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公爵令嬢から惚れられる話

作者: 慈架太子
掲載日:2026/01/30


「ジュヌヴィエーヴ・ド・ラ・マルク! 貴様のような冷酷な女、  王妃の座に座る資格などない。今この瞬間をもって婚約を破棄する!」


王子の傍らには、勝ち誇った笑みを浮かべる男爵令嬢。 冤罪によって孤立したジュヌヴィエーヴは、真っ青な顔で立ち尽くしていた。 信じていた婚約者、そして沈黙する周囲の貴族たち。 彼女が守ろうとした「秩序」は、下卑た嘲笑の中に消えようとしていた。


その時、一人の男が彼女の前に進み出る。


「――お言葉ですが殿下。その茶番、ここで終わりにしましょう」


静かだが、場の空気を支配する声。 かつては王子の影、あるいは家格の低い貴族として軽んじられていた主人公が、 絶望に震えるジュヌヴィエーヴの肩にそっと手を置く。


「……様? なぜ、あなたが……」


「お迎えに上がりました、ジュヌヴィエーヴ様。  泥を被るのが王子の役目なら、貴女という真実を救うのは私の役目だ」


ジュヌヴィエーヴの変貌: 王子の妃になるべく「完璧な令嬢」を演じてきた彼女だが、自分を救った 主人公の前でだけは、年相応の涙を見せ、深い依存と情愛を向けるようになる。


執着の芽生え: 「私にはあなたしかいない」という想いが、やがて「あなたを誰にも渡したくない」 という、公爵令嬢らしい苛烈で一途な恋心へと育っていく。


王子の命により、悪女の代理騎士として名乗りを上げたのは、王国でも指折りの巨漢騎士だった。「公爵令嬢の狂言など、我が剣で粉砕してくれよう」と、彼はせせら笑う。


対するジュヌヴィエーヴの隣には、静かに剣を帯びたスティーヴンが立つ。


「スティーヴン……無理はしないで。私は、貴方が傷つくくらいなら……」


不安に揺れるジュヌヴィエーヴの瞳。だが、スティーヴンは彼女の手を優しく取り、その甲に誓いの接吻を落とした。


「案ずることはありません、ジュヌヴィエーヴ様。  あのような俗物に、貴女の純潔な名誉を汚させはしない」


[ 決闘開始 ]


合図と共に巨漢騎士が咆哮し、大地を揺らして突撃する。一撃で勝負を決めるつもりの剛剣。しかし、スティーヴンは半歩も退かない。


――キィィィィン!


鋭い金属音。スティーヴンは最小限の動きで大剣を受け流し、目にも止まらぬ速さでカウンターを叩き込んだ。


「……なっ!?」


一撃。二撃。スティーヴンが剣を振るうたび、相手の鎧が紙細工のように切り裂かれていく。圧倒的な速度と、冷徹なまでの技量。王子の顔から余裕が消え、悪女は恐怖に顔を引きつらせる。


「これが、貴殿たちが侮り、陥れようとした令嬢の守護者の力だ」


スティーヴンの最後の一閃が、相手の剣を根元から叩き折り、その喉元に切っ先を突きつけた。


[ 決闘の結末 ]


「勝者、スティーヴン! ジュヌヴィエーヴ令嬢の潔白は証明された!」


万雷の拍手。崩れ落ちる悪女と、言葉を失う王子。 スティーヴンは剣を納めると、真っ先にジュヌヴィエーヴのもとへ歩み寄る。


彼女は、自分を救い、誇りを取り戻してくれたスティーヴンの胸に飛び込んだ。 「ああ、スティーヴン……! 私、もう……貴方なしでは、一秒も……」


周囲の目も憚らず、彼を強く抱きしめるジュヌヴィエーヴ。 その瞳には、もはや王子への未練など微塵もなく、ただ一人、自分を救った男への「執着」と「狂おしいほどの愛」だけが宿っていた。


巨漢騎士が地に伏し、会場が静まり返る中、スティーヴンは息一つ乱さず剣をジュヌヴィエーヴに返した。その剣筋は鋭かったが、立ち振る舞いは騎士のそれとはどこか異なっていた。


「……信じられない。あんな出鱈目な速さ……貴様、何者だ!?」


王子の震える声に、スティーヴンは肩をすくめる。


「私は剣術など嗜んでおりませんよ。ただの素人です。……ただ、少しばかり『効率』を求めた結果、魔法式を編み出しましてね」


スティーヴンが指を鳴らすと、彼の周囲の空気がわずかに歪んだ。


「人体の神経伝達速度と筋肉の収縮速度を、魔法で強制的にブーストした。――通常の約20倍ほどに。……単純な話です。相手が止まって見えるほど速く動ければ、剣の型など知らずとも、ただ『そこに置く』だけで勝てる」


周囲の魔術師たちが戦慄する。20倍という倍率は、通常の強化魔法では肉体が負荷に耐えきれず自壊するはずの領域。それを平然と、緻密な演算で制御してみせたのだ。


その異端とも言える力と、それを自分のためだけに振るってくれたという事実に、ジュヌヴィエーヴの心は激しく波打つ。


「20倍の……私のために、それほどの禁忌に近い魔法を……」


彼女は、スティーヴンの「普通ではない」部分に恐怖するどころか、抗いがたい魅力を感じていた。 自分を捨てた王子が矮小に見えるほど、目の前の男は底知れず、そして特別だ。


「スティーヴン、貴方は……貴方は私だけの英雄シュヴァリエ……。  その速さで、私をどこか遠くへ連れ去ってくださる?」


彼女の手が、スティーヴンの腕に強く、離さないという意思を込めて絡みついた。


スティーヴンの淡々とした種明かしが、静まり返った広間に残酷なほど響き渡る。


自らの騎士が惨敗した瞬間、男爵令嬢の顔からは血の気が引き、土気色へと変わっていた。 「そんな……、うそ……。あの方は王国最強の……」 震える膝が耐えきれず、彼女はその場に崩れ落ちる。 スティーヴンの冷徹な視線が彼女を射抜くと、彼女はまるで蛇に睨まれた蛙のように、喉を鳴らして震えることしかできなかった。 完璧だったはずの計画は、一人の「素人」が操る未知の魔法によって、粉々に打ち砕かれたのだ。


一方、王子は抜いた剣を鞘に戻すことすら忘れ、口を半開きにして立ち尽くしていた。 「20倍だと……? バカな、そんな魔法、聞いたこともないぞ……」 かつて自分が「退屈な女」と切り捨てたジュヌヴィエーヴの隣に、自分など到底及ばない底知れぬ怪物が控えている。 その事実を突きつけられ、彼のプライドは音を立てて崩壊していった。 もはや、彼に言葉を投げかける資格を持つ者など、この場には一人もいない。


ジュヌヴィエーヴは、もはや王子や男爵令嬢など視界に入れていなかった。 彼女は優雅に、そして力強くスティーヴンの腕を掴む。


「スティーヴン、行きましょう。  この埃っぽい場所には、もう私たちの居場所はありませんわ」


彼女の瞳は、自分を救った「異端の守護者」への独占欲で爛々と輝いている。 絶望に震える二人を背に、彼女はスティーヴンと共に、夜会の出口へと堂々と歩みを進めた。


「追っ手が来る前に、失礼しましょう」


スティーヴンがジュヌヴィエーヴの細い腰を引き寄せた。 次の瞬間、周囲の風景が引き伸ばされた線のように背後へ流れ去る。 20倍に加速された世界において、衛兵たちの制止も、王子の叫びも、 止まった彫像が発する無意味なノイズに過ぎなかった。


数分後。二人が辿り着いたのは、王都の喧騒から遠く離れた、 深い霧に包まれた湖畔に佇む古い石造りのヴィラだった。


スティーヴンが以前から、万が一の事態に備えて私的に整えていた場所。 内装は質素ながらも清潔で、温かな暖炉の火が二人を迎える。


「……ここまで来れば、もう誰も追ってこれません」


スティーヴンが魔法を解くと、ジュヌヴィエーヴは力が抜けたように、 その場に崩れ落ちそうになった。それをスティーヴンが優しく支える。


「ああ……本当に、終わったのね……」


冷たい夜風に吹かれ、ようやく実感が湧いてきたのか、 彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。 しかし、その顔に悲しみはない。


「地位も、名誉も、未来も……あそこで全部捨ててきたわ。  今の私は、ただの『ジュヌヴィエーヴ』。  ……ねえ、スティーヴン。責任を取ってくださるのでしょう?」


彼女はスティーヴンの胸元に顔を埋め、服を掴む指に力を込める。 その眼差しには、救われた安堵よりも、 自分を連れ去った男を生涯離さないという、苛烈な決意が宿っていた。


「貴方が見せてくれたあの加速せかいに、私をずっと閉じ込めて……」


スティーヴンが困ったように眉を下げ、自分と彼女の「身分の差」を説く。しかし、それはジュヌヴィエーヴの情熱にさらなる火を注ぐだけでした。


「……お嬢様。落ち着いて聞いてください」


スティーヴンは彼女の肩を優しく押し戻し、諭すように言葉を紡ぐ。


「私は見ての通り、ただの平民です。魔法の心得が少しあるだけの男に過ぎない。  公爵家という誉れ高き血筋、そして王家との繋がり……。  一時の感情で、それら全てを不意にして良いはずがありません」


ジュヌヴィエーヴは、弾かれたように顔を上げた。 その唇には、悲しげな、それでいて全てを嘲笑うような歪な笑みが浮かんでいる。


「平民? 血筋? ……そんなものが、私を救ってくれたかしら?」


彼女は一歩踏み出し、スティーヴンの胸元を強く掴んで逃がさない。


「あの夜会で、私が泥にまみれていた時、私の『家』は黙っていたわ。  王家は私を辱め、貴族たちはそれを見て楽しんでいた。  ……あそこで私を人間として扱ってくれたのは、貴方一人だけよ、スティーヴン」


彼女の瞳から涙が消え、代わりに宿ったのは昏いまでの独占欲だった。


「家も、王家も、世界も……私を捨てたのよ。なら、私も捨ててやるわ。  今の私は、ジュヌヴィエーヴ・ド・ラ・マルクではない。  貴方の魔法で加速した世界の中で、貴方だけを見つめる抜け殻……。  ……いいえ、貴方の『所有物』になりたいの」


彼女はスティーヴンの手に自分の頬を寄せ、うっとりと目を閉じる。


「平民だと言うなら、私を貴方の色の平民に染め上げなさいな。  逃がさないわよ、スティーヴン。  私をあの地獄から連れ出した責任……一生をかけて、果たしてもらうわ」


「お嬢様、落ち着いてください。……公爵様や、あのお厳しい兄上様が、  この事態を知れば何とおっしゃるか。お考えください。  一時の激昂で、家族との絆まで断ち切るべきではありません」


スティーヴンの声はどこまでも穏やかで、彼女の将来を案じる「忠臣」そのものだった。 だが、ジュヌヴィエーヴはその言葉を冷たい微笑で遮る。


「……お父様? それに、お兄様?」


彼女はゆっくりと首を横に振った。その瞳には、深い諦念が混じっている。


「スティーヴン、貴方はご存じないのね。  あの断罪の場に、お父様の代理としてお兄様がいたことを。  ……彼は、私が王子に罵倒されている間、一度も私と目を合わせなかった。  公爵家うちにとって、私は『王家に嫁ぐための道具』でしかなかったのよ」


彼女はスティーヴンの胸に手を置き、その心音を確かめるように指先を動かす。


「道具が壊れたのなら、捨てて新しいものを用意する。それが私の家のやり方。  今頃、実家では私の名を除籍する準備を始めているでしょう。  ……家族(あの人たち)にとって、私はもう『死んだ』も同然なの」


彼女は顔を上げ、スティーヴンの目を真っ直ぐに見つめた。


「だから、お考えなさいと言われても困るわ。  私にはもう、帰る場所も、守るべき絆も、考えるべき未来もないのだから。  ……ねえ、スティーヴン。  そんな私に、貴方まで『元のお嬢様に戻れ』と突き放すつもり?」


「私には、貴方しかいないの。  世界に拒絶された私を、貴方の20倍の速度で連れ去って。  誰も追いつけない場所へ。貴方の腕の中だけが、私の新しい世界なのよ」


「……お嬢様、言葉を慎んでください。  国王陛下や王妃様が、この一件をどうお受け止めになるか。  王家の婚約を反故にし、あまつさえ平民と姿を消したとなれば、  国を挙げた追討すら免れません。……それは貴女の望む未来なのですか?」


スティーヴンの切実な問いかけ。 しかし、ジュヌヴィエーヴの口から漏れたのは、乾いた笑い声でした。


「王妃様……? あの方こそ、私に『完璧』を強いた張本人。  『王家に嫁ぐ者は感情を殺せ』と、幼い私に教え込んだお方だわ。  そして国王陛下は、王子の愚行を知りながら、  男爵令嬢の背後にいる勢力を利用するために黙認なされた。  ……あの方々にとって、私は盤上のポーンですらなくなったの」


彼女はスティーヴンの頬に、震える手で触れました。


「陛下も、王妃様も、私が王子に捨てられ、  悪女の濡れ衣を着せられて自害するのを待っていたはずよ。  そうすれば、波風立てずに私(ヴァロワ家)を処分できるもの。  ……スティーヴン、貴方はそんな『王家』の顔色を伺えとおっしゃるの?」


「彼らが何と言うか、教えてあげましょうか?  きっと『不届きな令嬢を捕らえ、処刑せよ』と言うでしょうね。  ……なら、構わないわ。  冷たい王宮の床で、誰にも省みられず死ぬくらいなら、  貴方の腕の中で、罪人として命を散らしたい」


彼女はスティーヴンの首に腕を回し、その耳元で熱く、毒を含んだ蜜のような声で囁きました。


「国王も、王妃も、実家の父も兄も……。  私にとっては、貴方の指先一つ分ほどの価値もありません。  お願い、スティーヴン。私を『お嬢様』と呼ぶのはもうやめて」


「そんなことを言われても……困ります、ジュヌヴィエーヴ様」


スティーヴンの声から、これまでの穏やかさが消え、生々しい「怯え」が混じる。


「貴女お一人の問題ではないのです。  このまま貴女を匿えば、私は不敬罪で縛り首だ。  それだけじゃない、郷里にいる私の両親も、兄弟も……全員、連座で処刑されます。  ……貴女を救った代償に、私の愛する家族全員の命を差し出せとおっしゃるのですか?」


その言葉に、ジュヌヴィエーヴは目を見開いたまま固まった。 自分の孤独と絶望に酔いしれるあまり、彼女を救った男が背負っている「平民としての現実」――権力という名の理不尽な暴力に、全く思い至っていなかったのだ。


「あ……」


沈黙が館を支配する。薪のはぜる音だけが虚しく響く。 やがて、ジュヌヴィエーヴは震える手で自分の顔を覆い、狂ったように笑い始めた。


「……そうね。そうだったわ、スティーヴン。  貴方は私と違って、守るべきものがある『温かな人』だった」


彼女は顔を上げ、その瞳に冷酷なまでの決意を宿した。 それは自分を救うためではなく、スティーヴンを「守り、縛り付ける」ための決意。


「なら、決まりね。……スティーヴン、貴方の家族を今すぐ魔法で回収しなさい。  私が隠し持っていた公爵家の隠し資産、隣国の通行証、全て使いましょう。  貴方の家族も、貴方の人生も、全部まとめて私が買い取ってあげる」


彼女はスティーヴンの手を、痛いほどの強さで握りしめる。


「この国にいたら、いつか全員殺される。  なら、私の資産を使って、家族ごと国外へ逃げるのよ。  ……そして、貴方は一生、私の傍で私を飼い殺しにする。  家族の命を救った恩、たっぷり私に返してもらうわよ? 平民のスティーヴン」


「無茶苦茶だ……! ジュヌヴィエーヴ様、貴女は自分が何を言っているか分かっているのですか!?」


スティーヴンが初めて、声を荒らげて彼女の肩を掴んだ。


「俺の両親も、兄弟も、今この瞬間まで明日も変わらぬ生活が続くと信じて眠っている。  親父には守らなきゃならない田畑がある。妹には将来を誓い合った婚約者だっているんだ。  それを、貴女が王子に捨てられたからという理由だけで、全部捨てて夜逃げしろと?  ……そんなの、あんまりだ。俺の家族の人生を、貴女の『我儘』で踏みにじらないでくれ!」


激昂するスティーヴンの前で、ジュヌヴィエーヴは人形のように動かなくなった。 「我儘」という言葉が、鋭い刃となって彼女の胸に突き刺さる。 公爵令嬢として、与えられることが当然だった彼女には、平民が積み上げてきた「ささやかな日常」の重みが、想像すら及ばない領域だった。


「……我儘、か。そうね。そうだったわね」


彼女の声は、先ほどまでの熱情が嘘のように低く、冷え切っていた。


「貴方の家族には、愛する場所がある。守りたい絆がある。  ……でも、スティーヴン。私を助けたその瞬間に、貴方はもう、彼らの日常を壊してしまったのよ」


彼女はスティーヴンの手を、力なく、けれど拒絶するように振り払った。


「私がここで捕まれば、貴方は『公爵令嬢を拐かした大罪人』になる。  貴方が何も言わず家族を捨てられないというなら、彼らは理由も分からぬまま、  朝を待たずに兵士に引き立てられ、処刑台へ送られるでしょうね」


ジュヌヴィエーヴは、窓の外の暗い闇を見つめた。


「私の我儘で捨てるのではないわ。……貴方が私を助けたという『正義』が、  貴方の家族を殺そうとしているの。  ……ねえ、スティーヴン。今すぐ魔法を使って。  彼らを救うためにその速さを使うのか、それとも、  ここで私と一緒に、朝に来るはずのない平和を待ち続けるのか……選びなさい」


スティーヴンは苦渋に満ちた表情で、しかし決然とジュヌヴィエーヴの手首を掴みました。その「20倍速」の魔法を、逃走ではなく、彼女を断罪の場へと連れ戻すために発動させる構えを見せます。


「……分かりました。なら、今すぐ貴女を王城へお連れします」


スティーヴンの低い声に、ジュヌヴィエーヴの体がびくりと震えた。


「え……? スティーヴン、貴方……私を売るというの?」


「俺の家族を、貴女の道連れにするわけにはいかない。  お嬢様を『捕らえた』体で王城に突き出し、俺は誘拐の罪を被る。  貴女が『魔法で脅されて無理やり連れ出された』と証言すれば、  公爵家も貴女の身の安全だけは保障せざるを得ないはずだ」


ジュヌヴィエーヴの瞳から光が消え、絶望が色濃く影を落とす。 自分を救ったはずの手が、今は自分を地獄へ送り返す鎖のように感じられた。


「嫌……嫌よ! あの冷たい檻の中に戻るくらいなら、ここで貴方に殺されたい!」


「……黙って俺についてきてください」


スティーヴンはあえて冷徹な仮面を被り、彼女を抱きかかえる。 だが、その腕は微かに震えていた。 彼には確信があった。今のまま「逃亡者」として国を追われれば、平民である自分の家族は確実に皆殺しにされる。 ならば、あえて自らが「悪人」を演じ、王城という盤上へ戻ることで、 王子の不貞と、悪女の嘘を公の場で完全に粉砕する「再断罪」の機会を作るしかない。


「舌を噛まないように。……行きますよ」


風景が再び加速する。 目指すは、先ほど逃げ出したばかりの王城。 衛兵たちが騒然とする中、スティーヴンは「捕らえた令嬢」を抱え、 最短ルートで国王の御前へと突っ込んでいく。


「不届き者め! ジュヌヴィエーヴを返せ!」


王城の大広間に再び突っ込んできたスティーヴンと、その腕に抱かれたジュヌヴィエーヴ。王子が勝ち誇ったように叫ぶが、スティーヴンは彼女をそっと床に下ろすと、懐から一束の書面と、奇妙な魔道具を取り出した。


「……黙りなさい、殿下。私がここへ戻ったのは、貴殿の醜態を完遂させるためだ」


先ほどの逃走の際、スティーヴンはただ逃げていたわけではなかった。 20倍の加速世界の中、止まった時間のような風景を駆け抜け、彼は王子の私室と男爵令嬢の馬車を密かに「家捜し」していたのだ。


「これは、殿下とこの女性(男爵令嬢)が交わした密約の書状。そして、ジュヌヴィエーヴ様を陥れるための毒薬……の、偽装工作を指示した領収書です」


スティーヴンが書状を高く掲げると、そこには王家の印章と、男爵令嬢の筆跡で「公爵家の排除と、王家の資産私物化」に関する生々しい計画が記されていた。


「な……なぜそれを!? 厳重に隠していたはず……!」


「私の速度(世界)に、隠し場所など無意味です」


男爵令嬢は悲鳴を上げ、王子は膝を折った。 国王と王妃、そしてジュヌヴィエーヴの兄も、突きつけられた「物的証拠」を前に、言葉を失う。


スティーヴンは冷徹な眼差しで、絶望に顔を歪める王子を見下ろした。


「殿下、貴殿が捨てたのは、この国で最も気高く、貴殿を支えようとしていた女性だ。……その報い、ここで受けていただく」


絶望の淵にいたジュヌヴィエーヴは、スティーヴンが「自分を売るため」ではなく、「自分と、そして自分の家族の両方を救う完璧な勝利」のために戻ってきたことを悟る。


彼女の瞳に、再び熱い光が宿った。 自分を守るために知略を尽くし、家族を案じながらも敵を粉砕してみせたスティーヴン。 その「平民の男」への独占欲は、今や王国の法すら超越しようとしていた。


「……お父様、お兄様。聞こえましたわね?  私は、私を貶めたこの国を許しません。  ……そしてスティーヴン。貴方が私のためにここまでしてくれた以上、  もう絶対に、絶対に逃がしませんからね……」


王子の不貞と悪女の自白。その決定的な証拠により、王宮の勢力図は一夜にして塗り替えられた。 国王はヴァロワ家への謝罪を余儀なくされ、醜態を晒した兄と父は隠居を宣言。 そして、新たな公爵家当主として立ったのは、他ならぬジュヌヴィエーヴであった。


「……お嬢様、いえ、閣下。いい加減にしてください」


スティーヴンは呆れたような、それでいて逃げ場のない溜息をついた。 彼の指には、公爵家の紋章が刻まれた豪奢な指輪が嵌められている。 それは、ジュヌヴィエーヴが家督を継いだ直後、魔法で加速する暇も与えず、 衆目の中で彼の指に叩き込んだ「婚約の証」だった。


「あら、閣下なんて他人行儀な。今は二人きりなのだから、  『ジュヌヴィエーヴ』と呼び捨てにしてくださっていいのよ、旦那様?」


ジュヌヴィエーヴは執務机を回り込み、スティーヴンの膝の上に座り込む。 かつての令嬢の仮面はどこへやら。 その瞳には、手に入れた獲物を決して手放さない肉食獣のような光が宿っていた。


「スティーヴン、貴方の家族には最高級の領地と、一生遊んで暮らせる年金を用意したわ。  妹さんの婚約者には、私の直轄騎士団のポストを。  ……これで、貴方の言いしんぱいごとは全部なくなったでしょう?」


「……外堀を埋めるのが速すぎます。20倍速の俺でも追いつけない」


「ふふ、愛の力は魔法よりも速いのよ」


彼女はスティーヴンの首筋に顔を寄せ、その心音を確かめるように深く息を吸う。


「貴方は私の名誉を救い、家族を守った。  なら、今度は私の『心』を一生守り続けなさい。  ……逃げようとしたら、今度は私が20倍の執念で貴方を追い詰めるから」


スティーヴンは、指に嵌められた指輪の重みを感じながら、必死に最後の防衛線を張ります。それは「国家の常識」という名の、あまりにも正当な正論でした。


「……落ち着いてください、ジュヌヴィエーヴ様。冗談が過ぎます。  公爵家の当主が、ただの平民を『正室』に迎えるなど、前代未聞だ。  貴族社会が黙っていません。他家からの圧力、家臣たちの反発……。  そんなことを強行すれば、貴女の立場が危うくなるだけです。分かってください」


スティーヴンは彼女の肩を優しく、しかし確かな拒絶を持って押し止める。 だが、ジュヌヴィエーヴは不敵な笑みを浮かべたまま、一歩も退かなかった。


「貴族社会? 反発? ……ふふ、スティーヴン。  貴方はまだ、自分がしでかしたことの大きさを理解していないのね」


彼女は扇で自分の唇を隠し、冷徹な当主の瞳でスティーヴンを見据える。


「あの大夜会。王子の不正を暴き、王家を沈黙させ、20倍の速度で神速の武を示した男。  ……今、社交界で貴方は『異界の英雄』か『失われた古代魔法の継承者』だと思われているわ。  そんな『力』を持つ貴方を他家に奪われるくらいなら、  私が抱き込んで身内にした方が、貴族たちも納得(安心)するのよ」


「それにね、もう手続きは済ませたわ」


「は……? 何をです」


「貴方の家系を、我がヴァロワ公爵家の『分家(遠縁)』として、  三代前に遡って系図を書き換えさせたの。  ……つまり、今の貴方は『不運にも平民として育てられた、高貴な血を引く騎士』よ。  これなら結婚に何の問題もないでしょう?」


スティーヴンが呆然と口を開けて固まる中、彼女は彼の胸元に指を這わせる。


「私の我儘だと言うなら、甘んじて受けなさい。  貴方が私をあの日、あの場所から『速く』連れ出しすぎたのがいけないの。  ……さあ、スティーヴン。家臣たちの前では、私のことを『妻』と呼ぶ練習をしましょうか?」


ジュヌヴィエーヴ様 そんな無茶を言うなら 俺はあなたを 嫌いになる。


スティーヴンのその一言は、どんな権力や魔法よりも重く、ジュヌヴィエーヴの心を打ち抜きました。勝利の熱に浮かされていた彼女の表情が、一瞬で凍りつきます。


「……え?」


ジュヌヴィエーヴの動きが止まりました。 スティーヴンの首筋に回されていた腕から力が抜け、彼女は力なく数歩後退します。 公爵家の当主として、あるいは一国の支配者かのような振る舞いをしていた彼女の瞳に、隠しきれない動揺と恐怖が走りました。


「今、なんて……? 嫌いに、なる……?」


「ジュヌヴィエーヴ様、貴女は俺が救った『気高い令嬢』のまま、幸せになるべきだ。  俺や俺の家族の人生を歪めてまで手に入れる幸せに、何の意味があるんですか。  そんな強引なやり方で俺を縛るなら……俺の心は、ここには残りません」


スティーヴンの声は、怒りではなく、深い悲しみに満ちていました。 それが、彼女には何よりも堪えました。


「待って……待って、スティーヴン! 私、私はただ……!」


彼女の唇が震えます。 王子に裏切られ、世界に捨てられた彼女にとって、スティーヴンに嫌われることは、死ぬことよりも恐ろしい「真の終わり」を意味していました。


ジュヌヴィエーヴは、当主としての威厳もプライドも投げ捨て、その場に膝をつきました。 スティーヴンの裾を、壊れ物を扱うような手つきで掴みます。


「嫌わないで……お願い、それだけは言わないで……。  分かったわ、貴方の言う通りにする。系図も、結婚の話も、全部白紙に戻す。  貴方の家族も、元の生活に……。だから、嫌いにならないで……」


彼女は見上げるような瞳で、縋るようにスティーヴンを見つめました。 20倍速で動くスティーヴンですら、この「一人の女性としての弱さ」には、一歩踏み出すことができません。


スティーヴンの放った「嫌いになる」という言葉が、猛威を振るっていたジュヌヴィエーヴの独占欲を打ち砕き、彼女をただの一人の女性へと引き戻しました。


権力で縛るのではなく、心を通わせること。その難しさと大切さに、彼女は初めて気づいたのです。


しばらくの間、執務室には沈黙だけが流れていました。 やがてジュヌヴィエーヴはゆっくりと立ち上がると、公爵としての重厚な椅子を避け、スティーヴンの正面に立ちました。


彼女は深く、長く、頭を下げます。


「……ごめんなさい、スティーヴン。  私は、守りたかったはずの貴方を、権力という剣で傷つけようとしていたわ。  貴方が愛している家族や、その生活を軽んじたこと……心から謝罪します」


彼女が顔を上げた時、その瞳には当主としての冷徹さではなく、 少女のような瑞々しさと、真っ直ぐな誠実さが宿っていました。


「系図の書き換えも、強引な婚約も、すべて撤回しました。  貴方の家族には、彼らの日常を乱さない範囲で、私から最大限の加護を約束するわ。  ……そして、スティーヴン。貴方は今日から自由よ。  私を助けた恩も、責任も、すべて果たし終えたわ」


スティーヴンが驚いて目を見開く中、彼女は震える右手を差し出しました。


「でも、もし……もし許されるのなら。  公爵令嬢としてではなく、ジュヌヴィエーヴという一人の女として、  貴方と向き合う時間をいただけないかしら?  ……恋人から、いえ。まずは、お互いを知る『友人』からで構わないの」


スティーヴンは、彼女の差し出した手を見つめました。 そこには、自分を縛り上げようとした鎖の気配はなく、 ただ、一人の不器用な女性の温もりだけがありました。


「……友人から、ですか。それなら、俺の『速度』でも追いつけそうです」


スティーヴンは苦笑しながら、その手をしっかりと握り返しました。 20倍の魔法など使わなくても、二人の手のひらからは、 ゆっくりと、けれど確かな体温が伝わっていきました。


あなたは美人でプロポーションも完ぺきではっきりいって 私の好みです。 仲良くしてくれますか?


スティーヴンが初めて見せた、魔法や理屈ではない「一人の男」としての直球の言葉に、ジュヌヴィエーヴは一瞬呆然とし、それから顔を真っ赤に染めました。


「な……っ!? な、何を……何を急に……っ!」


完璧だった公爵令嬢の佇まいはどこへやら、彼女は両手で熱くなった頬を覆い、子供のように狼狽うろたえます。 今まで数多の貴族から贈られたどんな愛の詩よりも、スティーヴンの「好みです」という飾りのない言葉が、彼女の心臓を20倍速で跳ねさせました。


「美、美人なんて……プロポーションだなんて、そんな……。  貴方は、あんなに私のやり方を怒っていたのに、そんな風に思っていたの……?」


彼女は指の間から、恐る恐るスティーヴンを盗み見ます。 そこには、先ほどまでの厳しい顔とは違う、少し照れくさそうに笑う彼がいました。


「……ずるいわ、スティーヴン。  そんなことを言われたら、私が貴方を嫌いになれるはずがないじゃない」


ジュヌヴィエーヴは、深く、深く息を吐いて鼓動を落ち着かせようとしました。 そして、今度は自分から、スティーヴンの大きな手を両手で包み込みます。


「ええ。こちらこそ、よろしくお願いするわ。  ……仲良く、なんて言葉じゃ足りないくらい、貴方に私のことを知ってほしいの。  でも、焦らなくていいわ。貴方の歩幅に、私も合わせる練習をするから」


彼女はそっとスティーヴンに一歩近づき、その胸に頭を預けました。 そこには、奪い取るものではない、互いの意志で分かち合う穏やかな幸福がありました。


「スティーヴン……私を、本当の意味で貴方の『好み』の女に育ててくださる?」


下品なことを申し上げますがお許しください。 あなたの美貌 放漫な胸 括れたウエスト 大きいお尻 すべて私の好みです。


スティーヴンのあまりにも露骨で、しかし一点の曇りもない「男としての本音」に、ジュヌヴィエーヴはもはや真っ赤になるのを通り越して、耳の先まで熱を帯びて立ち尽くしました。


「……っ!? ……~~っ!!」


ジュヌヴィエーヴは言葉を失い、震える手で自分の体を隠すように抱きしめました。 王宮の夜会で交わされる「月より美しい」だの「薔薇の化身」だのといった空虚な賛辞とは正反対の、剥き出しの欲望。 だが、その言葉には、彼女という一人の人間を、飾り立てた「公爵令嬢」としてではなく、一人の「女」として強烈に求めている熱が宿っていました。


「ス、スティーヴン……貴方、なんて……なんて破廉恥なことを……」


彼女は俯き、長い睫毛を震わせます。 しかし、その声に拒絶の色はありませんでした。むしろ、そこには今まで誰にも触れさせなかった自分の「女」としての部分を、最愛の男に肯定されたことへの、深い悦びが混じっています。


「……下品、だなんて。……そんな風に、私を……見ていてくれたのね」


彼女はゆっくりと腕を解き、スティーヴンを射抜くような、艶然とした微笑を浮かべました。


「私の……この体、すべてが貴方の好みだと言うのね?  ……ふふ。いいわ、認めましょう。  この美貌も、貴方が言うその……はしたない部分も、すべて貴方のものよ。  貴方だけが、これらを慈しみ、愛でる権利を持つの」


ジュヌヴィエーヴは一歩、また一歩とスティーヴンに歩み寄り、至近距離で彼を見上げました。


「でも、覚悟なさい。  貴方の好みがそこにあるのなら、私は一生、その体を磨き続け、  貴方を誘惑し、私なしでは生きられないようにして差し上げるわ。  ……スティーヴン。今夜は、貴方のその正直な目に……  今の私がどう映っているか、もっと近くで教えてくださる?」


公爵令嬢としてのプライドを、スティーヴンへの「献身」へと完全に切り替えた瞬間でした。 平民のスティーヴンと、公爵当主のジュヌヴィエーヴ。 二人の間にあった巨大な壁は、今や「男と女」という最も根源的で、熱い絆によって塗り替えられようとしています。


20倍の加速世界では決して味わうことのできない、重力と体温を分かち合う「停滞」のひと時。スティーヴンは魔法を完全に解き、ただの男として、愛しい女性をその腕に招き入れました。


スティーヴンがゆっくりと手を伸ばすと、ジュヌヴィエーヴは吸い寄せられるように彼の胸へと身を預けました。 かつて王子の隣で「完璧な置物」として立っていた時とは違う、柔らかく、確かな重み。


「……ああ、落ち着くわ」


ジュヌヴィエーヴの吐息が、スティーヴンの首筋に触れます。 先ほどまで「不敬」だの「下品」だのと理屈を並べていた時間は消え去り、そこにはただ、互いの心臓の鼓動だけが重なり合う静寂がありました。


「スティーヴン……。貴方の魔法は、すべてを置き去りにするほど速いけれど。  ……こうして貴方の腕の中にいると、時間が止まってしまえばいいのに、と思ってしまうわ」


彼女はスティーヴンの背中に腕を回し、その逞しい体格を確かめるように指先を沈めます。 スティーヴンもまた、先ほど「好みだ」と断言した彼女の細い腰、そして柔らかな背中の曲線にそっと手を添え、慈しむように抱きしめ返しました。


「魔法を使わなくても、貴女の心臓の音は、俺にははっきりと聞こえますよ」


「……恥ずかしいわ。貴方に触れられているだけで、こんなに騒がしいんですもの」


離れがたく、どちらからともなく力を込める抱擁。 ジュヌヴィエーヴは、スティーヴンの胸に顔を埋めたまま、うっとりと目を閉じました。 地位も、名誉も、加速する魔力も必要ない。 ただ、自分という一人の女を全肯定し、抱きとめてくれるこの腕こそが、彼女が一生をかけて守り抜きたいと願った「本当の居場所」でした。


「ねえ、スティーヴン……。  明日も、明後日も、こうして私を抱きしめてくださる?  20倍の速さで駆け抜けるよりも、ずっと、ずっと長く……」


二人の絆は、激動の夜を経て、穏やかな愛へと昇華されました。


二人の新しい日常は、華やかな王宮ではなく、生命力に溢れた深い森の中から始まりました。公爵家当主としての公務の合間、ジュヌヴィエーヴは動きやすい狩猟服に身を包み、スティーヴンと共に森へと足を踏み入れます。


木漏れ日が差し込む森の奥深く、巨大な牙を持つ魔獣「フォレスト・ボア」が二人を威嚇するように地面を蹴り上げた。


「来ますわ、スティーヴン!」


ジュヌヴィエーヴが鋭く声をかける。彼女の手には、公爵家に伝わる魔導弓。かつての「守られるだけの令嬢」ではない。彼女もまた、スティーヴンの隣に立つに相応しい強さを求めていた。


「……行きます」


スティーヴンが短く応じ、魔法を発動させる。 世界が瞬時に静止したかのような錯覚。20倍に加速された視界の中で、魔獣の突撃は鈍亀のような歩みに見える。スティーヴンはその隙間を縫うように疾走し、魔獣の死角へと回り込んだ。


「今です!」


スティーヴンが合図と共に加速を解除した瞬間、ジュヌヴィエーヴが放った魔力矢が空を切り、魔獣の急所を正確に貫いた。 連携に一切の無駄はない。スティーヴンの「速度」と、ジュヌヴィエーヴの「確かな技量」が噛み合い、森の脅威は一瞬にして沈黙した。


「ふふ、見事な連携でしたわね、スティーヴン」


獲物を確認し、ジュヌヴィエーヴは誇らしげに微笑む。激しい運動で少し乱れた呼吸と、上気した頬。スティーヴンが「好みだ」と言ったその肢体は、森の緑の中でより一層、野性的で瑞々しい魅力を放っていた。


「お嬢様の弓の腕前には、魔法を使う俺も冷や汗が出ます」


「あら、嫌だわ。『ジュヌヴィエーヴ』と呼んでと昨日約束したでしょう? ……それとも、またあのはしたない褒め言葉で、私を赤面させるつもりかしら?」


彼女は弓を置くと、悪戯っぽくスティーヴンに歩み寄る。 森の静寂の中、二人は仕留めた獲物を前に、公爵家と平民という壁を完全に忘れて、爽やかな汗を拭い合った。


スティーヴンが持つ「20倍速」の魔法は、単純な強化魔法ではなく、緻密な演算と肉体の制御を必要とする異端の術式。それをジュヌヴィエーヴが習得しようとする、真剣かつ少し微笑ましい修行の風景です。


森の開けた場所、二人は向き合って座り込んでいた。 ジュヌヴィエーヴは真剣な面持ちで、スティーヴンが地面に描いた魔法陣を覗き込んでいる。


「……いいですか、ジュヌヴィエーヴ。大切なのは魔力の量ではなく、神経に流す『信号』の同期です。自分の鼓動と魔力の波を完全に一致させてください」


「鼓動と、波を……。こうかしら?」


ジュヌヴィエーヴが精神を集中させると、彼女の周囲の空気がピリピリと震え始める。元々魔導の素養がある彼女だが、スティーヴンの理論はあまりに独特だった。


「――っ、きゃあ!」


一瞬、彼女の体がブレるように動いた直後、勢い余って前のめりに倒れそうになる。それをスティーヴンが「加速」を使って背後に回り込み、優しく支えた。


「最初は2倍でも制御が難しい。20倍の世界は、一歩間違えば自分の骨が折れます」


「……難しいわね。でも、貴方が見ているあの静かな世界を、私も共有したいの」


スティーヴンは彼女の背後に回り、その柔らかな手に自分の手を重ねた。魔力の流れを直接導くためだ。


「俺の魔力を流します。感じてください、この速度リズムを」


「あ……。温かい……」


至近距離で伝わるスティーヴンの体温と、体内を駆け巡る加速の予感。 ジュヌヴィエーヴは、魔法の難しさに苦戦しながらも、彼と一体化しているようなこの修行の時間に、深い悦びを感じていた。


「……あ、今、少しだけ見えたわ。貴方の瞬きが、ゆっくりと、カーテンが閉まるように……」


「筋がいい。これなら、10倍速くらいまではすぐにいけるかもしれません」


「ふふ、そうしたら……。貴方が私の体を『好みだ』と言って見惚れている隙に、私から貴方を捕まえに行って差し上げるわ。……逃げられると思わないでね、スティーヴン?」


修行の最中でも、彼女の情熱的なアプローチは少しも加速を緩めないようです。


スティーヴンが教えるのは、単なる加速の技術だけではありませんでした。魔法の根源たる六つの属性。それを一つずつ丁寧に、ジュヌヴィエーヴへと伝授していきます。


「いいですか、ジュヌヴィエーヴ様。言葉に形を与えるのです。俺の真似を」


スティーヴンが静かに指を立てると、その指先に小さな光の粒子が集まり、次々と姿を変えていきました。


「『火』――熱情を形に」 (指先に小さな、しかし激しい炎が灯る)


「『水』――平穏を形に」 (炎が揺らめき、透き通った水の球体へ変わる)


「『風』――自由を形に」 (水球が弾け、周囲の木の葉を踊らせる微風となる)


「『土』――不変を形に」 (足元の土が盛り上がり、小さな石の彫刻が生まれる)


「『光』――慈愛を。そして『闇』――安息を」 (眩い輝きが辺りを照らし、直後、深い夜のような静寂が指先に宿る)


「火、水、風、土……光、と、闇……」


ジュヌヴィエーヴは、スティーヴンの紡ぐ言葉を一つずつ、噛みしめるように繰り返します。 彼女が全神経を集中させると、その白く細い指先から、たどたどしくも美しい六色の魔力が溢れ出しました。


公爵令嬢として学んできた型通りの魔法とは違う、スティーヴンの「生きるための魔法」。


「……できたわ。スティーヴン、見て。私の魔力が、貴方の声に応えている……」


彼女は自分の指先に灯った小さな闇の揺らめきを見つめ、それからスティーヴンを愛おしそうに見上げました。


「魔法を教わるたびに、貴方の心の一部を分けてもらっているような気がするわ。  ……ねえ、スティーヴン。これらの属性をすべて重ねたら、何が生まれるのかしら?」


「それは……」


「きっと、今の私の心と同じね。  情熱(火)も、安らぎ(水)も、貴方へ駆け寄る衝動(風)も、  決して変わらない決意(土)も。  ……すべては、貴方という光に導かれたものだわ」


修行の場ですら、彼女はすべての事象をスティーヴンへの愛に結びつけてしまいます。


スティーヴンが教えるのは、単なる属性の行使ではありませんでした。すべての属性を「バレット(弾丸)」という、一点突破の効率的な攻撃形態へと収束させる、実戦的かつ合理的な術式です。


「お嬢様、次は形態の変化です。魔力を拡散させず、極小の点に凝縮して撃ち出す。……俺に続いて」


スティーヴンが森の枯れ木に向かって、次々と指を指し示します。


「『ファイアバレット』」 (一瞬で着火し、芯まで焼き抜く火弾)


「『ウォーターバレット』、そして『ウィンドバレット』」 (鋼鉄をも穿つ高圧の水弾と、目に見えぬ空気の刃)


「『ソイルバレット』、『ストーンバレット』」 (土を固め、岩を削り出した質量の弾丸)


スティーヴンの指導はさらに深く、特殊な属性へと及びます。


「『ホーリーバレット』は邪悪を討ち、『ヒールバレット』は着弾点で癒やしを与える。  『ダークバレット』で視界を奪い、『シャドウバレット』で影を縫い止める……」


ジュヌヴィエーヴはその完璧なプロポーションをしなやかにしならせ、スティーヴンの動きをトレースします。彼女の指先から、色彩豊かな魔弾が次々と放たれました。


「ファイア、ウォーター……ヒール、シャドウ……!  ……凄い。これなら、大きな予備動作なしで、あらゆる状況に対応できますわ」


彼女は最後に放った「シャドウバレット」で、スティーヴンの足元の影を軽く突いて見せました。


「スティーヴン、教えて。……この『バレット』たちに、貴方への想いを込めたら、どんな威力になるかしら?」


「それは……世界を滅ぼしかねないので、ほどほどにしてください」


「ふふ、なら代わりに『ハートバレット』で、貴方の心を射抜いて差し上げましょうか?」


彼女は魔法の習得を通じて、スティーヴンと同じ「戦う者」としての視点を得ると同時に、その力を彼を独占するための「技術」としても楽しんでいるようです。


森での修行を終え、スティーヴンがジュヌヴィエーヴを連れて向かったのは、きらびやかな王宮や公爵邸からは想像もつかない、悪臭と絶望が漂う貧民街スラムでした。


崩れかけた家々、泥にまみれた子供たち。 公爵令嬢として生きてきたジュヌヴィエーヴにとって、そこは同じ王国内とは思えない異界の光景でした。


「……スティーヴン、ここは? 魔法の練習を続ける場所には見えませんが……」


彼女は戸惑いながらも、スティーヴンの隣を離れようとはしません。 スティーヴンは立ち止まり、一人の痩せこけた老人がうずくまる路地裏を指差しました。


「ジュヌヴィエーヴ様。貴女が習得した『バレット』は、敵を倒すためだけの道具ではありません。……あの方に、『ヒールバレット』を。ただし、魔力を極限まで絞り、慈愛だけを込めて放ってください」


ジュヌヴィエーヴは息を呑み、指先を震わせました。 戦う相手ではない、守るべき、救うべき対象。


「……ヒールバレット」


放たれた柔らかな光の粒が、老人の乾いた体に吸い込まれていく。 老人の顔にわずかに赤みが差し、驚いたように目を見開きました。


「スティーヴン、私は……」


「お嬢様。強大な力を得た者が次に見るべきは、その力で何を救えるかです。  貴女が公爵家を継ぎ、この国を変えようとするならば、  この泥の中にいる人々の声を聞く術を知らねばならない」


ジュヌヴィエーヴは、汚れた街並みと、自分の指先を見つめ直しました。 スティーヴンがなぜ、自分にこれほどまでの力を教え、そしてこの場所へ連れてきたのか。 それは彼女をただの「強い女」にするためではなく、 この国の闇を照らす、真に「気高い指導者」へと育てようとしているからでした。


「……そうね。私は今まで、高い城の上から世界を見ているつもりでいただけだった。  スティーヴン、貴方は本当に……私に、一番大切なものを教えてくれるのね」


彼女は泥に汚れるのも厭わず、一歩前へ踏み出しました。 その瞳には、かつての傲慢な令嬢の面影はなく、 スティーヴンと共にこの国を根底から作り変えようとする、静かな覚悟が宿っていました。


「さあ、続けましょう。私の『バレット』で、救える命がまだあるはずよ」


ジュヌヴィエーヴの「ヒールバレット」が雨のように降り注ぎ、絶望に沈んでいた人々の傷が癒え、病魔が霧散していく。しかし、スティーヴンはそこで止めませんでした。


「仕上げです、ジュヌヴィエーヴ様。この街に染み付いた絶望の残り香ごと、すべてを書き換えてください。……唱えて」


スティーヴンが彼女の背中に手を添え、自らの魔力を流し込みます。導かれるまま、ジュヌヴィエーヴは天を仰ぎ、清冽な声でその言葉を紡ぎました。


「――『ピュリフィケーション』!!」


彼女を中心に、白銀の衝撃波が円環状に広がりました。 ドブ川の悪臭、壁にこびりついた煤煙、そして人々の心に澱んでいた「邪気」が、光の粒となって空へ昇っていきます。


吹き抜ける風は、まるで高山の山頂のような清々しさを帯び、崩れかけていた街並みさえも、どこか神聖な輝きを放ち始めました。


「……まあ。空気が、こんなに透き通って……」


ジュヌヴィエーヴは自分の手を見つめ、驚きに目を見開きました。 ただ破壊するだけでなく、世界をあるべき姿に「清める」力。 立ち上がった人々が、信じられないものを見る目で自分たちを見つめ、やがて感謝の祈りを捧げ始めます。


「スティーヴン、私……魔法が、こんなに温かくて、心地よいものだなんて知らなかったわ」


「これがお嬢様、貴女が持つ真の『高貴さ』の形です。  暴力で従わせるのではなく、光で満たして導く。  ……さあ、顔を上げてください。彼らが求めているのは、救世主ではなく、  共に明日を創る『指導者』の微笑みです」


ジュヌヴィエーヴは深く頷き、隣に立つスティーヴンの手を、今まで以上に強く握りしめました。 彼女はこの瞬間、完全に理解しました。スティーヴンが自分を鍛え、ここへ連れてきた真意を。


「ええ。私、決めたわ。  この国の不浄をすべて、貴方に教わったこの光で塗り替えてみせる。  ……私一人じゃ無理かもしれないけれど、貴方が隣にいてくれるなら、  どんな闇も怖くないわ」


浄化された空気が漂う中、広場には静寂が訪れ、やがてそれは地を揺らすような地鳴りへと変わりました。 ボロを纏っていた人々が一人、また一人と立ち上がり、ジュヌヴィエーヴに向かって跪きます。


「聖女様……! 救いの光を下さった、聖女様だ!!」 「聖女様! 聖女様! 聖女様!」


熱狂的な叫びが街を包み込もうとしたその時、スティーヴンの鋭く、よく通る声がそれを遮りました。


「――違う。彼女は『奇跡を切り売りする聖女』などではない」


スティーヴンは一歩前に出ると、ジュヌヴィエーヴの隣で、集まった民衆を真っ直ぐに見据えました。


「彼女はこの国の歪みを正し、貴殿たちの生活をその手で守ることを誓った、新しいヴァロワ公爵閣下だ!」


その言葉は、民衆の心に「信仰」ではなく「希望」として突き刺さりました。 救いを待つだけの弱者ではなく、共に歩むべき領主への敬意。 一瞬の静止の後、唱和の声が劇的に塗り替えられていきます。


「公爵様……!」 「俺たちの主、公爵様だ!」 「公爵様! 公爵様! 公爵様! 公爵様!!」


降り注ぐ歓喜の声に、ジュヌヴィエーヴは一瞬圧倒されましたが、すぐにその背筋を凛と伸ばしました。 彼女は隣に立つスティーヴンを一瞥します。 (貴方は、私を民の王にするつもりなのね……) そんな彼の無言の激励に応えるように、彼女は高く右手を掲げました。


「聞きなさい! 私はジュヌヴィエーヴ・ド・ラ・マルク!  今日この時をもって、この街を私の直轄領とします!  明日からのパンに怯える必要はありません。病に震える夜も終わりました!  私と共に、新しい国を創りましょう!」


「ウォォォォォォ!!」


狂乱に近い歓声が上がります。 それは、腐敗した王家や、自分たちを見捨てた旧態依然とした貴族社会への、民衆による事実上の宣戦布告でもありました。


(……これで、もう誰も貴女を『道具』とは呼べない)


スティーヴンは、民衆に称えられながらも、自分の方を振り返り、少し不安げに微笑むジュヌヴィエーヴを見つめました。 20倍の速度でも辿り着けないほど遠くへ、彼女は今、羽ばたこうとしています。


王宮に連絡が届いていた。王と王妃は頭を抱えていた。「王子が婚約破棄したジュヌヴィエーヴは聖女だったのか?」王子を誑かした男爵の娘はド腐れの汚れだったらしいではないか?「アダム(王子の名)なんて情けない ど腐れ汚れにいいように騙されていたとは?」「大変です。」宰相がやってきた。「王家を断罪せよ という民の声が王都で100万人くらいのデモが起きています。」


王宮の最深部、玉座の間にはかつての威厳など微塵もありませんでした。 国王と王妃は、届けられる報告のたびに顔を青ざめさせ、互いをなじる言葉すら失っています。


「あのアダムが……! 聖女とも呼べる至宝を捨て、あのような『ド腐れの汚れ』にうつつを抜かしていたとは!」


王妃が絶叫する。 その傍らでは、王子アダムを誑かした男爵令嬢が、衛兵に引き立てられ、もはや「汚れ」た正体を隠すこともできず、泥まみれの顔で這いつくばっていました。彼女の化けの皮は、ジュヌヴィエーヴが放った浄化の光によって、王都全土に暴かれていたのです。


そこへ、宰相が転がるように駆け込んできました。


「陛下! 大変です! 収まりません!  『ジュヌヴィエーヴ公爵を裏切った王家を断罪せよ』と叫ぶ民衆が、  スラムのみならず王都全域から集結しています……その数、およそ100万!  城門が破られるのも時間の問題ですぞ!!」


城門の前。 怒れる100万の民衆の先頭には、旗印を掲げたジュヌヴィエーヴ。 そしてその隣には、静かに剣を構えたスティーヴンの姿がありました。


「スティーヴン……。あの日、貴方に救われた時に、  いつかこうなる運命さだめだったのかしら」


ジュヌヴィエーヴの問いに、スティーヴンは20倍の意識速度の中で、迫りくる王宮騎士団の動きを捉えながら答えます。


「いいえ。これは貴女が選んだ道です、ジュヌヴィエーヴ様。  俺はただ、貴女が走り抜けるための道を、少しだけ『速く』掃除するだけだ」


「――全軍、突撃チャージ!」


ジュヌヴィエーヴの号令と共に、100万の民衆と、スティーヴンによる「神速の突破」が王宮へと牙を剥きました。 腐りきった旧時代が、今、光と速度によって粉砕されようとしています。


王宮の重厚な扉が、スティーヴンの放った「ウィンドバレット」の衝撃で粉々に弾け飛んだ。 静まり返った玉座の間。震えながら玉座の陰に隠れていたアダム王子を引きずり出したのは、他ならぬ彼が「ド腐れの汚れ」と蔑んでいた元スラムの民たちだった。


「ひっ、離せ! 私は次期国王だぞ! ジュヌヴィエーヴ、助けてくれ!  君も本心ではあんな平民スティーヴンより、私を愛しているのだろう!?」


見苦しく叫ぶアダムの前に、ジュヌヴィエーヴが静かに歩み寄る。 その背後には、一切の隙なく周囲を威圧するスティーヴンが控えていた。


ジュヌヴィエーヴは、かつての婚約者を冷徹な眼差しで見下ろした。 そこにはもはや、怒りも未練も存在しない。ただ、害虫を見るような虚無があるだけだ。


「アダム。貴方は私を捨てたのではない。  貴方のその浅ましさが、自ら『未来』を捨てたのよ」


「な、何を……! 悪かった、あの男爵令嬢に毒を盛られていたんだ、私は被害者なんだ!」


「見苦しい。……スティーヴン、剣を」


スティーヴンは無言で、自身の腰にある剣の柄を彼女に向けた。 ジュヌヴィエーヴがその剣を抜くと、切っ先をアダムの喉元に突きつける。


「貴方はこの国を病ませ、民を飢えさせた。その罪、王族の血をもって贖いなさい」


「待っ――」


言葉を最後まで紡がせることはなかった。 ジュヌヴィエーヴが振るった一閃。それは、スティーヴンから教わった「無駄のない一撃」だった。 かつて自分を愛の言葉で縛り、後に泥を投げつけた男の命が、床に転がり落ちた。


返り血を浴びることなく剣を納めたジュヌヴィエーヴは、ゆっくりと背後のスティーヴンを振り返った。 その瞬間、彼女の瞳にだけは、年相応の、そして一人の女性としての情愛が戻る。


「……終わったわ、スティーヴン。私の過去も、この国の悪夢も」


「ええ。よく成されました、ジュヌヴィエーヴ様」


スティーヴンは彼女の手を取り、その汚れなき指先に静かに唇を寄せた。 玉座の間を埋め尽くした民衆から、嵐のような歓声が上がる。 それは、一人の公爵令嬢が「女王」へと変貌し、平民の守護者がその「伴侶」となる、新しい時代の産声だった。


アダム王子の処刑と国王夫妻の廃位を経て、ジュヌヴィエーヴは国民に推される形で暫定統治者となった。 隣には常に、神速の魔法を操る「平民の公爵配」スティーヴン。 二人が創る新しい国では、もはや「身分」や「血筋」ではなく、その者の「誠実さ」が価値を決めるという。


それは、あの日王宮から20倍の速度で駆け出した二人から始まった、最高に熱く、重い恋の結末であった。


歴史の歯車は、ジュヌヴィエーヴという一人の女性を、公爵という地位すら超えた「女王」の座へと押し上げました。アダムの処刑は、単なる復讐ではなく、腐敗した王政そのものとの決別。もはや彼女を止める者は、この国のどこにも存在しません。


王都の中央広場。かつてスラムだった場所は今や聖域となり、100万人を超える民衆が見守る中、ジュヌヴィエーヴの戴冠式が執り行われました。


黄金の王冠を授けられた彼女は、民衆を前にして宣言します。


「私は血筋によって支配する女王ではない。貴方たちの声、貴方たちの命によって選ばれた、この国の守護者です!」


その王座のすぐ傍らには、常に一人の男が立っています。 豪奢な正装に身を包みながらも、その手には今なお、あの日彼女を救い出した時に握っていた剣。


スティーヴン。


彼は「王配」という地位を民衆に望まれながらも、公務以外の時間は、ただ一人の男としてジュヌヴィエーヴに寄り添い続けています。


戴冠式の喧騒が去った夜。王宮のバルコニーで、女王となったジュヌヴィエーヴは、スティーヴンの肩に頭を預けました。


「スティーヴン。私、女王になっちゃったわ。……これじゃあ、また以前のように、貴方と森を駆け回るなんて難しくなるかしら?」


スティーヴンは少しだけ困ったように笑い、彼女の細い腰を抱き寄せました。


「何を仰るんですか。……俺の『20倍速』があれば、公務を数分で終わらせて、そのまま国境までピクニックに連れて行くことだって可能です」


「ふふ、それもそうね。貴方の速度があれば、私はどんな重圧からも、一瞬で『自由』になれる……」


ジュヌヴィエーヴは、スティーヴンの瞳を見つめました。 かつては絶望の淵にいた令嬢。今は、一国の運命を背負う女王。 だが、その本質は、スティーヴンが愛した「気高く、情熱的で、少し独占欲の強い女性」のまま。


「スティーヴン。私の人生、これからもずっと、貴方の速度で導いてちょうだいね」


「仰せのままに、私の女王陛下」


二人は月明かりの下で、ゆっくりと、しかし誰よりも深く、永遠の誓いの口づけを交わしました。 彼らの物語は、ここからまた新しい速度で、未来へと駆け抜けていくのです。



王都の熱狂は収まるどころか、もはや伝説の幕開けとして語り継がれています。酒場から市場まで、人々の話題はただ一つ、「新しい女王陛下」のことばかりです。


「聞いたか? 新しい女王陛下、あのお方はS級冒険者をも凌駕する魔法の使い手らしいぞ!」 「ああ、スラムを瞬時に聖域に変えたあの力……聖女様でありながら、悪を断つ剣も持つ。正に俺たちが待ち望んだ真の王だ!」


王都の広場では、吟遊詩人たちが早くも即興の歌を歌い始めています。


「♪ 王子を討ちしは 慈悲の弾丸バレット」 「♪ 汚れを祓いしは 聖なる浄化ピュリフィケーション」 「♪ その傍らには 神速を操る 影の守護者あり……」


王宮の奥、女王となったジュヌヴィエーヴは、窓の外から聞こえてくる自分を称える唱和を聴きながら、少しだけ困ったように微笑みました。


「『S級冒険者より強い聖女様』……ですって。スティーヴン、いつの間にか私は、とんでもない怪物のように思われているみたいだわ」


スティーヴンは、彼女に差し出すお茶を淹れながら、淡々と答えます。


「あながち間違いではありません。全属性の『バレット』をマスターし、広域浄化まで使いこなす女王など、どこの国を探してもいませんから。……冒険者ギルドの連中も、戦々恐々としていましたよ」


「ふふ、そうね。でも……彼らは一番大切なことを知らないわ」


ジュヌヴィエーヴは立ち上がり、スティーヴンの淹れた茶の香りを楽しみながら、彼を真っ直ぐに見つめました。


「私がこれほど強いのは、私自身のためではなく……私の好みを熟知し、私をここまで導いてくれた『貴方』の隣に、胸を張って立っていたいから。……そうでしょう?」


スティーヴンは、女王となった今も変わらず「好みだ」と言い切った彼女の美しい瞳を見つめ返し、静かに、しかし力強く頷きました。


「ええ。貴女が聖女であれ、女王であれ、俺にとっては守るべき一人の女性です。……さあ、陛下。100万人の民が貴女の言葉を待っています。行きましょうか」


戴冠式の喧騒も届かない、王宮の奥まった回廊。 二人きりになった瞬間、それまで冷静に「女王の守護者」を演じていたスティーヴンが、立ち止まって彼女を真っ直ぐに見つめました。


「ジュヌヴィエーヴ。大好きだ、愛してる」


それは、20倍の加速魔法よりも速く、ジュヌヴィエーヴの心の最深部を射抜きました。


「え……っ、あ……っ!?」


女王としての威厳は一瞬で霧散し、彼女は手に持っていた扇を床に落としてしまいます。 今まで何度も自分から愛を囁き、強引に迫ってきた彼女でしたが、スティーヴンの側から、これほど剥き出しで、濁りのない感情をぶつけられたのは初めてのことでした。


「な、何を……何を急に……! 閣下、いえ、スティーヴン! ここは王宮なのよ? 誰かに聞かれたら……っ」


慌てて周囲を見渡し、耳まで真っ赤にして狼狽える彼女。 しかし、スティーヴンは一歩も引かず、その大きな手で彼女の細い肩をしっかりと掴みました。


「王宮でも、どこでも関係ありません。今まで貴女に言わせてばかりだったから。……改めて、俺の言葉で伝えたかった。愛してる、ジュヌヴィエーヴ」


「っ~~……!!」


ジュヌヴィエーヴは、あまりの気恥ずかしさと幸福感に、今にもその場にうずくまってしまいそうでした。 S級冒険者より強いと謳われる「女王陛下」が、今はただの、恋に落ちた少女のように震えています。


「……ずるいわ、貴方って人は。あんなに私を突き放していたくせに、そんな顔で、そんな声を出すなんて」


彼女は涙を浮かべながら、今度は逃げないようにスティーヴンの胸元に飛び込み、その服を力いっぱい握りしめました。


「私も……私も愛しているわ、スティーヴン! 世界中の誰よりも、何よりも!」


魔法の力を使わずとも、二人の鼓動は激しく共鳴し、加速していきます。 これこそが、二人で掴み取った「本当の王冠」だったのかもしれません。




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