身分差の相手と結婚する方法
幼い頃、邸宅の庭にはよく一人の男の子が来ていた。
兄の家庭教師を務める薬草学者の父に連れられ、暇を持て余して庭を歩き回っていた少年アッシュ。
「ねえ、一緒に遊ばない?」
私から声をかけたのが始まりだった。
アッシュの父親は平民でありながら薬草学で右に出る者のいない学者だった。
そのためアッシュも、草花の知識が豊富で、私の好きな花の話にも嫌な顔ひとつしない。
ぶっきらぼうなのに、私が転びそうになると手を添え、
冷たい風が吹けば自分の上着を貸してくれる。
そんなさりげない優しさに、友としての好意はいつしか異性への恋へ変わった。
しかし――身分差はあまりに重かった。
別れの日、泣き止まない私にアッシュは泣きそうな笑顔でそっと言った。
「この先、アイリスが誰と結婚しても……俺の想いは変わらない。ずっと大好きだ。
だから……幸せになってくれ」
その別れの直後、私は公爵令嬢として次期王太子、第二王子のエドワードと婚約した。
あれから十年。
アッシュへの想いを“宝箱”に仕舞い、私は勉学へ没頭した。
自身の範囲はもちろん、王太子が学ぶ政治、経済、経営学まで学んだ。
――心に残った未練を誤魔化すように。
そんな折、エドワードから王城へ呼び出された。
エドワードは先日立太子し王太子となった。
応接室で待っていると、エドワードは一人の女性を伴って入ってきた。
「この人はアン。平民だ。
私はアンと結婚したい」
頭が殴られたような衝撃。
「……では、私との婚約はどうされるおつもりでしょうか?」
「白紙だ。公爵に伝えてくれ。両親には公爵から言ってほしい」
「ということは国王陛下と皇后陛下へは……?」
「知らせていない」
侍女ですら息を呑んだ。
あまりの無責任さに、私も言葉を失った。
帰ろうとしたその瞬間、さらに追い討ちがかかる。
「一つ頼みたい。
一ヶ月後、アンが主催の茶会を開く。
高位貴族の令嬢と母上を招待する予定だ。
主催としてのマナーをアンに教えてやってほしい。
以上だ」
エドワードは愛しそうにアンの手を取り、退出した。
――返事すら、許されなかった。
帰宅後、すべてを父に伝えると、父の握る羽ペンがへし折れた。
「皇后陛下の要請で決まった婚約を……王太子になった途端に裏切るとは。
すぐ陛下のもとへ行く!」
外出準備に入ろうとする父に声をかける。
「父上、お願いがあります――」
それから私は毎日王城へ通い、アンへマナーと立ち居振る舞いを教えた。
「姿勢が曲がっております」
「茶器はこの角度で持ちます」
注意するたび、アンは顔を歪める。
そして残り七日という日、エドワードを伴って現れた。
「アンから聞いた。
お前の教え方が細かすぎる。まるでいじめのようだと!」
アンは悲しげにエドワードへ顔を埋めた――
一瞬見えたその目は私を嘲っていた。
「私は殿下のご命令に従っているだけです」
「…ッ! 婚約の白紙でここまで卑しくなるとは!
最初から破棄すべきだった!」
「エドワード、怒りを抑えてください。
私が選ばれたことで…。アイリス様も可哀想なお人なのです」
アンの勝ち誇った視線。
「もういい。お前には任せられん。
だが当日の茶会は来い。アンのサポートを忘れるな」
そう言い捨てて、二人は去った。
茶会当日。
豪奢な会場に伯爵以上の令嬢が揃い、会場は華やいだ。
ほどなく皇后、エドワード、そしてアンが入場。
「この者は私の愛するアン。次期王太子妃だ」
王太子の紹介に、アンは場にそぐわない浅い礼をした。
その瞬間、令嬢たち皇后さえも、表面には出さぬまま困惑の色を浮かべた。
案の定、茶会は崩れていった。
姿勢は悪い。
茶器は音を立てる。
会話は成立しない。
困り果てた令嬢たちがエドワードの話題を振ると――
「エドワードはかっこよくて……私、選ばれるなんて思わなくて!
あ……ごめんなさぁい」
私を見ながら無邪気に言うその言葉は、刃のようだった。
やがて令嬢たちは口を閉ざし、アンへ話題を振る者もいなくなった。
その雰囲気に耐えられなかったのか、アンは立ち上がり苛立ちを私へぶつけた。
「アイリス様!ひどいです!
私が選ばれたからって、皆を使って私を仲間外れにするなんて!」
場が騒然となる。
そんな中、皇后が静かに席を立った。
「……王太子殿下。
この者が“才女”とは、とても思えません。
それに公爵家から婚約破棄の申入があったと聞きましたが……話が違うようですね?」
皇后の静かな怒気に、会場が凍り付いた。
「本日の茶会は解散。
アイリス嬢、あなたは残りなさい」
残ったのは、皇后、エドワード、アン、そして私の四人。
皇后はエドワードを真っ直ぐ見据えた。
「この者は未来の王太子妃として認められません。
必要な教養も、資質もない」
「愛がある!アンを愛している!」
「愛だけで国政ができると思っているのですか?」
エドワードは言葉に詰まった。
そして私を見て、信じられないことを口にした。
「そ、そうだ……アイリス。
お前は私を愛していたよな?
側室にしてやる。
王太子妃の仕事はお前がやれ――」
「ならん」
重たい声がエドワードの言葉を断ち切った。
父が国王陛下、そして一人の男性を連れて現れた。
「この場をもって……第二王子の王太子位を剥奪し、第一王子を立太子する」
「父上!?…兄上は王太子の教育を受けていません!」
「お前が放棄した分を、アイリス嬢が補っていたこと余が知らぬと思ったか?
その上、後ろ盾である公爵家を裏切った。王族失格だ」
エドワードは視線を彷徨わせ――再び私へ向き直った。
「アイリス!
お前は俺が好きなんだろ?
王太子妃になりたいんだろ?
父上を説得してくれ!」
エドワードの発言にアンが蒼白になる。
その姿を見ながら、私は静かに答えた。
「それは無理でございます」
「ど、どうして!?」
「殿下と婚約する前から……私には愛する人がいました」
「浮気じゃないか!!」
「婚約前に、お互い気持ちに蓋をして別れました。
ですが、婚約を白紙と言われ……私はその人と添い遂げたいと思います」
「どこの貴族だ!圧力をかけてやる!」
「平民にございます」
「…………は?」
「私は平民の愛する方と生きるため――
本日限りで貴族籍を抜け、市井へ降ります」
「平民に……なるのか……?」
「ええ。
貴族が平民を愛したのです。
それが私の通す筋でございます」
そう言って――
私は国王の横に立つ男性、アッシュの胸へ飛び込んだ。
驚きながらも、アッシュは私をしっかり抱きしめてくれた。
十年前、諦めようと別れた少年と私は結婚できるのだ。
父は複雑な顔をしながらも言った。
「……幸せになりなさい」
国王は静かに告げた。
「第二王子は今後王太子の名を名乗ることを禁ずる。
エドワード、お前には子爵位をやる。北の地で暮らせ」
アンは絶叫し、エドワードは崩れ落ちた。
その後、王命どおりエドワードは北の地へ送られた。
貧しい土地ゆえ、これからは苦難の連続だろう。
私は宣言どおり貴族籍を抜け、
平民の青年――かつての幼馴染アッシュとともに生活を始めた。
「なにしてるんだ?」
背中越しに聞こえる、懐かしい声。
「ハーブティーを使った事業をしようと思ってるの。
薬草学に詳しいアッシュとなら……絶対に楽しいわ!」
アッシュは少し照れくさそうに笑う。
「……昔から、花が好きだったもんな」
その手が、そっと私の手を包んだ。
身分を捨てても悔いはない。
私はようやく――
人として、女性として、ひとりの“私”として生きている。
花が好きな公爵令嬢は、
十年越しの初恋とともに未来へ歩み出した。




