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その一 龍の子は森を見る。


 卵の殻を破って出て来たのは、小さな雌龍だった。


 紫色の角と黄金色の瞳を宿した漆黒の体は、そこだけがまるで闇が蟠っているかのようだった。


 体長は三十センチもあるかどうか。ただ、大まかな見た目こそ黒龍のそれではあったが、その小さく脆い体は今にも壊れてしまいそうな頼りなさが全身に溢れかえっていた。


 そんな雌龍の愛おし気に舐め、体の汚れや、所々に引っかかった卵の殻を落していくのは、一頭の巨大な狼だった。


 苔むした岸辺の広がる水辺を縄張りにして、木漏れ日の差す合間を占有しているその狼は、森のざわめきの中で生まれたばかりの幼い黒龍とは対照的に、その身体は雪か光を固めたかの思うほどに真っ白で、その両眼には宝石のような翡翠色の輝きが宿っていた。


 身体の大きさは幼龍とは比べるべくもなく、五メートルを超えるかと思えるほどの巨体であったが、透き通るような銀の体毛を時おりそよぎ渡る森の風に揺らしているその狼の様子には、肉食獣特有の獰猛さも凶暴さも感じられず、ただ子供を慈しむ母性だけがそこにはあった。

 

 生まれたばかりの龍の体を一通り舐め終えたその狼は、空腹なのか、狼の足元で甲高い声で切なげな泣き声を上げ始めたが、狼は心得ていると言わぬばかりに顔を苦笑の形に歪めると、不意に何処かへと消えた。


 唐突に消えた巨大な狼の姿を見て幼いその龍は、何処からともなくさざめきだす周囲の喧騒に不安げに辺りを見回した。


 木漏れ日の差す森の中には、騒々しいさえずりを上げる鳥の声や、息を殺したような獣の吐息、禍々しい音を立てる虫の音が鳴り響き、本能的に幼い龍の小さな体は小さく震え出す。


 幼い龍は、今度はか細い声を上げて啼いた。


 今度は、空腹からでは無かった。


 それは、生まれて初めて感じる純粋な恐怖。


 遠くの音すらもが自分を食い尽くすそうと伺っているような、そんな針の筵に押し包まれたような恐怖が、その幼い龍の胸の内を駆り立てる。


 すると、唐突に幼龍の脳裏にあの優しげに自分をあやす巨大な狼の姿が思い浮かび、あの狼を呼ぶだそうとするかのように、喉の奥から声を絞り出させた。


 けれどもその声は、森の木々の中に溶け込むように消えていくばかりで、答えてくれるものはなかった。


 遠くから木霊する怪鳥の声に再び怯えて、幼龍はもう一度声を上げかけた。


 その時だった。


 消えた時と同様に、突然に口元に巨大な魚を咥えてあの白い狼が戻って来ると、狼は咥えた魚を地面に降ろしながら安堵の吐息を吐き出して、不意に口を開いた。


『……ふふ。済まなかったな、一人にして。別に放り捨てた訳ではなかったのだが、狩に思いの外手間取ってしまった。そなたが食べられそうな得物が存外、見つからなかったのだ。熱中している内にそなたの声に気付いて戻ってきたが、お互いにこの姿では育てるのに不便だな』


 それは、獣や人、精霊たちにさえも意志の届くはっきりとした「言葉」だった。


 生まれたばかりの何も知らぬ幼龍の頭では、何を言っているのかの意味までは理解できなかったが、この白い狼が自分に向けて謝っている事と、今まで自分を一人にしたことに悪意が無かったことだけは頭ではなく、体のどこかにある原初の部分で理解して、今までの恐怖に塗れた声ではなく、安堵に満ちた声を上げて鳴いた。


 狼はそんな幼龍の様子を見て、申し訳なさそうにその頬を軽く舐めると、幼龍の首根っこを咥えて抱え込んで、小さな声で何事かの言葉を呟いた。


「----■◆◇□」


 するとその途端に、巨大な狼の姿と生まれたばかりの幼い龍の姿は搔き消え、森の中の川辺には一人の長い銀色の髪を伸ばした美女が、腕の中に小さな赤ん坊を抱きしめて佇む姿があった。

 

「……そうだ。名前を上げよう。そなたは私の娘になるのだから、龍だのなんだの呼ばれるのは不便だろう。……そうだな」


 腕の中の赤ん坊を抱え上げながらそう言う銀髪の美女の声は、間違いなく先ほどの狼のそれであり、抱え上げた赤ん坊を見上げるその瞳は、母性に満ちた翡翠色をしていた。


「私の名は、チトセという。私の主であった方がそう名付けてくださった。お前と逢うために千の歳を待った。と、そうおっしゃって下さった。それでチトセという名をやろう。とおっしゃられた。私はお前に合う為に、一つの秋と一つの冬を越えた。だから、お前の名前は、秋冬アキトだ」


 そう言って優し気に微笑む銀髪の美女は、赤ん坊の黄金色に輝く両眼を覗き込んだ。

 

「アキト。これからお前は、正真正銘私の子だ。私の娘だ。これからは私の下で強く育つと良い」



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