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三十センチメートルの世界

作者: 市井れん

 オレの名前は冬。白い毛のネコだ。そんな名前になったのは毛の色のせいもあるけれど、ここの家の兄妹が季節の名前を持っていたことが一番の理由だろう。春、夏、秋。ここまで来れば次は冬だろうと言う、至極単純な理由だった。オレは空席になっていた冬の席をもらったのだ。一番上の春は高校二年生。長男、書道部、眼鏡、それ程目立つところもないが悪いところもない。普通と言えば普通の高校生だ。二番目の夏は中学三年生。長女、受験真っ盛りで現在とてもナイーブな時期。性格は活発でずけずけと何でも遠慮なく言う。髪が豊かに長く、裸眼で一キロ先まで見通す程目が良い。男子からかなりモテる。三番目の秋は次男。中学一年生。入りたてのほやほやでまだまだ初々しさがある。姉にいつも雑用を押し付けられているけれど、それをそつなくこなす技術を身に着けている中々の人材。オレが会社の社長で雇うなら絶対秋にするだろう。何よりもいつもニコニコしていて一緒にいると和む。物腰が柔らかくてネコにも優しい。オレは家族の中で一番秋が好きだ。さて、兄妹紹介が済んだところでオレがどうしてこんな話を始めたのかと言う理由だが、それはこの家族にとって初めてとも言える試練に遭遇したからである。これはオレの中だけにとどめておくには勿体ないと判断した。なによりもオレが語らなければ口外されないような、世間では些細なことであり家族にとっては大きなこと。大抵はそんなことばかりだと言うことは承知の上で、オレの話に耳を傾けてくれれば幸いである。

 モテモテだった夏が、初夏にさしかかりつつある日のこと、彼氏なるものを連れて来ると宣言した。中学生だろうが幼稚園児だろうが恋をする世の中だ。思春期としては至って普通のことだろう。

 その前日の夕食の席。居間にある長方形のテーブルで、母、春。夏、秋が横並びになるいつもの定位置で、トリカツをつつきながら四人は明日の話をしていた。

「夏が彼氏を連れて来るなんて、どんな子かしら?お母さんドキドキしてきちゃった」

「ダイキは野性的な感じで恰好良いわよ」

「野性的?凄いわね」

「明日連れて来るから楽しみにしてて」

「母さん、そんなに期待しない方が良いよ、どうせ鼻水垂らしたヤツだろ」

「頭の固いクソメガネがどう言おうと勝手だけど、絶対あんたより恰好良い!」

「は?なに言ってんのおまえ」

「ケンカはやめて、ね?夏姉が選んだ人なんだからきっと良い人だよ」

「秋はホント分かってるわ!」

 わしゃわしゃ両手で頭を撫でられた秋の髪の毛は、あらゆる方向に踊った。秋は夏の手が離れた後で、くるくると首を振り、髪を元通りにする。それで戻ってしまう秋の髪の毛は柔らかい。オレが寝てる間に頬ずりをすることがあるくらいだ。

 夏は長い髪の毛先を指で遊ばせつつ「とにかく楽しみにしててよ」と得意そうな顔で笑った。それを相変わらず不審そうな目で見つめる春。秋はただ穏やかに微笑んでいる。そんないつものやりとりがあった夜が平和だったなんて、この時は誰も知らなかった。

 次の日、夏が玄関先に招待したのは、角刈りで額に十字の傷を持つ、黒いスーツを着込んだ夏の塾の講師だった。母はショックで卒倒した。秋は混乱のなか母を介抱するのに手一杯で、春はと言うと、腹を抱えて笑う始末。夏が連れて来た彼氏は、なんとなんと、四十を越えたおっさんだったのである。サングラスをかけたら実に似合いそうな強面だ。確かに野性的であった。

「なんなの?なんだって言うの!おじさんだからってなんでいけないってなるの?年齢なんて好きになることと関係ないじゃん!」

 三人の反応に怒った夏はそれを最後に家を飛び出した。

 母はドキドキし過ぎた。まさかこんな右フックが来るとは思いも寄らなかった。予想を裏切るとはこのことである。春は称賛した、天晴な気分だった。秋は困ったようにおろおろ。人間は許容範囲を超えると、意識を遮断するか、おろおろするか、笑ってしまうかのどれかになるらしい。

 その中で冷静だったのはおっさん一人だった。飛び出した夏を追いかけて、家まで連れて来た。その頃には母も意識を取り戻していて「とりあえず、上がってください」と心拍数は上がりつつも平静を装えた。頭の中では色々と現実的な問題について考えていたけれど、そこは大人としてなんとか踏ん張ることに成功した。

 長方形のテーブルの片方に母と春が座り、その向かいにおっさんと夏、秋は誰もいない面の椅子に腰かけた。

「すみません。手を出すつもりはなかったんですが」

「大体みんなそう言うよね」

 春が容赦なく切り込む。

「ダイキは悪くない!だって私が先に、むぐむぐ」

 おっさんはすかさず夏の口を手で覆った。どんな言葉がもみ消されたかはご想像にお任せする。大丈夫。おっさんはたぶんまともだ。

「今日はご挨拶に来ました。このまま私と付き合うにしてもご両親にご報告しておくべきだと考えまして、私は見てのとおり四十を過ぎた良い大人です。そして夏さんは中学生です。社会人として道理を通さなければいけません」

 中学生と付き合うという時点で道理もなにもないと言えばないのだけど……

 おっさんは素早く立ち上がってすぐに屈み、

「夏さんを私にください!」と土下座をした。これが道理というものなのか、ネコながらこの時は人間社会のルールに震えた。

 全員が何も言えずにおっさんを見ていた。

 おっさんの本気が伝わったのだ。これが土下座の効果なのだ。

「あの。私さっきは驚いてしまいましたが、ちゃんと真剣に考えてくださってるんですね。ただ私だけでは決めかねます。主人が帰って来るまで待って頂けますか?」

「はい」

「どうか椅子に座ってください」

 おっさんは立ち上がって「失礼」の一言の後、夏の隣に腰かけた。

 暫く沈黙が続いた後、春が口火を切った。

「どうして夏なんですか?」

「どうしてと問われると明確に言えることはないです。ただ、初めて見た時から気になっていました。中学生にしてはとても大人びて見えました」

 人間はいつでも恋をすると思春期に戻るのだろうか。角刈りのおっさんの口からこんなムズムズするような言葉が飛び出て来るとは。

「夏姉は?」

 おそるおそる秋が訊ねた。

「塾の教室で男子がふざけて私に消しゴムを投げて遊んでたのよ。私が注意しようとしたらダイキがその子を先に叱ってくれたの! 『消しゴムは投げるもんじゃねえ、消すもんだ!』ってね」

 夏はとても倖せそうに笑う、おっさんは俯き照れる。残された三人の家族はその場面を想像してしまったことで、暫くなにも言えない状態に陥った。ネコながら同情した。言葉で聞くと実に滑稽に聴こえることがあるものだ。

「私それで決めたの!ダイキと結婚するって。だって周りの男子みんなバカなんだもの。私に意地悪ばっかりするのよ?信じられる?リコーダーがなくなったり、上履きに紙が悪戯でたくさん入ってるの!ほうきで背中を叩いたり、髪の毛を引っ張ったり、中学生になっても小学生の時と同じなんだから」

 夏の周りには純情バカしかいないらしい。思春期特有の恥ずかしさが辺りに漂った。母と春がさらに俯いたなか、秋だけキョトンとした顔をしているのは純真だからであろう。

 沈黙が続く部屋の中にいつの間にか橙の斜陽が差し込んでいた。時刻は十八時近い。その時玄関の方で扉が開閉する音がした。父が帰って来たのだ。ゆっくりと廊下を進む足音が近づく、扉が見える母と春はただ入口を眺めていた。

「ただいま。こんな時間にお客さん?珍しいね。どちらさま?」

 スーツ姿の父が上着を左腕に抱えて帰って来た。おっさんがすかさず立ち上がり「お父さんおかえりなさい!」と言った。

「ははは、僕にそんな大きな息子はいないよ」

 その冗談が笑えないのなんのって。

「お父さん、紹介するね!私の彼氏のダイキ」

「今日はエイプリルフールじゃないぞ。そんな強面のおじさんが彼氏だなんて、どこから連れて来たんだい」

「私、夏さんの塾で講師をやっています」

「じゃあ受験先についての面談かい?」

「いいえ!夏さんの将来についてです!」

「だから受験でしょ?」

「受験の話ではなく、結婚の話です」

「結婚って、夏はまだ中学生だよ?」

「中学生だからこうしてお話に来たんです」

「父さん、これまじめな話」

 春の言葉を聞いて上着が床に落ちた。

「どういうことだい?」

 母が立ち上がりさっきの件を話した。父は吹き出す。

「そんな中学生みたいな理由、僕は認めないよ!断固反対だ!四十のおじさんが中学生と結婚だなんて二十歳以上差があるぞ。犯罪だよ!」

 父が全部言ってしまったので母と春は少しだけ胸がスッとした。ただ秋はやっぱりキョトンとしていた。

「なんなの?どうして犯罪になるのよ!私達真剣にお付き合いしてるし、真剣に結婚について考えてるのよ!ちゃんと真剣に聞いてよ」

 おっさんはすぐさまさっきと同じ体勢になり「夏さんを私にください!」と本日二度目の土下座をした。

 ネコと同じくらいの目線の高さだった。だったらネコはいつも土下座をしているようなものなんだろうか。あまりにもその時間が長くてぼんやりとそんなことまで考えてしまった。

「土下座でなんでも解決しないよ」

 夏に負けず劣らず父はきっぱりものを言う。

 土下座が通じない人もいる。それが人間社会というものなのか。

「とにかく、結婚は夏が十六になるまでできませんし、娘は来年の三月に受験があります。こんな時期にお付き合いのことを考えている暇があったら、勉強を教えてください。あなたは本当に夏の為を思ってこんな行動に出ているのですか?」

「ごもっともです」

「お父さん、やめてよ。私がお願いしたの。家族に挨拶してって」

 夏は土下座したままのおっさんの肩に手を乗せてわんわん泣き出した。あの気の強い夏がこんなに泣くのをオレは初めて見た。鬼のかく乱。明日は雨だろうか。


 その後、父がおっさんの肩を叩いて「今日のところはとりあえずお引き取りください」と帰ってもらった。帰る時のおっさんの背中には哀愁が漂っていた。あまりの悲壮感にオレは思わず玄関まで見送ってしまった。ネコが見送ったところでどうにもなる訳ではないが。秋がそんなオレを抱き上げて小さく呟いた。

「冬。どうしてダメなんだろうね?」

 オレは慰めるように秋の頬に鼻をつける。ネコには分からん。人間の世界はよく分からん。たくさんの決まりごとがあるようだ。ネコの世界にもルールはある。大きなルールと、各々が持っているルールがある。人間にもそんなものがあるのかもしれない。

 その日から夏は家で喋らなくなった。


 ネコの行動範囲はとても広い。隣の町内なんて当たり前のように通り過ぎる。驚くなかれ、時々山まで行くこともある。そんな散歩の途中、街の中心部に程近い中央公園まで足を延ばした時に、噴水の近くにあるベンチに座って缶コーヒーを飲んでいたおっさんを見つけた。オレはゆっくり近づいて行った。

「おや?君は確か冬くんじゃないか」

 おっさんは十歳くらい老けたように見えた。

「まさかこの年になって中学生に恋をするとは思わなかったよ。おかしいだろ?あの子の為だったらなんでもしてあげたいって思えちゃうなんて、こんな熱意を自分が持っていたことすら、随分と忘れていたような気がするよ。でもそう思ったところで、あの子を倖せにできないなら、こんな感情なんの為にあるんだろうね」

 角刈りのおっさんには似合わないくらいの純情さである。人を見かけで判断してはいけないとネコながらに本気で思った。なにより返事をしないネコに話しかける時点で、おっさんはかなり良い人である。

「私がもう少し若かったらなぁ」

 好きになるのに年齢は関係ないと夏は怒っていたっけ。年なんて気にするのは人間だけなのかもしれないな。オレはおっさんの隣に座って暫く過ごした。ネコの目線はベンチと同じくらいの高さ、三十センチメートルの世界。緑は鮮やかで、草の柔らかな香りと、季節ごとに咲き乱れる花の匂いが鼻孔をくすぐる。オレが歩いている時、ほとんどの人間は下を向いている。だからオレには人の顔が良く見えた。微笑んでいる人はあまりいない。ネコを見つけて笑う人はいるけれど、本当に倖せな人はずっとずっと高い場所を見ている。そして前を見てネコに気づいて笑う。夏はどちらかと言うとそういう人間だったけど今はすっかり地面ばかり見ている。下ばかり見てちゃいけないとオレは思う。だが、このおっさんにオレがどうやってそれを伝えられると言うのだろう?

「あの、ダイキさんですよね?」

 知らぬ間に、秋がそこにいた。近くには自転車が停めてある。秋は時々ふらりと街まで一人で出かけるのだ。

「はい」

「夏姉。あれ以来全然元気がないんです。前だったら僕に部屋の掃除してとか、庭に水まいてとか、靴磨いてとか。色々頼んできたんですけど、最近はなんにもないんです。僕なんだか変な気持ちがして」

 良い様に使われていただけとも言えるのだが……

「それで提案なんですけど、もう一度家に来て頂けませんか?」

「しかし」

「夏姉の彼氏としてではなく、僕の友達としてだったら誰も文句は言えません。それにみんな分かってるんです。あなたがちゃんと夏姉のこと考えてくれてること。ただびっくりしちゃったんです。だって、びっくりしたら人ってまともに考えられない時があるでしょう?時間が必要な時だってあるんです。もうきっと大丈夫です」

 柔らかく笑う秋は、秋の日差しのように優しい。オレとおっさんはただただ感激ですすり泣くことしか出来なかった。

 大丈夫、このおっさん。角刈りで強面で黒のスーツでサングラスしたらどう見てもやーさんに見えるけど、純情さと夏を思う気持ちは本当だ。ネコのオレが保証する。まぁ、ネコの保証なんて人間には分からないんだけどな。

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[良い点] 文章が良いと感じました。ストレスなく読めます。 [気になる点] 文字が密集しているので、読み始めの圧迫感が強かったです。 空白の行を使って、何もない空間を増やしても良いかもです。 [一言…
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