アイデンティティ・ビヨンド
「お父さん。大人になるってどういうことなんだろう」
息子のそんな言葉に、父はふふ、と楽し気に笑った。
夕食を食べ終わって片づけ、家族でテレビを見ている時分。そろそろ子どもを寝かしつける時間かと思っていた矢先、息子がそんな「ませた」ようなことを言ったのに対して。少し感慨深い心境になる父親だった。
「体が大きくなったり、結婚したりってことだが、そういうことじゃなくてってことか?」
「うん。もっと、何て言ったらいいかわかんないんだけど、こう……。ぼくの何が、かわると大人になるのかなって」
「そうか。……お前もそういう年になったか」
「?」
「いやなに、大きくなってるんだなぁと思ってな」
「そりゃ、ぼくだってもう、小学校四年生だし」
「そういうことじゃなくてだな。あー、なんて言ったらいいのか……。ともかく、そういうことを考えるようになったかってことだよ」
こたつでぬくぬく眠っている妻。晩酌につきあってくれた彼女の髪を撫ぜながら、父親は言葉を選ぶ。難しい言葉で煙に巻くこともできたが、だが、決してこういう好奇心の発露というのは馬鹿にしてはいけない。こういう情報を大人から聞いて、見比べて、そして自分で結論を出していこうとしているのだ。だったら父親として、子供の言葉には真摯に答えてあげたいと。
そんな光景を、寝ぼけ眼をこすりながら、兄の隣で妹はぼんやりと聞いている。
「そうだなぁ……。まぁ、そうだな。俺は、一人でムチャしなくなるってことだと思うぞ」
「一人でムチャをしない?」
「そうだ。人間、一人で出来ることなんてのはいろいろタカが知れてるからな。だから、そういう状況に追い込んだりするのは、相手が幼いってことだ。本当にみんなのことを考えたら、相手の成長とか考えないで、協力してなんとかするってことになるんだと俺は思う」
「なんか、よくわからないや」
「かもな。うん……もっといえば、みんなのために何かできるってことかもしれない」
「みんなのために?」
「そうだ。だから悪いことをした奴がいたら――――――率先して殴るんだ」
このあたりで寝ぼけている妹、「あれ?」と何かがおかしいことに気づき始める。気づき始めるが、何がおかしいのかは寝ぼけた頭では考えがまとまるわけもない。かくして父親は止められることなく語り続ける。
「そうだ。「お前のためだ」とか「お前の成長に期待してる」とかいってムチャなことを投げてくる相手なんて、結果的に全体に迷惑がかかるってわかっているのにやらせるのなら殴るんだ。「愛しているけど一緒にはなれない」とか言ってるってことは、本当は金なり体なりを理由にして心がほかの相手に持っていかれてるってことなんだ。そうだ。だから殴ってもいいんだ。そのせいで心が折れるくらいなら殴って殴って、本当のことを言わせてもいんだ。本当に相手のことを愛しているなら、そんな滅茶苦茶なことなんてできるはずがないんだ。愛するっていうのは、相手の人生と自分の人生とを折半して、お互いがお互いに責任を持てるよう努力しようっていうことなんだから。それを放棄するってことは、その時点ですでに愛してなんかいないんだお。わかるか?」
「お父さん、なんか怖いよ」
「「いじめられている側にも理由がある」っていうのは、あくまでいじめていることの理由になんてならないんだ。そもそもそれで問題があるなら解消するよう指摘して努力してやればいいんだ。それが嫌なら無視してやればいいんだ。なんで暴力加えたり嫌がらせをしたりするんだ。そんな相手には鉄拳だ鉄拳。というか、そもそもこっちから連絡しているにも関わらず全く連絡をよこさないっていうのはどういう了見なんだってんだ。そんなんだからオヤジの葬式にも顔を出せなかったって言うのに、あんなに怒鳴り散らしやがって、いったい何考えてやがんだよあの妹は――――」
「お父さん、お父さん」
息子の言葉はすでに父親に届いていない。完全に酔いが回っているらしく、自分の言葉でヒートアップしてどんどんドツボにはまっているようだ。
だがしかし、息子は不思議そうな目で父親のことを見たまま。意味がわからないまでも、その言葉をしっかりと聞いているらしい。
「――――だからな、ムチャをするくらいならそんなもの辞めちまえ」
脈絡なく放たれた言葉に、しかししっかりと話の流れを聞いていたらしい息子は答える。
「でも、お父さん。それが、ぼくがやりたいことだったらどうするの?」
酔いが回った頭でも、短いフレーズに対してだったおかげか。父親は少し深呼吸して、こう返した。
「お前の家族を思い浮かべろ。友達を、仲間を思い浮かべろ。そいつらがいるなら―――――そいつらを悲しませないために、お前はムチャをするなよ」
「――――うん、わかった」
うなづいた息子に気をよくした父親は、再びドツボにはまるように愚痴を繰り返し続け。
「意外とお父さんも苦労してるんだなぁ」と、寝ぼけた頭ながら妹は察して、何も言わず、そのまま眠った。
・




