持ち運ぶには、ルーベンの言う通りエミリオのカバンは重かった。足だけでなく、手と肩も重症だ。カバンの取っ手を持っていた手の平はヒリヒリするし、肩は腕が上がらない。明日は全身筋肉痛だろう。
「さて、まず宿を探さねば」
「そもそも、宿屋があるんスか?」
エミリオは明かりの灯る家々を見渡した。失礼かもしれないが、村の規模はラペト村とそう変わらないように見える。悲しいかな、ラペト村には宿屋などなかった。
「《情報端末》で調べたら、村に一軒だけ宿があると出ていたぞ」
「へぇ、分かりやすいところにあればいいんスけどね。もう、なるべく歩き回りたくないッスよ……」
だが、そんな心配は一瞬で杞憂に終わった。村に入ってすぐ、宿屋への派手派手しい案内看板が立てられていたのだ。赤い看板に、デカデカと金色で文字が書かれている。『巡礼の方はどうぞ、当村唯一の宿へ!聖女様のお墨付き!』
「結構、有名みたいッスね?」
「……らしいな」
「ま、オレはゆっくり休めれば何でもいいッス」
昼間であれば目に痛かったであろう看板に、ルーベンは冷たい目線を向けた。デザインセンスは、エミリオもいかがなものかと思う。
看板の案内に従って村を進めば、三階建ての建物に『宿屋』の吊り看板が出ていた。
「すいませ~ん」
エミリオがドアを開けると、ドアの内側に付いていたベルがカランと鳴った。一階は酒場を兼ねているらしく、数人が食事をしたり酒を飲んでいた。
「はいはい、いらっしゃい。あら、もしかして巡礼の神父様?」
調理場の奥から出てきたのは、恰幅の良い年配の女将だった。ルーベンの格好を見て、ニコニコと嬉しそうに笑う。
「はい、こちらの聖女様のお噂を聞きまして。こちらは弟子です」
「あっと、どうも」
「なら、丁度いいわ!もうすぐ、一日一度の聖女様の奇跡が見られるの。村で一番大きな白い建物が、聖女様がいらっしゃるルクゴール教会よ」
女将はドアを開け、宿から少し離れた建物を指した。ラヴェニア教会より、一回り小さい、けれどずっと綺麗な白い教会だった。恐らく、外壁は近年塗り直されたのだろう。
「それはそれは。お教えいただき、ありがとうございます。早速向かうことにします」
「えっ」
「荷物だけ先にお預かりしちゃうわ。お名前を伺っていいかしら」
「ルーベン・クレメンティです。では、よろしくお願いしますね」
ルーベンとエミリオはカバンを女将に預け、聖女がいるというルクゴール教会に向かうことにした。正確に言えば、向かうことにされてしまった。エミリオとしては、足が痛い上に空腹なので早く休みたい。
「一日一度の奇跡か。これだけ大々的にしているということは、外面的なものだけではないのかもしれん」
「先生、オレもう疲れたッスよ……。奇跡とやらを見たら、さっさと宿で休みたいッス」
「気持ちは分かるが、できるだけ情報を集めたい」
「うええ……」
体力的にも精神的にも限界が近いエミリオは、大分足元がふらついてしまっている。それに比べルーベンは、しっかりと姿勢正しく歩いていた。
「エミリオ、若い者がだらしないぞ」
「んなこと言ったって、四時間歩き通しなんて中々ないッスよ……」
泣き言を言っている内に、ルクゴール教会が見えてきた。奇跡が目当てなのか、教会の前には人だかりができている。老若男女問わず、中にはエミリオ達同様この村の者ではない人もいるようだった。
薄暗い中、教会前の外灯に照らされる興奮した人々の顔。どこか異様な雰囲気の中、大きな音を立てて教会の扉が開かれた。
「こんばんは、皆さん!今宵も一日に一度、聖女様のお目見えです!」
教会の中から出てきたのは、黒い制服を着た顎鬚を生やした男と、綺麗に着飾った十二、三歳の少女だった。さらに少女の数歩後ろから、目深にフードをかぶった妙齢の女性も出てくる。人々から、一気に歓声が上がった。少女が噂の聖女なのだろう。
「聖女様って、まだ子供じゃないッスか!美人なお姉さんだと思ってたッス!」
「……君はブレないな」
エミリオが小声で訴えると、ルーベンはある意味感心したような声を出した。
「よく聖女を見たまえ。様子がおかしくはないか」
「え?」
全身真っ白のフリルとレースに覆われたドレスを着た聖女は、無表情で静かに観衆達を見ていた。腰下まであるストロベリーブロンドの絹糸のような髪、抜けるように白い肌、大きなスカイブルーの目。将来は間違いなく美人になるだろう。
「う~ん、やたら無表情なのが気になるくらいッスかね」
「それだ、表情が虚ろすぎる。さっきから喋っているのも、髭の男ばかりだ」
「単に、大人しい性格の子なんじゃないッスか?」
顎鬚の男は聖女と世界への賛美を長々と述べているが、聖女は微動だにしない。フードの女性は付き人らしく、風に乱れた聖女の髪を直しているが、聖女本人は虚空をぼんやり見つめている。振り返ってみたが、特に何かがあるわけではなかった。流石におかしい。エミリオは長年子供達の面倒を見てきたが、完璧にじっとしているということはまずなかった。ほとんど動かないのは、寝ている時くらいなものだ。
「……先生、あの子ちゃんと起きてるッスかね?いや、立ったまま寝てるって意味じゃなくて」
「言いたいことは分かっているとも。意識がきちんとあるか、だろう」
光の加減のせいか、ルーベンがひどく険しい表情をしているように見えた。
「それでは、本日の奇跡と参りましょう!」
エミリオ達がヒソヒソと話している間に話は進んだようで、顎鬚の男は仰々しく両腕を広げた。張り付いたような笑顔が、どうにも胡散臭い。
「聖女様、仕事でヘマして腕を切っちまったんです。どうか、治してくだせぇ!」
前に進み出たのは、職人らしき中年の男性だった。右腕に巻かれていた包帯をほどいた下には、手の甲から肘まで大きな切り傷が赤黒く走っている。
「おわ、痛そうッスね」
「偽物の傷ではなさそうだが……」
人々が見守る中、聖女は男性の右腕に緩慢な動作で手をかざした。途端、聖女の手と男性の腕が眩く白銀に発光する。光は一瞬だったが、外灯よりも余程明るいものだった。エミリオは、無意識の内に息を止めてしまっていた自分に気付く。
「治った、治った!ありがとうごぜぇます、聖女様!これで明日も仕事ができます!」
薄暗い所で強烈な光を見たので、思わず目をこすると男性の歓喜の声が聞こえた。何度か瞬きをしてから男性の腕を見れば、傷は綺麗さっぱり消えていた。痕すら残っていない。
「うぇ、今のって《祝福》……?でも、あんな大きな傷が一瞬で治るなんて、聞いたことないッスよ!」
《祝福》による治療は、小さな傷でも時間がかかる。《祝福》のランクが高ければ時間は短縮され、大きな傷でもある程度治せるが完治させるのは難しい。過度に《祝福》を使えば、使用者にも疲労と負担がかかってしまうのだ。本来、男性の腕の傷を治すには大きな医療機関で複数の《祝福》持ちの癒師が必要なはずだ。
「奇跡などではなく、《祝福》に違いないだろう。しかし、あのレベルだとSランクなのでは……」
「Sランクの《祝福》!?」
ルーベンの呟きにエミリオは大きな声を出してしまい、ルーベンに口を手でふさがれてしまった。近くにいた女性が、不思議そうにこちらを見ている。
「もがが……。Sランクって、この国始まって以来十人いるかどうかっていうヤツッスよね?」
本来AからEの五つに分けられている《祝福》だが、歴史上には極一握りその上のランク判定を受けた人々がいる。それが、最上位のSランクだ。
「本部が確認している限りではな。見たまえ、聖女はかなり疲弊しているようだ」
聖女に視線を戻せば、疲労困憊のエミリオと同じように足元がおぼつかずフードの女性に支えられていた。元から白い顔色も、余計血の気が引いたように見える。
「奇跡をお使いになり、聖女様はお疲れのようです!本日はここまで、皆さんまた明日お会いしましょう!」
顎鬚の男はにこやかに挨拶をすると、聖女とフードの女性を連れて教会の中へと戻って行った。観衆も興奮冷めやらぬ様子で、散り散りになっていく。ルーベンだけが最後まで残り、ルクゴール教会の門を睨むように見ていた。
本部がSランクに判定した人々は、軒並み聖人とされている。
* * * *
「思っていたより、とんでもない案件のようだ」
宿屋に戻ってから、ルーベンは重々しく口を開いた。
「あの聖女の《祝福》がSランクかは、きちんと測定しなければ分からんが、様子がおかしかったことは否めない」
「そッスね、まるで人形みたいだったッス」
空いていた席に座り、エミリオは腕を組んだ。聖女は表情を変えることも、声を発することもない美しい人形のようだった。
「片田舎で、《祝福》持ちが滅多にいない中で高ランクの《祝福》を奇跡と勘違いする──これ自体は過去にも似た案件がある。だが、あの聖女の場合はな……」
ルーベンは言いよどむ。聖女には、意識がほとんど無いようだった。それでも、自分で立って歩いていたのだから全く自我がないわけではないのだろう。
「あの子、どうにかしてあげられないッスかね。子供は泣いて、笑うのが仕事ッスよ」
「……そうだな」
ルーベンは隣に座り、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「奇跡ではないからと言って、一蹴するのは忍びない。少し調べてみるか」
「了解ッス!でも、その前に夕飯にするッスよ!腹が減っては、何にもできないッス!」
エミリオはテーブルに置いてあったメニューをサッと差し出した。
「チキンとポテトの盛り合わせいいな~」
「ふむ、ビーフストロガノフがあるのか」
「へぇ、美味そ……って、高っ!」
ビーフストロガノフ、二百三十フォル。近隣の村の牛肉をふんだんに使ったもの、と書かれているがエミリオには高すぎる。
「何だ、特別贅沢していると言うほどではないだろう。君とて給料が入ったのだから、好きなものを頼めばいい」
「給料は七割しか手元に残ってないんで、そんな贅沢はできないッス」
「今日が給料日だったのに、君はもう三割使ったのか!?」
ルーベンは目を見開き、信じられないという顔をした。その拍子に、眼鏡がズレてしまっている。エミリオはムスリと、内訳の説明をする。
「駅に行く前に、ラヴェニア教会に仕送りしたんスよ。自分で無駄使いしたんじゃないッス」
「ああ、なるほど。だが、ラヴェニア教会には特別手当が出たはずだろう?君が切り詰める必要はないのでは」
エミリオが人手不足の奇跡部門に入ったことで、ラヴェニア教会に支給されたという十万フォルだが。
「確かに支給はされたんスけど、使い方は本部に決められたみたいなんスよ。ほとんどオンボロな建物の修繕費に充てられて、チビ達の生活費には回らなかったらしいッス」
トーマス神父は電話で、嬉しいような困ったような声で話していた。雨漏りや隙間風がひどく、外観もガタがきていたので直せるのは助かる。けれど、子供達がおなかをすかせているのは変わらないのだ。
「まぁ、切り詰めるのはいつものことッスから」
「……私は君を誤解していたようだ」
神妙な顔をして、ルーベンは眼鏡の位置を直した。
「少々常識破りな変人だと思っていたが、子供達のためだったのだな」
「オレ、変人だと思われてたんスか……」
ちょっとひどくはないだろうか。しかしルーベンからすると、聖都で野宿をしたり一日二食で済ませようとするのは、かなり異常なことだったのだろう。
見解の相違が多少なりとも埋まったのは、喜ばしいことなのかもしれない。
「ふは~、腹いっぱいッス」
食事を終え、二人は女将に三階の部屋へと通された。カバンは二つとも、ソファ横に置かれている。
「この部屋は、ベッドとソファベッドが一つずつのようだな。エミリオ、君はどちらがいい?」
「そりゃ、ベッドの方がいいッスけど……」
「ならば、じゃんけんだな」
「マジッスか」
こういう時は上司が使うものだと思ったが、意外だ。イェソドの話通りなら、ルーベンも十年ぶりの部下との仕事を楽しんでいるのかもしれない。それとも、こういう突飛なところについていけずに辞めた人が多いのだろうか。
「じゃんけん、ぽん!」
出したのはエミリオがグー、ルーベンがチョキだった。
「よっしゃ、オレの勝ちッス!」
「ふむ、ならば仕方あるまい」
ルーベンは異議を唱えることなく、ゆっくりソファに腰掛けた。エミリオもぼすんとベッドに飛び込むと、部屋のドアがノックされた。
「うん?誰ッスかね?」
「女将だろうか」
ルーベンは立ち上がると、ドアを開けずに中から声をかけた。
「失礼、どちら様でしょうか?」
「こちら、奇跡認定人のルーベン・クレメンティ様のお部屋でしょうか?」
聞こえてきたのは、覚えのない女性の声だった。エミリオとルーベンは、思わず顔を見合わせる。
「合っていますが……。なぜ、私のことを?」
「神父様がこの村にいらっしゃるなど珍しいので、女将にお名前をお聞きしたのです」
ルーベンは女将に名乗ったものの、奇跡認定人だとは言っていない。ということは、元々ルーベンが奇跡認定人だと知っている人のようだ。
「失礼ですが、あなたは?」
「ソリスと申します。聖女様のお世話をさせていただいている者です」
返答を聞いて、エミリオはベッドから飛び起きた。ルーベンが神妙な顔で視線を向けてきたので、エミリオは急いで身だしなみを整えてから頷く。
ルーベンがドアを開けると、立っていたのは聖女の傍にいたフードの女性だった。
「突然申し訳ありません。どうか、聖女様を助けていただきたいのです」