15話 再開
夏休み明けの放課後、部室の空気は少しだけ変わっていた。
窓の外はまだ明るい。
けれど真夏のぎらついた光は少し落ち着いていて、八月の終わりらしい熱だけが校舎の中に残っている。
久しぶりの制服も、まだ少しだけ体に馴染まない。
引き戸を開けると、八坂先輩が床に寝転がったまま天井を見ていた。
「おかえり、敗者よ」
朔人が言うと、八坂先輩がごろっとこっちへ顔を向けた。
「やめて、いま俺の心にそれは刺さる」
「自分で言ったんでしょ、キングオブコント出たって」
「出たよ! 出たけど一回戦で終わったよ!」
八坂先輩は両手を広げた。
「狭き門すぎるだろ、あれ!」
「まあ、そうだろうね」
櫻葉先輩が机の横で言う。
「出る前から言ってたじゃん」
「櫻葉は冷たい」
「現実的って言って」
「でも俺、射的よりはいけると思ってた」
「比較対象そこ?」
そのやり取りに少し笑ってしまう。
百均前線は夏休み中にキングオブコントへ出て、一回戦敗退で帰ってきたらしい。
八坂先輩は悔しそうではあるけど、落ち込みきっているわけじゃなかった。
「まあでも」
八坂先輩は上体を起こして言った。
「来年また出るし」
「出るんだ」
「出るよ。来年はもっとつよい園児になる」
「人質ネタ引きずるなあ」
「いや、新ネタだけど」
「新ネタでも園児なんだ」
「可能性を感じてるから」
「手応えあったんだ」
櫻葉先輩が小さくため息をつく。
その空気が、なんだかちょっとだけ懐かしかった。
「サク」
その声で、朔人は振り向いた。
凪先輩が部室の入口に立っていた。
夏休み明けの制服姿。眼鏡、茶髪、ネタ帳。全部いつも通りなのに、朔人はその姿を見た瞬間だけ少し息が止まる。
「お疲れっす」
「おつかれ」
凪先輩はそう返してから、ほんの一瞬だけ朔人の顔をじっと見た。
「……だいぶ戻った?」
「誰のことですか」
「お前以外にいないだろ」
「まあ、熱は下がりました」
「声は」
「もう大丈夫っす」
そう言ってから、朔人はわざと少しだけ大きめの声を出してみせた。
「ちゃんと出るんで」
「ならよかった」
短い会話だった。
短いのに、なんとなく気まずい。
いや、気まずいのはたぶん自分だけじゃない。
凪先輩のほうも、いつもみたいに「よし、店行くぞ」とか「夏休み中に思いついたやつある」とか言わない。
ただ、机の上にネタ帳を置いて、何でもない顔を作っている。
変だ。というか、また少し距離を測ってる感じがする。
八坂先輩がそんな空気を読んでるのか読んでないのか分からない顔で立ち上がった。
「そういえばさ、放課後バーガーは? M-1どうすんの」
その一言で、部室の空気が少しだけ静かになる。
凪先輩は一拍置いてから答えた。
「来年また出るよ」
「お」
八坂先輩が笑う。
「いいじゃん」
「次はちゃんと万全で」
櫻葉先輩が淡々と言う。
「前回みたいなのはだめ」
「分かってる」
凪先輩はそう言ってから、ちらっと朔人を見た。
「熱も声もなしでな」
「はい」
朔人も頷く。
「倒れません」
「それは信用できないな」
「なんでですか」
「前科あるから」
「ひどっ」
そう返したら、八坂先輩が笑った。櫻葉先輩も小さく口元を緩める。
凪先輩だけは、笑ったあとで少しだけ視線を落とした。
たぶん、思い出してるんだと思う。
文化会館のロビーのこととか、あの日のこととか。
朔人も、完全に忘れているわけではなかった。
熱でぼんやりしていて、記憶はところどころ曖昧だ。
でも、凪先輩が来たこと。
おかゆを作っていたこと。
額に冷たいシートを貼られたこと。
そのあたりの感覚だけは、変にはっきり残っている。
ただ、一番最後のところだけ、うまく思い出せない。
うとうとして、何か言った気がする。
凪先輩が部屋にいた気配と、自分が引き止めたような曖昧な感覚。
でも、それが夢だったのか本当だったのか分からなかった。
「で」
八坂先輩が言う。
「今日は久しぶりにホーム?」
「出たな、その言い方」
朔人が返すと、八坂先輩が得意げに胸を張る。
「使ってる」
「広めなくていいです」
「いいじゃん、名物っぽくて」
「名物って何」
「放課後バーガーの聖地」
「ただのハンバーガー屋だろ」
櫻葉先輩が即座に切った。
そこで凪先輩が、少しだけ間を置いてから言った。
「……行く?」
その聞き方が、妙に慎重だった。
朔人は一瞬だけ目を瞬く。
前なら、凪先輩はそんな聞き方しなかった。
もっと当然みたいに「行くぞ」と言ったはずだ。
「行きますよ」
朔人はすぐ答えた。
「なんでそんな確認みたいに言うんすか」
「いや」
凪先輩は少しだけ笑う。
「久しぶりだから」
「一ヶ月も空いてないでしょ」
「でも久しぶりだろ」
「……まあ」
朔人は目を逸らした。
「そうかもしんないですけど」
その返事に、凪先輩がほんの少しだけ安心したみたいな顔をした。
それが逆に、また胸の奥を落ち着かなくさせる。
「いってらっしゃーい」
八坂先輩が言う。
「俺ら敗者コンビは来年へ向けて構想を練ります」
「今から?」
「今から」
「早」
「負けた次の日から始まってるから」
櫻葉先輩がぼそっと言う。
「止めても聞かない」
「来年は撃ち落とすから!」
「射的じゃないんだよ」
「似たようなもんでしょ」
「全然違う」
そのやり取りを背に、朔人と凪は部室を出た。
廊下に出ると、夕方の熱がまだ残っている。
でも真夏の一番きつい時期を少し過ぎたせいか、風の中にほんの少しだけやわらかさが混ざっていた。
並んで歩く。それだけなのに、なぜか少しぎこちない。
「体、ほんとに大丈夫?」
先に口を開いたのは凪だった。
「無理してない?」
「してないっす」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「声」
「もう戻ってます」
「ならいいけど」
それでまた会話が途切れる。
おかしい。前ならこんな沈黙、気にならなかったのに。
「凪先輩」
「ん?」
「なんか今日、変じゃないですか」
「俺が?」
「そう」
「どこが」
「……いや」
朔人は少しだけ迷ってから言う。
「なんか、よそよそしい」
凪先輩の足がほんの少しだけ止まりかけた。
でもすぐにまた歩き出す。
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないと思う」
「そう?」
「そうです」
朔人は言ってから、ちょっとだけ低く続けた。
「見舞いのあとくらいから」
その一言に、凪先輩はあからさまに視線を逸らした。
「……ああ」
「何かあったんすか」
「何もない」
「そういう時の『何もない』は絶対何かあるでしょ」
「サク」
「はい」
「今日は店着いてからにしない?」
「何で」
「暑いから」
「ごまかしたな」
「気のせいだろ」
その返しが微妙に弱くて、余計に怪しい。
でも、今は無理に追い詰める感じでもないかと思って、朔人はそれ以上言わなかった。
駅前のハンバーガー屋に入ると、冷房の風が一気に肌に当たった。
外の熱を引きずったまま入ると、少し寒いくらいだ。
窓際のいつもの席。その場所に座るのも、やっぱり少しだけ久しぶりな感じがした。
朔人はいつものセットを頼んで、先に席へ戻る。
少し遅れて、凪がトレーを持ってやってきた。
セットにバーガーふたつ。さらに、今日は新作らしいシェイクまでついている。
「多」
朔人が言うと、凪先輩が少しだけ肩をすくめた。
「夏休み明けだから」
「理由になってないんすよ」
「でも余裕」
「知ってます」
そこまでは、まあいつも通りだった。
でも、問題はそのあとだった。
凪先輩がシェイクのカップを見て、少しだけ手を止める。
いつもなら「一口飲む?」と当然みたいに押してくるのに、今日はそれをしない。ただ、自分で少し飲んで終わる。
朔人はそれを見て、妙に引っかかった。
「……凪先輩」
「ん?」
「今日、新作勧めてこないんすね」
その言葉に、凪先輩が一瞬だけ固まった。
「え」
「いつもならとっくに一口飲ませてくるのに」
「いや」
凪先輩は少しだけ咳払いした。
「別に、飲みたいなら飲めば?」
「何その雑な勧め方」
「雑ではないだろ」
「雑です」
朔人はじっとカップを見る。
「前はもっと強引だったのに」
「前の俺を何だと思ってんの」
「食べ物押しつけてくる人」
「失礼な」
そう言いながらも、凪先輩は結局カップを少し押してきた。
「……いる?」
「じゃあ一口」
「ほんとに一口な」
「分かってますよ」
ストローで少しだけ飲む。
甘い。桃っぽい味がする。
「うま」
「だろ」
「でも最初からそうすればいいのに」
「何が」
「変に躊躇うからおかしいんでしょ」
「躊躇ってない」
「躊躇ってました」
そのやり取りをしながら、朔人は確信した。
やっぱり変だ。しかも、意識して変になってる。
凪先輩はポテトをつまみながら視線を逸らす。
眼鏡の奥の目が、少しだけ落ち着かない色をしていた。
「何なんすか、ほんとに」
朔人が言うと、凪先輩は今度こそ黙った。
その沈黙のまま、朔人は包み紙を開いたハンバーガーを一口かじる。
向かいでは凪先輩が、自分のバーガーに手を伸ばしかけて、でもそこでほんの一瞬止まった。
それも分かった。
前なら、朔人が半分くらい残したところで当然みたいに「もういらない?」と聞いてきたのに、今日はそれすらしない。
そこで、朔人の中で何かが引っかかったまま、はっきり形になる。
「凪先輩」
「……何」
「また避けてません?」
凪先輩が、今度こそ真正面から目を見開いた。
「また、って」
「前もあったでしょ」
朔人は言う。
「急にハンバーガー屋行かないとか、距離取るとか」
「……」
「今日も近い感じはするのに、でもなんか変に遠い」
言いながら、自分でも変な言い方だと思った。
でも、それ以外に説明できなかった。
凪先輩はそこで視線を落とした。コーラの氷がカップの中で小さく鳴る。
「サク」
「はい」
「お前、見舞いの時のことどこまで覚えてる?」
その問いに、朔人は少しだけ止まる。
「……断片的に」
「断片」
「凪先輩が来たこととか、おかゆ食べさせられたこととか、熱さまシート貼られたこととか」
「……」
「あと、何か俺、変なこと言ってませんでした?」
聞きながら、半分は確かめるためだった。
熱でぼんやりしていた最後のあたりだけ、どうしても曖昧で、でも胸のどこかに残っている。
凪先輩はその一言で、ほんの少しだけ息を止めたのが分かった。
「何も」
言いかけて、止まる。
「……いや」
「何ですか」
「別に、大したことじゃない」
「その言い方が一番怪しいんすけど」
朔人がそう言うと、凪先輩は苦笑した。
でもその笑い方も、やっぱりどこか困っている。
「熱あったし」
「うん」
「たぶん、お前もあんま覚えてないだろ」
「覚えてないから聞いてるんです」
「それはそうか」
また少し沈黙。
前なら、この沈黙もきっと普通だった。
けど今は、その間にいろんなものが詰まりすぎている。
「前みたいにしていいのに」
気づいたら、朔人はそう言っていた。
凪先輩が顔を上げる。
「前みたいに?」
「そう」
朔人は、包み紙を指で少し潰しながら言う。
「シェイク押しつけてきたり、勝手に食いすぎたり、俺の食べ残し狙ったり」
「言い方に悪意がある」
「事実でしょ」
「そうだけど」
「それなのに、そこだけ急に遠慮されると」
朔人は少しだけ目を逸らした。
「……調子狂うんで」
言ってしまってから、自分でも少しだけ耳が熱くなる。
でも、凪先輩のほうもたぶん似たような顔をしていた。
「サク」
「なんすか」
「それ、ずるい」
「何がっすか」
「今の言い方」
「知らないです」
「とぼけるなよ」
そこで、やっと少しだけいつもの空気に近いものが戻る。
凪先輩は小さく息を吐いてから、朔人のトレーを見た。
「それ、もういらない?」
「半分くらいなら」
「じゃあもらう」
「ほら、そういうのです」
凪先輩がハンバーガーを引き寄せて、一口かじる。
それを見て、朔人は少しだけ笑った。
「やっぱそっちのほうが自然です」
「何それ」
「そのままです」
「……変なやつ」
凪先輩はそこで、ほんの少しだけ視線を落とした。
恋を自覚してから、何をどうしても意識してしまう。
でもサクは、そんなことを知らないまま、前みたいにしてほしいと言う。
それが嬉しいのに、苦しくもある。
でも、その苦しさごと、たぶん嫌じゃなかった。
「じゃあ」
凪先輩がネタ帳を開く。
「無人島、久しぶりにやるか」
「はい」
「声、無理そうならすぐ言えよ」
「今はちゃんと出ます」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ最初からできる?」
「疑いすぎでしょ」
その返しのテンポに、凪先輩が少しだけ笑う。
それでようやく、今日初めてちゃんと戻れた気がした。
夏休みが明けて、また学校が始まる。
百均前線は一回戦敗退だったけど、来年また挑むつもりらしい。
放課後バーガーも、今年出られなかったぶんまでちゃんと前に進まないといけない。
そういう話をしながら、二人はまたネタ帳を挟んで向かい合う。
窓の外は少しずつ暗くなっていた。
でもハンバーガー屋の中は明るくて、冷房が効いていて、相変わらず少し寒いくらいだ。
その中で、朔人はふと思った。
やっぱりここだ。ここで凪先輩と向かい合ってる時の自分が、一番しっくりくる。
まだそれを、全部言葉にはできないけど。




