一章 ラヴェニア教会
大聖典・四八章一二二五節
昼も夜も無く、空は常に黄金に覆われ
不可思議な植物が鬱蒼と生い茂り
果実からは甘く芳しい香りが漂い
足元に散らばる石は星々のように煌めく
歩を進め、いずれ見える絡み合う大樹
そこへ至れば、ようやく苦しみから解放され
そこへ至れば、全てが揃う
そして、永遠に祝福を取り戻すだろう
「おーい、エミリオ!そろそろ上がりにするぞ!」
「はいッス、親方!」
エミリオ・ラヴェニアは絵画工房の親方に声をかけられ、元気よく返事をした。
持っていた筆の油絵の具を拭い、自分が修復していた小さな宗教画を少し距離を取って眺める。この宗教国家リグニティアの国教、エリュオン教で一番人気の《理想郷》の場面が描かれたものだ。この世ならざる、尊厳たる安息の園である。
大きく息をついて絵のバランスを確認していると、親方が横から封筒を差し出してきた。
「おいエミリオ。依頼人の子爵様が、今回の奇跡画を気に入って報酬を上乗せしてくれてな。今週のお前の分も色を付けておいた」
「えっ、オレもいいんスか?ありがとうございます!」
いつもより厚い封筒に目を輝かせるエミリオの横を、奥の部屋から出てきた先輩達が通り過ぎて行く。
「お疲れ、エミリオ」
「後片付け頼むぜ」
「はい、お疲れさまッス!」
今回の依頼の目玉である、奇跡画。宗教画の中でも、奇跡認定人に認められた奇跡の逸話を描いたものだ。そのチームにエミリオは入れてもらえなかったが、上乗せ分がもらえるのなら悪くはない。小さな絵の修復しかやらせてもらえない僻みはあっても、悪くはない。
そもそも、十五歳だった二年前にこの工房に入れてもらい、未だに一番下っ端であるエミリオに大きな仕事をさせてもらえるはずはないのだが。最初の頃は雑用ばかりで、絵を描かせてもらえるようになっただけマシだろう。今でも、後片付けはエミリオの仕事だ。
一通り掃除と片付けをしてから、エミリオは緩んだ肩までの金髪を後ろで一つに結び直した。封筒の中身を確認すると、普段の倍近い額が入っている。
「お、四千フォルもある!これで新しいパンとベーコンが買えるな。他には何が少なくなってたっけか……」
忘れ物がないか確認し、奥の部屋をそっと覗いてみる。天井近くまである巨大なキャンバスに、隣国との戦争を話し合いだけで止めたという村娘が描かれている。まだ着色は半分ほどだが、村娘の強い意志が伝わってくるようだ。百七十年前にカメラが発明され、絵画業界は一時落ち込んだが奇跡画の人気は未だに強い。
「いつかオレも上手くなって、あんなデカくて立派な絵が描けたらなぁ」
描きたいのは、やはり美しい《理想郷》の場面である。小さい頃からの憧れで、夢なのだ。できれば名前も売れると嬉しい。けれど、今は。
「ヤベ、早く買い物しないと日が暮れてきた!」
日常生活で一杯一杯である。
* * * *
ラペト村のはずれの、ラヴェニア教会。
それがエミリオの、エミリオ達の家だ。ただ、老朽化が激しく雨漏りや隙間風が多いため、エミリオ達も村の人々もオンボロ教会と呼ぶことが多い。貶しているのではなく、親しみを込めて。
「チビ共、飯だぞー!」
「おなかすいた!」
「エミリオ兄ちゃん、夕飯何?」
「トーマス神父、早く早く!」
エミリオが呼ぶと、子供達がわらわらと台所に顔を出した。カルロ、ローザ、ジャン、ロレンツ、ジーナ、エレノア、リカルド。皆、エミリオより年下の孤児達だ。姓は教会の名前からもらい、全員ラヴェニアである。もちろん、エミリオ自身も孤児だ。
少し遅れて、初老の男性も顔を出した。
「おや、エミリオ。今日は随分と豪勢だね」
食卓を見て、ラヴェニア教会で唯一の神父、トーマス・ジョルジュは目を丸くした。並ぶのは、焼き立てのパン、具沢山のコンソメスープ、たっぷりのチーズをかけた野菜とベーコンのグラタン。
「それじゃ、いただきます!」
「このパン、いつもよりふわふわだ!」
早速かぶりついた、六歳のカルロが言う。
「そりゃ、いつもの賞味期限ギリギリの安売りのパンじゃなくて、焼き立てのパンを買ってきたからな」
「美味しい……」
普段大人しいローザも温かいグラタンに表情を綻ばせた。
「一体、どうしたんだい?」
「今回は多めに給料が出たんスよ。何でも、子爵様が製作中の奇跡画を気に入ったらしいッス」
心配そうにするトーマス神父に、エミリオは笑顔で返した。いつもはほとんど汁だけのスープや、売れ残りの固いパンばかりなので驚いたのだろう。オンボロ教会なだけあって、食費もかなり厳しいのだ。トーマス神父の薄給と、エミリオのわずかな収入では子供七人を満腹にしてやるのは難しい。時々、野菜や衣服を分けてくれる人はいるけれど。
それでも、エミリオが五歳までいたスラムに比べれば何倍もマシだと思う。
「エミリオお兄ちゃんも食べないと、ロレンツに取られちゃうよ!」
「あっ、エレノア余計なことを!」
エミリオのパンにこっそり手を伸ばしていたロレンツが、悔しそうにエレノアを睨む。
「こーら、ロレンツ。オレのは半分やるから、他の子のに手を出すなよ」
「はーい……」
エミリオに忠告され、ロレンツはむくれながらも半分に千切ったパンを受け取った。
「ジャンは野菜も残さず食えよ。背が伸びなくなるぞ」
「えー、だってぇ」
「リカルドは皿洗い当番だからな」
「分かってるって」
兄貴分として、エミリオはジャンとリカルドの頭をわしゃりと撫でて言った。
かつてはエミリオより年上の者もいたが、養子として引き取られたり、近隣の大きな街に就職し、今ではエミリオが孤児の最年長だ。トーマス神父は、さしずめ父親と言ったところだろう。
「トーマス神父、制服の袖がスープに入ってるよ!」
「えっ、うわあ、すまない!」
ジーナに指摘され、神父は慌てて黒いエリュオン教制服の袖をスープから離した。
「何やってるんスか、全く……」
ため息をつきつつ、エミリオはトーマス神父にタオルを渡す。
神父はどうにも抜けたところがあるので、子供達の面倒はほとんどエミリオが見ているようなものだ。いざという時には、頼りになる人なのだが。
エリュオン教は強い理想郷信仰で、『善行を積めば、死後に神の創り賜うた理想郷へと招かれる』という宗教理念である。《理想郷》はこの世界より高位の次元にあり、苦しみも悲しみも存在しないとされている。その為に『周囲を愛し、悪を正し、救いの手を差し伸べよ』というのが基本的な教えだ。この教えのおかげでエミリオ達は教会に引き取られ、どうにか生活できている。本当はもっと細かく難しい話があるようだが、残念ながらエミリオの頭では理解できていない。
エミリオは自室兼工房の屋根裏部屋で、擦り切れかけた画集に手を伸ばした。二年前、初任給を使い古本屋で買ったものだ。狭い部屋に散らばる画材やスケッチのメモを退け、画集を広げる。
人々が神と《理想郷》を信じ、冀望するには理由が二つある。一つは生きたまま実際に《理想郷》へ行き、帰還してその存在を証明した人々がいるのだ。彼らは帰還者と呼ばれ、神からの御使いとされている。《理想郷》へはどこから行けるというものではなく、気が付けば迷い込んでいるという。買い物の帰り道や畑仕事の途中で見知らぬ地に立っていた、など場所も状況も様々で、辿り着く条件は未だに謎である。
最も有名なのがエリュオン教始まりの人、創記師エリュオンである。彼は千四百年前、《理想郷》について初めて詳細に記録し、そこにある植物や鉱石を持ち帰ったとされている。エリュオンの思想や《理想郷》について書かれた手記は大聖典とされ、聖都アーテルボルの教会本部で厳重に保管されているという。
「オレも行ってみたいな~、《理想郷》。そしたら、スケッチ描きまくるのに。でも、帰って来られないと困るか……」
《理想郷》には、この世界とは違う植物が生え、空は金色で地面は煌めいているという。絵描きとしては、是非その風景を描き残したいものだ。《理想郷》への行き方同様、帰り方も分かっていないが、帰還者には強い憧れがあるのだ。画集を眺めながらエミリオが《理想郷》に思いを馳せていると、部屋のドアが控えめにノックされた。
「エミリオお兄ちゃん、今日の洗濯物だよ」
「へいよ~」
ドアを開ければ、エレノアがエミリオの洗濯物を抱えていた。
「ありがとな、エレノア」
「あれ?お兄ちゃん、その指……」
エレノアは洗濯物を受け取るエミリオの右手を見て、眉をひそめた。エミリオ自身も右手に視線をやれば、人差し指に二センチほどの切り傷ができていた。血が滲んでいるので、切れたばかりのようだ。
「ありゃ、いつの間に切ったんだろ」
先程、画集を見ていた時にページの端で切ったのだろうか。今まで何ともなかったのに、自覚した途端鈍い痛みが襲ってくる。
「ほら、お兄ちゃん右手貸して」
エレノアはエミリオの右手を握ると、目を瞑った。すると、エレノアの両手がぼんやりと光り出し、ゆっくりと傷が塞がっていく。三分ほどで、傷は薄い痕を残してすっかりと治ってしまった。傷跡も二、三日あれば消えるだろう。
「オレはケガの治り早いから、これくらい良かったのに」
「そう言って、エミリオお兄ちゃんはすぐに無茶するもん」
「悪い悪い、ありがとさん」
「気を付けてね、あたしの《祝福》じゃ大きいケガは治せないんだから。それじゃ、お休みなさい」
「おう、お休み~」
エレノアは心配そうにエミリオの両手を見てから、部屋へと戻って行った。
《祝福》、これが人々が神を信じるもう一つの理由だ。傷を癒し、植物に活気を与え、金属を清める能力。神が人を愛して授けた力だという。全ての人が持っているわけではなく、使えるのは国の人口の三割程度。ラヴェニア教会の孤児の中でも、《祝福》持ちはエレノアだけだ。
《祝福》にもランクがあり、AからEの五つに分けられている。Cランク以上であれば本部に引き取ってもらえるのだが、エレノアは検査の結果Dランクだった。本部に行ければきっといい暮らしができるのだろうが、皆と居たいからこれで良かったとエレノアは言ってくれた。きっとこれも、《理想郷》への導きの一つなのだと。
けれど、エミリオはどうしても思ってしまうのだ。本当に神がいるのなら、《理想郷》があるのなら。なぜ、エミリオ達孤児は親元で幸せに暮らすことを許されなかったのか。なぜ、最初から人間を《理想郷》に住まわせてくれなかったのか、と。
この教会に引き取られたばかりの頃、トーマス神父から教えを受け、ひどく噛みついてしまったことがある。神父は困りながらも、『幸せの形は人それぞれで、神にそれを探す機会を与えられている』と言っていた。『時に起こる奇跡は、神が人を見守っている証』だとも。
エミリオは洗濯物をベッドの上に放り、画集の奇跡画のページを開いた。創記師エリュオンが《理想郷》から帰還する絵が見開きで載っている。この逸話はエリュオン教の始まりであるため、奇跡の中でも最上級の《大奇跡》に認定されている。
「奇跡、かぁ。……その場に立ち会って、奇跡画を描いたら売れないかな。『奇跡に立ち会った絵描きの絵』って感じで」
自覚はあるが、エミリオはあまり敬虔な方ではない。
* * * *
翌朝。
仕事が休みな上に食事当番でもないので、エミリオが寝坊を決め込んでいると。
「エミリオ、大変だ!起きてくれ!エミリオ!」
トーマス神父が、凄まじい勢いで部屋のドアを叩くのに起こされた。
「な、何事ッスか!?《魔蛇》でも出たんスか!?」
飛び起きてドアを開ければ、青い顔をした神父が図鑑ほどの大きさと厚さをした《情報端末》の画面をタップしていた。本部から支給された、ラヴェニア教会で最も値の張る貴重品である。一般にも販売されているが、高額なためラペト村で所持しているのは村長と子爵だけだと聞いている。ラヴェニア教会のものは、かなりの旧型だが。最新型のものは、手の平サイズで空中にディスプレイが表示されるという。
本部からの知らせや、こちらからの連絡はこの《情報端末》で行われる。重要書類であれば郵便で送られてくることもあるようだが、そんなものはまず来ない。
「このメールを見てくれ!君に、本部への辞令が出ているんだ!しかも……ああ、何てことだ!」
「………………はい?」
エミリオは状況が飲み込めないまま、《情報端末》を受け取り画面をタップした。
『エミリオ・ラヴェニア殿
この度、エリュオン教教会本部奇跡部門勤務を命じます。
つきましては、本部直下の寮への入寮となりますことをご了承下さい』
何度か文章を読み返し、名前が間違っていないか確認する。《情報端末》を逆さまにしても、振ってみても、文章は何も変わらなかった。
「同姓同名の人への、間違いメールなんじゃ……?」
ギギギ、とぎこちなくトーマス神父の方を向くと、首を横に振られた。
「それはないよ、ラヴェニアという姓はここの子供達以外にない。それに、聖都への汽車の切符がさっき届いてね」
「んん!?よく見たら、出勤日は明後日なんスけど!」
メールの末尾に記された日付を見て、エミリオは思わず声が裏返った。
「そうなんだよ……。このメール、先週来ていたのに気付かなくて。すまない」
「ちょ、トーマス神父っ!」
遠い目をして答えた神父の肩を、エミリオは小突いた。トーマス神父は自他共に認める機械音痴である。おかしな操作をして《情報端末》を壊さないよう、起動するのは極たまにだ。むしろ、操作を誤ってこのメールを削除していなくてよかった。
「ってか、色々と待って欲しいッス!何でオレが本部に!?チビ達の面倒は!?今の工房の仕事はどうしたら……辞めろってことッスか!?」
「そうなってしまうね……」
本部からの命令は、基本的に絶対である。エミリオ達孤児がラヴェニア教会にいられるのも、本部の許可あってこそだ。
「そ、そんな、最近やっと絵を描かせてもらえるようになったのに……。何でだよ……」
小さい頃から絵を描くのが好きで、沢山練習をして、何度も工房に頼み込んで。ようやく夢へのスタート地点に立てたと思っていたのに、何という仕打ちだろう。エミリオが一体何をしたと言うのか。
「……そもそも奇跡部門って、奇跡認定人のいる部署ッスよね?奇跡画の元になる奇跡の判定をしてるっていう。偏屈ばかりって聞いたんスけど」
国中から集まる奇跡の申請を吟味し、本当に奇跡かどうか判定をするのが奇跡認定人の仕事だという。生半可な人では務まらないのだろう。
「私も実際にお会いしたことがないから何とも言えないけど、厳しい方が多いみたいだね。特に、今の部門長さんになってから登録された奇跡は一握りらしい」
「うああ、最悪じゃないッスか!オレ、そういうタイプ苦手ッス!」
どう考えても、エミリオは人選ミスとしか思えない。能天気で大雑把な性格だというのに、何故選出されたのだろう。
エミリオは死んだ魚のような目で、トーマス神父に尋ねた。
「聖都までって、どれくらいかかるんスか?たまには帰って来れるッスかね?」
「聖都までは、汽車で七時間くらいだったかな。……切符代が、かなりかかるはずだよ」
「うええええ……」
ラぺト村が田舎だとは知っていたが、七時間は物理的にも遠い上に、精神的にも辛い。汽車には、親方の絵の搬入に同行して一度しか乗ったことがないというのに。何より、駅は隣街まで行かなければない。
「遅くとも、明日の午後にはここを発つようになってしまうね」
「うええ……」
突然降って湧いた事態に、エミリオは頭を抱えるしかなかった。