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春の教室

作者: マイカグラ

――ある教師と生徒の、静かな季節の記憶――

この物語は、ひとつの教室から始まります。

鉛筆の音だけが響く午後。

隣に座る少女の真剣なまなざし。

そして、少しずつ交わされる言葉のなかに、心がほどけていく瞬間。

教師として、ただ隣に座り、見守ることしかできなかった男がいました。

生徒として、夢に向かって歩きながら、誰かの存在に支えられていた少女がいました。

これは、恋という言葉では語りきれない、

けれど確かに心を揺らした、ふたりの記憶の記録です。

季節は巡り、距離は変わり、

それでも、あの教室の光と風は、今も胸の奥に残っています。

どうか、ページをめくるたびに、

あなたの中にも、静かな風が吹きますように。

春の教室

――ある教師と生徒の、静かな季節の記憶――

第一章 鉛筆の音と、胸の奥の揺らぎ

小さな個別指導のブースに、鉛筆の音だけが響いていた。

隣の席には美幸。真剣な眼差しでノートに数式を書き込み、時折眉をひそめて考え込む。

その姿は、まるで時間の流れから切り離されたように、静かで、凛としていた。

紘一はその横顔を見守りながら、静かに声をかける。

「ここ、途中の計算を確認してみようか」

美幸は一瞬手を止め、ノートを見返す。

「あっ……ほんとだ。先生、どうして気づくんですか?」

「慣れだよ。間違えるところは、だいたい似ているんだ」

美幸は照れくさそうに笑い、また鉛筆を走らせた。

その健気な姿が、紘一の胸を静かに締め付ける。

彼女の集中する横顔は、どこか儚くて、そして力強かった。

美幸と一緒にいるときは、勉強や大学の話のほかに、お互いのプライベートな話もよくした。

家族のこと、友達との出来事、将来への不安——

彼女は少しずつ心を開き、言葉の端々に素顔を滲ませていった。

「先生って、休みの日は何しているの?」

「一日中ドラマを見ているよ」

「いいなあ。私も見たい」

そんな何気ない会話が、紘一には心地よかった。

美幸にとって塾に来ることは、毎日の日課になっていた。

それは、勉強のためだけではない。

この場所に来れば、安心できる。

誰かが自分を見守ってくれている——そんな感覚。

そして紘一にとっても、美幸が来る時間は特別だった。

彼女が教室に入ってくるだけで、空気が変わる。

その変化を、誰よりも敏感に感じ取っていた。

だが、模試の結果は思わしくなかった。

プリントを見つめる美幸の目に、悔しさと涙がにじむ。

「……こんなに頑張っているのに、なんで上がんないんだろう」

その声は、絞り出すように小さく、けれど確かに届いた。

紘一はプリントをそっと机に伏せ、椅子を少し美幸の方へ近づけた。

「美幸。模試の結果が良かったら、どうだった?」

「え?」

「勉強やめるの? そんなことないよね。良くても悪くても、やることは同じだ。だから模試の結果に、一喜一憂する必要はないよ」

美幸は唇を噛みしめ、紘一の言葉を静かに受け止めていた。

その横顔を見つめながら、紘一は自分の心と向き合っていた。

十年前、妻をがんで失って以来、心は凍りついたままだった。

もう誰かを好きになることはない——そう信じ、ただ日々の仕事に打ち込んできた。

けれど、隣に座る少女の真っ直ぐな瞳は、静かに、しかし確実に、その固い殻を溶かしていく。

——いけない。これは胸にしまっておくしかない。

そう自覚していても、心はどうしようもなく彼女に惹かれてしまうのだった。

鉛筆の音が、再び静かに響く。

それは美幸の努力の証であると同時に、紘一の心を震わせる音でもあった。

そして今日もまた、彼女は塾にやって来る。

日課のように、静かに、確かに——

その背中を見つめるだけで、紘一の胸の奥に、そっと灯がともるのを感じた。


第二章 前期試験の前夜

教室の窓から差し込む午後の光が、机の上の参考書を柔らかく照らしていた。

静かな空気の中、紘一と美幸は並んで座り、黙々と問題集に向き合っていた。

前期試験を控えた最後の勉強。

言葉は少なくても、互いの集中と緊張が、空気を通して伝わってくる。

「明日、出発する」

美幸がふと顔を上げて言った。

「うん。いよいよだね」

紘一は微笑みながら、ページをめくる手を止めた。

試験日から十日後には、合格発表が待っている。

その間に何が起こるかは誰にもわからない。

けれど、今この瞬間だけは、ふたりの時間が確かに存在していた。

「中期も後期もあるし、まだ終わりじゃないよね」

「そうだね。第一志望の合格が出るまでは、勉強しなくちゃ」

美幸は小さく笑った。

その笑顔には、少しだけ不安と、たくさんの希望が混じっていた。

教室の時計が、夕方を告げる。

窓の外では風が少し強くなり、春の気配が遠くで揺れていた。

ふたりは、またページをめくる。

未来に向かって、静かに、確かに歩き出していた。


第三章 曇り空の知らせ

合格発表の前日。

「結果は教室に電話するから」と、美幸が言った。

そして、電話の向こうから、かすかな声が聞こえた。

「……だめだった」

第一志望の国公立大学・看護学部、前期試験の不合格。

その言葉は短く、静かだったが、紘一の胸には重くのしかかった。

「そっか」

それ以上、言葉は出なかった。

慰めの言葉は、今の美幸には届かない。

ただ、彼女の気持ちをそっと受け止めるしかなかった。

そのまま美幸は、中期日程の大学を受けるため、電車に乗って行った。

駅のホームに立つ彼女の姿を思い描きながら、紘一は教室の窓から空を見上げた。

曇り空の向こうには、まだ遠く、春の気配がちらりと見えるだけだった。


第四章 後期試験へ

五日後、美幸は前期で不合格だった大学の後期試験に挑むことになった。

前期と後期を同じ大学で受ける生徒は少ない。

それでも美幸はその大学を選んだ。

——その大学に、どうしても行きたい理由があったのだ。

  「きっかけは、ドラマだった。ヘリで患者さんを運ぶフライトナースの話。

その人が、すごくかっこよくて……でもそれだけじゃなくて、

“命のそばにいる”っていう感じが、すごく心に残ったの」

彼女の目は、遠くを見つめるように輝いていた。

「それからずっと、フライトナースになりたいって思っている。

誰かの“助かるかもしれない”に、少しでも関われる人になりたいって」

紘一は、その言葉に胸を打たれた。

美幸の夢は、ただの憧れではない。

誰かの命に寄り添いたいという、静かで強い願いだった。

「だから、この大学じゃなきゃダメだった。」

紘一は、彼女の言葉を噛みしめるように聞いていた。

——この子は、もう未来を見ている。

そう思うと、少しだけ寂しくもあり、誇らしくもあった。——


中期試験を終えた美幸は、再び教室にやってきた。

後期試験まで、あと二日。

いつものように、二人は並んで勉強を始めた。

鉛筆の音、ページをめくる音。

それだけが、静かに時間を刻んでいく。

紘一は、けなげに頑張る美幸を見つめながら思った。

何としても、合格させてやりたい。

けれど、自分にできることは何もない。

ただ隣にいて、問題を解く手助けをするだけだった。


第五章 風に乗る言葉

最後の授業が終わった。

明日、美幸は後期試験のために出発する。

教室の空気は、いつもより少しだけ重かった。

別れの予感が、紘一の胸を静かに締めつける。

このまま、もう会えなくなってしまうのではないか——

そんな思いが、言葉となって口をついて出た。

「……LINE、交換しようか」

禁じられていることだった。

それでも、言わずにはいられなかった。

美幸は驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。

「いいよ。私がやるね」

その笑顔に、紘一は少しだけ救われた気がした。

教室の空気が、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。


第六章 雪の駅前

試験日前日、紘一のスマートフォンが震えた。

画面には美幸からのLINE。

「こっちは雪が積もっているよ」

添えられた写真には、白く染まった駅前の風景。

普段は目にすることのなかった景色が、どこか遠く、別世界のように感じられた。

紘一は指先で写真を拡大しながら、少しだけ笑った。

たわいのないやり取りが続く。

「寒そうだね」

「でも、ちょっときれい」

「風邪ひかないように」

そんな言葉の合間に、紘一はふと送った。

「明日は最後だから、がんばって」

その一言に、画面の向こうで美幸がどんな顔をしているのか、紘一にはわからなかった。

けれど、言葉の重みは、自分の胸に残った。


第七章 ドラマの時間

この日、塾は休みだった。しかし紘一は教室に向かった。

机の上を整え、カーテンを少し開ける。

窓の外にはまだ冷たい空気が漂っていたが、心の中には小さな期待が灯っていた。

昨日、美幸からLINEが届いた。

「明日、塾が休みだから、教室で一緒にドラマ見ようか」

紘一が送ったその言葉に、美幸はすぐに「いいよ」と返してくれた。

しばらくして、教室の前に自転車の音が響いた。

いつものように、美幸がやってきた。

制服姿にマフラーを巻いて、少しだけ頬を赤らめている。

「先生、おはよう」

「おはよう。準備できているよ」

二人は並んで座り、ドラマを再生した。

画面の中で物語が静かに動き出し、時間がゆっくりと流れていく。

笑ったり、黙ったり、時折感想を交わしながら——

気づけば、半日が過ぎていた。

不思議と、長さは感じなかった。

胸の奥がふわりと温かくなるような、久しぶりの心地よい時間。

こんなにも自然に、心から楽しめる瞬間を過ごしたのは、妻を亡くして以来、初めてだった。

教室の窓の外はすっかり暗くなり、街灯がぼんやりと柔らかい光を投げかけていた。

夜の空気が、二人だけの静かな時間をそっと包んでいるようだった。

「そろそろ帰るね」

美幸は立ち上がり、コートを羽織った。

「ありがとう、先生。楽しかった」

「こっちこそ。気をつけてね」

自転車のライトが点り、彼女の背中が夜の中へと消えていった。

紘一は教室に一人残り、静かに椅子に腰を下ろした。

——これが最後かもしれない。

そう思うと、胸の奥に寂しさがこみあげてくる。

あとは、合格発表を待つのみだった。


第八章 春の訪れ

約3か月前の12月、紘一は美幸に初めてのプレゼントをした。

教室での何気ない会話の中で、美幸がふと「先生、クリスマスプレゼントが欲しい」

と笑いながら言ったのだ。

欲しいものは、一冊の雑誌。46歳になっても若さと美貌を保ち続ける女優の特集号だった。

女子高に通い、運動部で活躍してきた美幸には、それまでおしゃれに関心を持つ雰囲気はなかった。

けれど、大学進学を前にして少しずつ世界を広げようとしていたのかもしれない。

「いいよ」と答えて、紘一はすぐに注文した。

二日後には手元に届き、塾にやって来た美幸にそっと手渡す。

「えっ、本当に!? ありがとう!」

雑誌を受け取った美幸は、子どものように目を輝かせ、すぐにページを開いた。

「見て、この女優さん! 本当に綺麗。全然歳を感じさせないんだよ」

夢中になって女優の魅力を語るその姿を見て、紘一の胸は静かに温かく満たされた。

——それは、小さな贈り物でありながら、紘一にとって確かな記憶となった。


合格発表の日。

スマートフォンが鳴った。

画面には「美幸」の名前。

「先生、奇跡が起こった」

紘一は一瞬、言葉を失った。

「合格した?」

「した」

「どっち?」

「両方」

沈黙のあと、紘一はゆっくりと答えた。

「……おめでとう。よかった」

電話の向こうで、美幸が笑った。

「後で教室行くね」

紘一はスマートフォンをそっと置き、窓の外を見た。

春の気配が、ほんの少しだけ、風に混じっていた。

教室の扉が静かに開き、美幸が顔をのぞかせた。

「先生、来たよ」

その声は、春の風のように柔らかく、けれど確かな足取りで紘一の胸に届いた。

「合格、改めて報告に来ました」

そう言って、美幸はいつもの席に腰を下ろした。

机の上に手を置き、少し照れたように笑う。

「向こうに引っ越して、一人暮らしするの」

「時間がないから、大変だよね」

「うん。引っ越しまで、あと二週間くらい。バタバタすると思うけど、楽しみ」

紘一は頷きながら、心の奥に小さな痛みを感じていた。

——今日が、最後かもしれない。

そう思うと、言葉の選び方に慎重になる。

「明後日、塾は休みなんだよね」

「そうなんだ」

「……もう一度、一緒にドラマ見ない?」

紘一の言葉に、美幸の顔がぱっと明るくなった。

「いいよ、もちろん!」

そして、ふたりは再び並んで座り、ドラマの世界へと没入した。

笑い、涙し、時に沈黙を共有しながら、ほぼ半日が過ぎていった。

時間は、まるで存在しないかのように、静かに流れていた。

物語が終わり、教室の空気が少しだけ重くなる。

美幸は立ち上がり、コートを羽織った。

「ありがとう、先生。今日も楽しかった」

玄関まで歩き、靴を履いた美幸が、ふと振り向いた。

そして、何も言わずに手を広げた。

紘一は一瞬戸惑いながらも、そっとその腕の中に身を寄せた。

短く、けれど確かな温もりがそこにあった。

「じゃあね」

美幸は微笑み、自転車にまたがった。

ライトが灯り、彼女の背中が夜の街へと消えていく。

紘一は玄関に立ち尽くしながら、静かに呟いた。

「……行ってらっしゃい、美幸」

その言葉は、風に乗って、彼女の背中に届いたかもしれない。

そして、教室には、ふたりが過ごした時間の余韻だけが、静かに残っていた。


第九章 知らない街の窓辺で

美幸が進学した大学は、紘一の地元だった。

それは偶然のようでいて、どこか運命のいたずらのようでもあった。

けれど美幸にとっては、まったく知らない土地。

駅前の風景も、スーパーの並びも、バスの時刻表も、すべてが初めてだった。

引っ越しを終えた美幸は、紘一とLINEで毎日連絡を取り合っていた。

「洗濯機、回すときって洗剤どれくらい?」

「ゴミ出し、曜日合っているかな」

「大学、オリエンテーション緊張する……」

そんな言葉の端々に、不安が滲んでいた。

一人暮らしがちゃんとできるのだろうか。

この土地になじめるのだろうか。

大学で友達ができるのだろうか。

美幸は、期待と不安の間で揺れていた。

紘一は、その揺れを感じ取っていた。

そして、ある夜、スマホを手にして言った。

「今度の日曜日、車で行こうか」

一人暮らしの女性の部屋へ行くことに、紘一は少し抵抗を感じていた。

けれど、美幸はすぐに「来てほしい」と言った。

その言葉に、迷いは消えた。

日曜日、紘一は早朝に車を走らせた。

高速道路を抜け、午前9時半には美幸の部屋に着いた。

小さなワンルーム。まだ段ボールがいくつか残っていた。

「先生、来てくれてありがとう」

「うん。こっちの街、案内するよ」

紘一は、地元の地図を広げながら、スーパーの場所、病院、図書館、バス停の位置を説明した。

「この辺は夜静かだけど、駅前は学生が多いから安心だよ」

「このスーパーは火曜が特売日。あと、ポストはここ」

美幸はメモを取りながら、何度も頷いた。

「先生がいると、なんか安心する」

昼過ぎには車で町中をドライブした。

大学のキャンパス、駅前のカフェ、川沿いの遊歩道。

美幸は窓の外を眺めながら、「ここ、好きかも」と言った。

夕方、ふたりは再び美幸の部屋へ戻った。

カーテン越しに射し込む夕陽が、部屋を淡い色に染めている。

時間的には、そろそろ帰らなければならない。

それでも紘一は、この場を離れたくなかった。

美幸もまた、その思いを感じ取っているように、何も言わず隣に座った。

ドラマをつけたものの、紘一には内容がまったく入ってこない。

胸の奥で鼓動が暴れ、耳に響いている。

――この時間が、終わらなければいい。

そんな願いが、抑えきれずに滲み出ていた。

ふと視線を横に向けると、美幸の横顔が目に映った。

夕陽に照らされた頬がほんのり赤く、息を呑むほどに愛おしかった。

目が合った瞬間、紘一の呼吸は止まる。

美幸の心臓もまた跳ね上がった。

なぜか目を逸らせない。

胸がざわつき、言葉を探そうとしても出てこなかった。

沈黙の中、紘一はゆっくりと顔を近づけた。

頭の中は真っ白で、ただ心臓の鼓動だけが響いている。

美幸もまた抗うことなく受け入れ、瞳を閉じた。

そして、唇が触れ合った。

わずか数秒――けれど永遠にも感じられる時間だった。

唇を離すと、ふたりは見つめ合った。

美幸が、恥じらいを隠すように小さく笑った。

「ファーストキス、奪われちゃった」

その声にも、かすかな震えが混じっていた。

紘一は鼓動を抑えきれぬまま、小さく笑い返した。

「……奪っちゃった」

ふたりの視線が再び重なる。

胸の奥に溢れる高鳴りを確かめ合うように、静かに微笑み合った。

紘一はそっと腕を伸ばし、美幸を抱き寄せた。

美幸は小さく息をのみ、そのまま紘一の胸に顔をうずめる。

耳もとで、早鐘のような鼓動がはっきりと伝わってきた。

「……先生、心臓がすごいドキドキしているよ」

囁くような声に、紘一は言葉を返せず、ただ小さく息を吐いた。

ふたりの間に言葉はいらなかった。

胸の奥に残る温もりと鼓動だけが、確かなものとしてそこにあった。

窓の外では、春の風がそっとカーテンを揺らしていた


第十章 静かな別れの予感

午後十一時。

紘一が車で帰路についたとき、夜の帳はすっかり降りていた。

車内には、まだ美幸の温もりが残っている気がした。

何度も抱きしめ、唇を重ねたあの時間は、紘一にとって人生の中でも特別で、かけがえのない瞬間だった。

——このまま続いてほしい。

そう願いながらも、その願いは胸の奥に押し込めた。

その日から、ふたりは毎日LINEを交わした。

美幸の方から「先生、電話で話そう」と誘われることもあり、週に二、三度は声を聞いた。

笑い声、悩み、大学での出来事。

美幸の生活が少しずつ彩りを増していくのを、紘一は心から嬉しく思った。

二週間後、紘一は再び美幸の部屋を訪れた。

次は三週間後、そして一か月後。

訪れるたびに、美幸は確かに成長していた。

友達ができ、バイトを始め、部活にも入った。

日々が忙しくなり、充実していく彼女の生活の中で、紘一の存在は少しずつ小さくなっていった。

それは、紘一にとって望んでいたことでもあった。

——美幸が、自分を必要としなくなること。

それは彼女が、自分の人生を歩き始めた証なのだから。

けれど、心はそう簡単に割り切れなかった。

紘一の中は、美幸でいっぱいだった。

笑顔も、声も、仕草も——そのすべてが胸に刻まれていた。

——でも、自分はいない方がいい。

年齢差。

将来。

何より、美幸の可能性を狭めてしまうことが怖かった。

だから紘一は決めた。

もう、美幸の部屋へは行かない。

電話もできるだけ避けよう。

ただ、美幸が不安に思わぬよう、しばらくはLINEだけを続けよう。

やがて、そのやり取りも少しずつ間隔を空けていった。

毎日だったものが、三日に一度となり、一週間に一度に。

そして二週間に一度となり、最後には月に一度だけになった。

気づけば、美幸からの連絡は途絶えていた。

それは、おそらく自然な流れだったのだろう。

美幸の心から、自分の存在が少しずつ薄れていったのかもしれない。

それでも紘一は、ただ彼女の幸せを願った。

——これでいい。

そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥には言葉にならない寂しさが静かに広がっていった。

窓の外では、春の風が吹き、カーテンを揺らしていた。

まるで、何かを終わりへと運び去るかのように。

あの日、美幸が「ファーストキス、奪われちゃった」と笑った声が、不意に耳に蘇る。

紘一は目を閉じ、そっと呟いた。

「……ありがとう、美幸」

それは、誰にも届かない、静かな別れの言葉だった。


十一章 春を待つ窓辺

車のハンドルを握りながら、紘一はふと、ある冬の日の記憶に引き戻されていた。

それは、美幸が高校三年生だった頃——卒業アルバムの撮影があった日。

「今日、学校でアルバムの写真撮ったんだけどさ」

塾に入ってきた美幸は、どこか不満げに呟いた。

「みんなメイクばっちりで来てて……すっぴんだったの、私を含めて数人だけ」

「それ、美幸らしくていいじゃない」

「ううん、ちょっとだけ後悔している。せっかくだし、少しは可愛く写りたかったなって」

そう言って笑った顔が、今も胸に残っている。

外はまだ寒さの残る季節だったのに、彼女の笑顔だけは春のように柔らかかった。

もうひとつ、忘れられないやり取りがある。

受験勉強の合間、ふたりで問題集に向かっていたとき——。

ふと鉛筆を止めて、美幸が言った。

「私、大学行ったら彼氏できるかな?」

不意を突かれ、紘一は思わず顔を上げる。

「どうだろうね。できるんじゃない?」

美幸はいたずらっぽく笑いながら続けた。

「もしできたら、先生に紹介するね」

その言葉に、紘一は返す言葉を失った。

胸の奥が小さく震える。

——紹介。

その響きには、どこか遠くに行ってしまう予感が宿っていた。

あの頃の美幸は、未来を夢見ていた。

そして今、その未来のどこにも、自分はいない。

車窓の外では、春の風が街路樹を揺らしている。

その揺れが、紘一の胸の奥に静かな波紋を広げていた。

——さよならの準備は、もう始まっていた。


第十二章 春の再訪

教室の扉が静かに開いた。

振り返った紘一の視線の先に、美幸が立っていた。

大学四年生になった彼女は、紘一の記憶の中にいる少女とはもう違っていた。

髪をまとめ、落ち着いた色のコートを羽織り、どこか大人びた気配をまとっている。

その姿に、紘一は一瞬、言葉を失った。

「先生……久しぶり」

「……美幸。来てくれたんだ」

妹がこの塾に通っている関係で、少しだけ顔を出したのだという。

それでも、こうして再び目の前に立っていることが、紘一には何よりも嬉しかった。

「看護師としての就職先、決まったんだ」

そう言って、美幸は少し照れたように笑った。

「おめでとう」

紘一は、心からそう思った。

教室で机を並べて勉強した日々。

一緒に観たドラマ。

大学の合格を伝える電話。

知らない土地をドライブした午後。

そして、「ファーストキス、奪われちゃった」——。

すべてが胸の奥から淡く蘇り、言葉にできないほど切なく胸を締めつけた。

危うく涙が零れそうになり、紘一は俯いて呼吸を整えた。

美幸の前では、笑顔でいたかった。

「……今、付き合っている人がいて」

美幸が、少し照れたように視線を落とす。

「就職したら、一緒に住もうと思っているんだ。その方が、何かと安心だから」

紘一は一瞬、心臓を握られるような痛みを覚えた。

けれど、すぐに顔を上げ、笑みを浮かべて答えた。

「よかったな。そういう人ができて」

それは、紘一の偽りのない本心だった。

美幸が幸せになること。それが、彼にとって一番の願いだった。

美幸は、恋人のことを楽しそうに語った。

仕事のこと、性格のこと、出会いのこと。

その表情は、かつて「電話してほしい」と不安そうに言っていた少女のものではなかった。

彼女は、もう自分の足で立っていた。

未来を見据え、誰かと歩き出そうとしていた。

紘一は、静かに頷いた。

——これでいい。

そう思いながらも、胸の奥に広がっていくのは、形のない寂しさだった。

けれど、それでも。

彼女が笑っているのなら、それでいい。

春風が、開け放たれた窓からそっと吹き込み、カーテンを揺らした。

光の中で微笑む美幸を見つめながら、紘一は心の奥で呟いた。

——さよなら。ありがとう。

その言葉は声にはならず、ただ静かに胸の中で響いた。


第十三章 最後の告白

美幸が教室を訪れてから三日後、紘一のスマートフォンが不調を訴え始めた。

画面は時折フリーズし、通知も遅れて届く。

思い切って新しい機種へ乗り換えることにした。

今のスマホは、昔と違ってデータ移行が驚くほど簡単だ。

写真も連絡先も、ほとんど自動で引き継がれる。

ただ、LINEだけは少し手間がかかる。

トーク履歴を保存し、新しい端末で復元しなければならない。

紘一は胸の奥に小さなざわめきを覚えながら、美幸との履歴を確かめた。

自分の世代ではLINEを頻繁に使うことはない。

けれど、美幸とのやりとりだけは、他とは比べものにならないほど積み重なっていた。

指先でスクロールを始める。

一番初め——三年前まで遡ると、そこには美幸との日々が詰まっていた。

「先生、あのドラマ見た?」

「今日、髪切ったの」

「話したいから、電話して」

その一つひとつが、記憶を鮮やかによみがえらせる。

教室で並んで勉強した時間。

ドラマを見ながら笑った夜。

美幸の部屋に漂っていた、あの静けさ。

三年前の光景が、今もなお色を失わずに胸を刺した。

——紘一は、本当に美幸が好きだった。

けれど、その想いに気づかぬふりをして、理性と常識の殻で閉じ込めてしまった。

離したくなかった。

それでも、断ち切った。

美幸の幸せを、ただ願うために。

「好きだった」——そう思っていた。

過去形。

……過去形?

いや、違う。

おそらく、たぶん、間違いなく——今でも美幸のことが好きだ。

もう遅い。

それはわかっている。

けれど、それが紛れもない事実だった。

だからせめて、この想いだけは。

届かなくても、伝えよう。

そう決めて、紘一は美幸に電話をかけた。

久しぶりに耳にする電話での声は、もう不安そうに頼ってくるものではなかった。

三年間で彼女は成長し、すっかり大人になっていた。

他愛もない話を交わしたあと、紘一は静かに告げた。

「三年前、美幸のことが本当に好きだった」

「そして、それは今も変わらない」

美幸は少し沈黙した後、柔らかく言った。

「ありがとう」

その一言に、すべてが込められているように思えた。

返事ではなく、美幸なりの優しさ――。

おそらく、これが人生最後の告白。

美幸は、人生最後に好きになった人。

——それで、十分だった。

ただひとつだけ、紘一は確かめたかった。

あのころ、美幸は自分をどう思っていたのか。

美幸の返事は、こうだった。

「当時の気持ちはよくわからない。でも恋愛感情ではなかったかも」

その言葉が本心かどうか、紘一には判断できなかった。

本当の気持ちだったのか、あるいは今だから選んだ言葉なのか。

けれど、その真実は彼女だけが知ることだった。

紘一は答えを追わず、ただ静かに受け止めた。

そして、スマホの画面を閉じる。

そこには、美幸との記録が確かに残っていた。

教室で交わした言葉。

雪の駅前で撮った写真。

ドラマの感想。

「ファーストキス、奪われちゃった」——それだけで、十分だった。

画面の奥には、あの春の教室がある。

日課のように、毎日二人で過ごした時間。

一緒に見た、ドラマ。

美幸との季節が、静かに息づいていた。

紘一はスマホを胸に抱きしめる。

もう画面の向こうには彼女はいないとわかっていても、

指先には、まだ彼女の言葉の温もりが残っている気がした。


「……さようなら」


小さく呟いた声は、自分の耳にすら届かないほど弱々しかった。

その言葉が夜の闇に溶けて消えると同時に、

胸の奥にぽっかりと空いた穴だけが、確かな現実として残った。


エピローグ

教室の窓辺に、春の光が差し込んでいる。

鉛筆の音も、ページをめくる気配もない。

そこには、ただ静かな空気と、記憶の残響だけが漂っていた。

紘一は、いつもの席に腰を下ろす。

机の上には、何も置かれていない。

けれど、目を閉じれば、そこには美幸のノートがあり、真剣な眼差しがあり、

「先生、ここわかんない」という声が、今も耳に残っている。

もう彼女はここにはいない。

けれど、確かにこの場所にいた。

春の教室に、彼女の季節があった。

スマートフォンを取り出し、画面をそっと開く。

LINEの履歴は、もう更新されることはない。

それでも、そこに刻まれた言葉たちは、紘一の胸に生き続けている。

「美容室帰りのこのサラサラで、先生に会いたかったなー」

「私も最近メッチャ会いたい」

「電話して、なるはやで」

——そのすべてが、紘一の人生を静かに彩っていた。

窓の外では、風が街路樹を揺らしている。

春は、また新しい季節を連れてくる。

そして紘一は、もう誰かを待つことはない。

ただ、過ぎ去った季節を胸に抱きながら、今日も教室に灯りをともす。

それは、誰かの未来を照らすため。

そして、自分の過去を、静かに見守るため。

——春の教室は、今日も静かに息づいている。

誰もいない席に、そっと微笑みながら。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

この物語は、誰かを好きになることの切なさと、

その人の幸せを願うことの尊さを描いたものです。

紘一が美幸に向けた想いは、

決して声高に語られるものではありません。

けれど、静かに、深く、確かにそこにありました。

人生には、言葉にできない感情がいくつもあります。

伝えられなかった気持ち。

届かなかった願い。

それでも、誰かの笑顔を思い浮かべるだけで、

心が少しだけ温かくなることがあります。

この物語が、あなたの記憶の中の誰かをそっと思い出させるものであったなら、

それ以上の喜びはありません。

春の教室。

雪の駅前。

ドラマの時間。

そして、最後の告白。

すべてが、静かに心に残る季節の記憶でした。

――また、どこかで。

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