婚約破棄? 結構ですわ。私にはお姉さまがいますから ――実家を追放された悪役令嬢、伯爵家ごと回収してまいりました
婚約破棄された夜の私は、まだ知りませんでした。
その伯爵家も、元実家も、まとめて書類箱に収まることになるなんて。
「ラヴィニア・クロウフォード。君との婚約は、なかったことにする」
夜会の中央で、伯爵家の長男はそう言った。
ちょうど楽団の音が切れたところだった。
床は磨かれ、頭上の水晶はよく光り、壁際の紳士淑女は誰もこちらを見ていないふりをしていた。
社交界とは、本当に素敵な場所ですわ。
人が転ぶ瞬間だけ、皆様とても背筋が伸びますもの。
私は扇を閉じた。
「まあ」
長男は顎を上げた。
顔立ちは整っている。
声も悪くない。
家柄も、まあまあ。
ただ、そのあたりをいくつか持っているだけで、自分は値札を貼られる側ではなく、貼る側だと思い込める殿方は少なくありませんのね。
「驚いたか」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「結構ですわ」
彼の眉がぴくりと動いた。
泣かれる予定だったのでしょう。
あるいは、縋られる予定だったのかもしれません。
「結構、だと?」
「ええ。婚約破棄、承りました」
「君は自分の立場が分かっていないようだな」
「最近、ようやく分かってきたところですわ」
「クロウフォード家は前ほどの力もない。君自身の評判も地に落ちている。黒百合会を率い、神殿の聖女に叩き潰され、家からも持て余されている。そんな君を、私が妻として迎えてやろうとしていたのだ」
広間の空気が、薄くざわついた。
黒百合会。
表向きは、花と詩と寄付を語る社交会。
裏では、紹介状が売られ、縁談が曲げられ、秘密が首輪になった。
ええ。
だいたい事実でした。
けれど、その花壇はもう掘り返されています。
会員名簿も、裏帳簿も、封蝋付きの密書も、お姉さまが白日の下へ引きずり出してくださいましたから。
負けた時のことは、よく覚えています。机へ広げられた控え、裂かれた封、返せと泣く女の名を前にしても、私はまだ値踏みの顔をやめられなかった。
お姉さまは、その癖ごと叩き折ったのです。
「聞いているのか、ラヴィニア」
「ええ。大変よく」
「ならば分かるだろう。君に残されたまともな縁談は、これが最後だった」
「まあ」
私は首を傾げた。
「それは、あなたに残された最後の勘違いではなくて?」
広間のどこかで、誰かがむせた。
長男の頬が赤くなる。
「強がるな。君のような女は、夫に管理されてようやく人並みになる。私と結婚するなら、まずあの聖女と縁を切れ」
扇の骨が、指先で止まった。
「聖女、とわざわざ呼ぶのですね」
「君が、お姉さまなどと呼んでいる女だ。あの女に感化されたせいで、君はおかしくなった。清らかな聖女と持ち上げられているが、結局は君を利用しているだけだろう」
楽団の弦が遠のいた。
父の咳払いも、兄の舌打ちも、まとめて遠くへ沈む。
浮いたのは、あの日の机の上に並んだ紙だけだった。
私の印章ひとつで潰した縁談。
寄付の名目で抜いた金。
返せずに震えていた下位貴族の娘の署名。
お姉さまは、それを一枚ずつ私の前へ滑らせた。
これは誰の署名ですか。
この控えは、誰の首へ巻いたものですか。
返す金の額も、泣いた娘の名も、私はそこで初めて声に出させられた。
それを、この男は口先で汚した。
「もう結構ですわ」
私は一礼した。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「待て。話は終わっていない」
「いいえ、終わりました」
私は笑ったまま言った。
「私の婚約を切るだけなら、あなたは見栄の悪い殿方で済みました。けれど、お姉さまの名を汚した以上、本日より清算対象ですわ」
その夜、私はクロウフォード家の書斎へ呼ばれた。
父は机の奥。
兄は窓際。
どちらも、不機嫌になる時だけよく似た顔をしている。
「ラヴィニア」
「はい、お父様」
「お前は何を考えている」
「色々と」
「ふざけるな。伯爵家との縁談は家にとって必要だった。黙って嫁げば済んだものを」
「私の評判は誰も気にしていないのに、私を嫁がせる必要はございますの?」
父の眉が跳ねた。
「家のためだ」
「なるほど」
「お前はクロウフォード家の娘だ。家の利になるよう動け」
「家の利。その中に私は入っておりますの?」
口の中に、古い油みたいな味が残る言葉でした。
「ではお父様。伯爵家の慈善基金から、こちらへ流れた金のことを伺っても?」
父の顔色が変わり、兄の視線が突き刺さった。
分かりやすい。
控えはまだ取っていませんでしたのに。
「どこでそれを」
「今、うかがいましたわ」
父が机を叩いた。
「余計な真似をするな。これ以上家に迷惑をかけるなら、お前をクロウフォード家から追放する」
追放。
思ったより、きれいな響きでした。
首輪の留め金が外れる時は、ああいう音がするのかもしれません。
「追放、ですか」
「そうだ。家名も後ろ盾も財産も失う」
「つまり今後は、クロウフォード家の利害を気にせず私個人として動いてよろしいのですね」
「そういう意味ではない!」
「言葉とは、口から出た時点で形を持ちますのよ、お父様」
私は深く一礼した。
「これまで、ありがとうございました」
屋敷を出る時に持ったのは、衣装箱ひとつと書類箱ひとつ。
宝石より先に入れたのは、処分したことになっている古い会員名簿と、何通かの紹介状、それから黒百合会の印章でした。
もちろん、処分したのは写しの方です。
同じ失敗を繰り返すほど、私は鈍くありません。
馬車の中で名簿を開く。侯爵家の未亡人の名の横に、商会主の妻の走り書きがあり、その下へ神殿に出入りする寄進係と、壁際で会話を拾う男と、口の堅い侍女頭の印が続いていた。
黒百合会は死んだ。
少なくとも社交界では、そういうことになっている。
けれど、残った紙と耳と借りは、別に死んでいない。
ならば使い道を変えるだけです。
弱い者を縛るためではなく、奪った者を逃がさないために。
泣く者の口を塞ぐためではなく、泣かせた者の喉へ鈴をつけるために。
あの頃の黒百合会は、弱い者から抜き、家名に寄りかかり、泣く者へ蓋をするための道具でした。そんなものを、お姉さまのそばへ置く気はありません。名前は同じでも、使い道だけ変えてやればいい。
三日で返事が揃い、五日で伯爵家の金の流れが浮き、七日で長男に踏みにじられた娘の名が三人出ました。
そのうちの一人、男爵家の娘エミリア様は、まだ彼の名を捨てきれていませんでした。
小さな応接間で会った彼女は、青いドレスの裾を膝の上へ揃え、指先だけを強く握っていた。
「あなたがエミリア様ですわね」
「……はい」
「伯爵家のご長男に求婚を匂わせられ、支度金を出し、破談の後は悪評まで流された」
彼女の肩が跳ねた。
「なぜ、それを」
「調べました」
「私は、何も」
「ええ。あなたは何もしていない。だから、返させるのです」
彼女は唇を噛んだ。
泣きそうな顔でしたが、まだ落ちない。
「あなた、まだあの方を切れずにいらっしゃる」
「……嫌いになれません」
「結構」
私は頷いた。
「でしたら、先に取るものを決めましょう」
私は扇の先で、白い紙を彼女の前へ滑らせた。
「金、名誉、謝罪、家の席、男の首。欲しい順に並べなさいませ」
彼女はしばらく黙り、やがて絞るように言った。
「私の名です」
私は扇の先で、卓の上の紙を軽く叩いた。
「続けて」
「父の前で、嘘だったと認めさせたい」
「ええ」
「支度金も、家へ返していただきたいです」
そこで一度、彼女は目を伏せた。
「それでも、もし……あの方がまだ私を選ぶと仰るのなら」
「仰るのなら?」
「今度は、私の印なしに金も手紙も出せないようにしてください」
よろしい。
それなら、本人の手で首輪を締められます。
「明日から署名の練習をなさいませ」
「署名の練習……?」
「ご自分の名を返させるのでしょう。ならば、まずはぶれずに書けなくてはいけませんわ」
十日後、伯爵家で会談が開かれました。
婚約破棄に関する処理、という名目でしたが、卓の上へ紙を置き始めれば別の顔になります。
伯爵家当主。
長男。
クロウフォード家の父と兄。
立会人の親族たち。
そこへ私は、エミリア様を連れて入った。
「なぜ、その女がここにいる」
「まあ」
私は首を傾げた。
「未来の奥様候補に向かって、その言い方はいただけませんわ」
長男は言葉を失い、伯爵家当主は椅子の肘掛けを握り、父だけが最初に嫌な顔をした。
さすが元お父様。
帳簿を隠してきた方は、紙の匂いに敏い。
「ラヴィニア。何のつもりだ」
「婚約破棄されましたので、帳尻を合わせる順を整えてまいりました」
「ふざけるな!」
長男が立ち上がる。
「誰がそんな女と!」
「選べるお立場でしたの?」
私は受領証を置いた。
エミリア様の支度金を受け取った日のものです。
次に、悪評の出所を押さえた控えを滑らせる。
長男の顔色が変わったところで、慈善基金から伯爵家私財へ移した金の記録だけを開いた。
伯爵家当主の指が止まり、父がそこで初めて目をそらした。
「あなたを潰すだけなら簡単ですわ」
私は長男を見た。
「けれど、それでは奪われたものが戻りません」
「貴様……」
「ですから、生きたまま支払っていただきます」
伯爵家当主がようやく口を開いた。
「要求は」
「まず、エミリア様への正式な謝罪。破談時の悪評撤回。支度金の全額返還と利息。あとは、求婚文を改めて書かせます。受けるか捨てるかは、彼女が決める」
「認められるか!」
「では、慈善基金の件は神殿へ。賭場の件は衛兵へ。悪評は社交界へ」
封筒をひとつ、卓へ滑らせる。
蝋印の色だけで、十分でした。
長男は父を見た。
父親は息子を見なかった。
「まだございますわ」
私は別の紙を出した。
「慈善基金には監査役を置きます。こちらで推薦した方を」
「こちら、とは」
「黒百合会です」
部屋の空気がきれいに凍った。
父が立ち上がる。
「あの会は解体されたはずだ!」
「ええ。ですので、使い道を変えました」
「何を言っている」
「返させる方へ、と申し上げておりますの」
長男は顔色をなくし、エミリア様は震える手を膝の上でほどいた。
「エミリア様」
私は紙を彼女の前へ向けた。
「条件を」
彼女は顔を上げた。
「二度目はございません」
長男が息を呑む。
「私の印なしに金も手紙も出した時点で、この求婚は私の側から捨てます」
部屋は静まり返った。
彼女はそのまま、もう一度言った。
「父の前で謝ってくださいませ」
長男が何か言いかける。
その前に、伯爵家当主が息子の袖を押さえた。
「……私が流した噂は、事実ではなかった」
エミリア様は瞬きもせず、彼を見ていた。
「続けて」
私が言うと、長男の唇が歪む。
「エミリア嬢の名を、汚した」
「では、誰に返しますの?」
「……エミリア嬢と、その家に」
「支度金は」
「利息をつけて、返す」
エミリア様の膝の上で、握られていた指がほどけた。
エミリア様は契約書を取った。
彼女の目は赤かったが、手元はもうぶれない。
署名はきれいでした。
悪評撤回文は回り、支度金は利息付きで戻り、慈善基金には監査が入った。
伯爵家の長男は、それからエミリア様の印なしに、手紙一通、金貨一枚、夜会の招待状ひとつ動かせなくなった。
伯爵家は残りました。
門も、紋章も、夜会の席も、そのままです。
ただし、基金の帳面にはこちらの目が入り、商会への支払いにはこちらの印が要り、女主人は黒百合会の席に座る。
潰しては、瓦礫しか残りません。
家というものは、立ったまま使う方が便利ですわ。
誰も死んでいません。
それで十分ですわ。
伯爵家が済む頃には、元実家の方も少し騒がしくなっておりました。
私の持参金を当てにした算段が崩れ、止まるはずのなかった金が止まり、父は面会を求めてきた。
会いに行くと、十日で数年老けた顔をしていました。
「ラヴィニア」
「はい、元お父様」
「その呼び方をやめろ」
「では、クロウフォード卿」
父は唇を噛んだ。
「お前は何をした」
「拾い物を一枚」
「商会から契約見直しが来ている。誰に手を回した」
私は借用証文の写しを一枚だけ出した。
「まだ角をめくっただけですわ。伯爵家からこちらへ流れた金、その受け皿の一つが見つかりましたので」
父の手が震えた。
「親を脅す気か」
「まさか」
「では何だ!」
「次に開く帳面が、私の前か、お姉さまの前かを選んでいただいているだけです」
「母方の伯母上からも、今朝ほどお手紙をいただきましたわ。今後、クロウフォード家を通す必要はない、と」
兄の顔から、血の気が引いた。
兄が低い声で言った。
「お前は自分の家を食い物にする気か」
「食い物だなんて。生前贈与ですわ」
「まだ誰も死んでいない!」
「ええ。ですから、生前ですの」
「恩知らずが」
「おかげで自由になれましたもの」
私は微笑んだ。
「その御恩は、帳面を揃えてお返しいたしますわ」
その日は、借用証文の写しを一枚置いて帰りました。
クロウフォード家を剥がすのは、まだこれからで十分です。
それから私は、衣装箱より重い書類箱を持って神殿へ向かいました。
朝の聖堂は相変わらず清らかで、白い石床へ高窓の光が落ち、祭壇の白百合と銀の燭台の向こうで、お姉さまは木箱を運んでいらっしゃった。白いヴェールの下で粉袋を肩へ担ぐ手つきまで、腹立たしいほど整っている。
「お姉さま!」
私が駆け寄ると、お姉さまは荷を下ろし、まず書類箱を見て、それから私を見ました。
「帰れ」
胸が震えました。
「帰る家がなくなりましたわ!」
「作れ」
「では、こちらに」
「ここに作るな」
眉間を押さえる手つきまで美しい。
「お前、何した」
「少し、お掃除を」
「少しで伯爵家の基金監査権は手に入らねぇよ」
「黒百合会の残りも整えてまいりました」
「新しく作り直してねぇだろうな」
「返させる方へ振り分けただけですわ。返す相手と、返した後の置き場所を、こちらで決めるようにしただけで」
「言い方変えても信用できねぇんだよ」
「慈善基金の監査控えと、悪評撤回文の写し、それから借用証文を一枚」
「証拠品を花束みたいに差し出すな!」
「花束もございますが」
「あるのかよ」
合図すると、控えていた者が白百合と黒百合を合わせた花束を差し出した。
お姉さまは本気で頭を抱えた。
私は書類箱を開け、悪評撤回文の写しと借用証文を一枚ずつ抜いて見せた。
「立つな。座れ」
「はい?」
「そこに座れ。今から、何をやったか全部吐け」
「懺悔ですの?」
「事情聴取だ」
聖堂裏の長椅子へ座らされ、私は書類箱を膝へ引き寄せた。
実家はまだ立っている。
婚約者はなくなり、社交界の古い席も、たぶん空いた。
それでも、手元の紙はきれいに揃っている。
「ラヴィニア」
「はい、お姉さま」
「絶対に勝手に動くなよ」
私は黒百合の印章へそっと指を置いた。
「はい。次は先にお姉さまへお見せします」
お姉さまのため息が、白い石の壁へやわらかく返った。
私は膝の上の書類を一枚だけ整えた。
慈善基金の監査控え。
悪評撤回文の写し。
借用証文。
その一番下に、まだ乾ききっていないインクで、私の名がある。
ラヴィニア・ラストリード。
私は黒百合の印章を箱へ戻し、印の面を伏せたまま蓋を閉じた。
伏せておけば、押していないのと同じですもの。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ラヴィニアは反省しました。
たぶん。
少なくとも、噛みつく相手は変わりました。
黒百合会を解体されたはずなのに、なぜか以前より扱いづらいものをお姉さまへ献上しようとしています。
お姉さまは迷惑しています。
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