第五章 真成
簫翠蘭の希望をかなえてあげたいと思いながらも、手放したくないという彼の気持ちとの間に葛藤する劉煌
そんな劉煌の気持ちを百蔵は見抜いていたのだった
翠蘭を友鶯宮に送り、皇宮内を歩いて天乃宮に戻ろうとしていた劉煌は、突然ハッとしてその足の向きをくるりと変えると、五重塔に向かって走り出した。
劉煌は五重塔の下で、あたりを見回してから誰もいないことを確認すると、まず塔の一番下の『地の階』の屋根に飛び乗った。
その後、順番にぴょんぴょんと上の階の屋根に飛び乗って、一番上の『空の階』の屋根の端に着くと、空高く突き出ている相輪に向かって、劉煌は息も切らせることなく「お待たせ。」と言った。
「なんだ、思ったよりもずっと早く来ちゃうから、水を飲む暇もなかったよ。」
百蔵が相輪の向こう側から姿を表しながら続けた。
「またトラップ多くしたから、天乃宮には全然近づけなかったし。本当にここの皇帝を敵に回したらいけないよ。」
そうブツブツ文句を言いながら劉煌の横にやってきて、百蔵はそんな年でもないのに「どっこいしょ」と言ってそこに座ってから竹水筒を劉煌にフンと差し出した。
それに劉煌は首を横に振って答えると、百蔵は肩をすくめてから竹水筒から浴びるように水を飲んだ。
劉煌がやおら百蔵の横に座ると、「話は違うけど、中ノ国は大変だよ。国民が荒れちゃってさ。でもあそこは皇后が頭がいいから、皇帝に謝らせることにしたらしいよ。皇帝が国民に対してだよ。たぶん中ノ国史上初じゃないかな。」と言ってから、「じゃあ、本題に入るね。」と断ってから、劉煌に耳打ちした。
劉煌のガッカリしたような「そうか、、、」という声に、百蔵は驚いて思わず「えっ、これを望んでいたんじゃないの?」と聞いてしまった。
「そうだよ。だから百蔵さんにもお願いしたんだ。」とまるで自分に言い聞かせるように劉煌は言った。
百蔵は珍しく酷く寂しそうな顔をして劉煌を見て呟いた。
「人間は困った動物だよな。」
劉煌はすぐに百蔵の方を振り向くと不思議そうな顔をして「どういうこと?」と聞いた。
百蔵は相変らず淋しそうな顔で、呟いた。
「人間には感情って奴がある。これが本当に曲者だ。俺らは徹底的にそれのコントロールができるようになるよう修行するけど、絶対にゼロにはならないからな。忍者の物理的な術なんて本当にちょろいもんさ、この内なる感情を忍ぶ術に比べればな。」
百蔵はうなだれている劉煌の肩をポンポン叩きながら続けた。
「たぶん忍者ってのは誰しも、内なる修行に一生を費やすんだろうな。ま、こうやってみると、それはここの皇帝陛下も同じようだけど。」
百蔵は今日はいつものようにそこでドロンと消えずに、劉煌の横にしばらく何も言わずにジッと座っていた。
そして頃合いを見計らってから今度は事務的に百蔵は聞いた。
「ということで、心の準備をしときな。あと丸々2日はかかるだろうから。ところでお届け先はこちらでいいのかな。」
劉煌は百蔵の耳元に口を近づけて何か小声で答えると、「あと場所はわかるかな。」と今度は普通の声で尋ねた。
口を尖らせながら百蔵が「ああ。でも早くって言っていたの…に...」と言った瞬間に、今日は劉煌が先にドロンと消えていなくなった。
五重塔のてっぺんで百蔵は思いっきり嫌な顔をし、不貞腐れて叫んだ。
「全く、俺の御株を奪いやがって。可愛くない皇帝!だいたいなんだよ!早く見つけて来いって言っときながら、1週間後って!」
そして彼もまたドロンとその場から消えた。
~
その次の水曜日、いつもの検死が終わり翠蘭が手を洗っていると、劉煌がやってきて、「今日は馬車で出かけるから。」と言った。
翠蘭は、こんな夜遅くに皇帝が出かけるとは緊急事態が発生したのかと誤解し、身体をこわばらせ緊張して言う。
「どうぞお気をつけて。」
「はあ?あなたも一緒に行くのよ。」
翠蘭は益々誤解し真っ青になって「え?怪我人が沢山でているのでしょうか?」と医者モードになっていると、劉煌はキョトンとした。
「やだ。今日は新月だから星がよく見えるでしょう?だから一緒に星を見に行くのよ。」
そう言うなり、彼女のまだ濡れたままの手を取ると、彼はサッサと出口に向かった。
靈密院の前には1頭立ての馬車が横付けされており、劉煌は翠蘭をエスコートして馬車に乗せると、彼自身が御者になって馬車を走らせ始めた。今度は翠蘭がキョトンとしながら馬車の中で揺られていると、だんだんと彼女の原始的な生命本能が動きはじめ、馬車の中が美味しそうな臭いで満たされていることに気づいた。
どうやら今日は、初めて店のレビューとは関係なく、劉煌と二人で屋外で夕食を取ることになりそうだ。
そう思った瞬間翠蘭は、一人で馬車の中に居るのがつまらなくなり、馬車の前のカーテンを開けて劉煌の隣に座り込んだ。
劉煌は目線を正面に向けたまま「ここは寒いぞ。中に入っていれば。」と勧めるも、彼女は首を横に振って、劉煌の横で空を見上げた。
”お星さま、あまりよく見えない......”
翠蘭の考えがまるで読み取れたかのように劉煌は言う。
「まだ町の中だから。町外れの山の上に行けばよく見えるはずだ。」
翠蘭は恥ずかしくなって、話題を今日の検死結果に切り替えた。
町を出て初めの山の道を馬車で走っていると、その途中の切り返しのところで、今迄肝臓の話を夢中でしたいた翠蘭が思わず「わあ、綺麗!」と叫んだ。
劉煌が慌ててそこで馬車を止めると、翠蘭は劉煌のエスコートを待ちきれずに馬車から飛び降りた。
だがその視線は空ではなく、下を見つめている。
翠蘭は、馬を繋いでから彼女の横に来た劉煌の袖を引っ張ると、目線を変えずに嬉しそうに言う。
「劉煌殿、ご覧になって。あなたの京安の町を!ほら、とっても綺麗。」
劉操の時代、庶民は搾取され続け、夜、灯をつける油もなかったため、日没と共に殆ど真っ暗になっていた京安の町は、劉煌によって庶民に豊かさが少しずつ戻ってくると、夜の灯を灯す家が1軒また1軒と増えていき、今ではどこの家庭でも、窓から灯がこぼれるようになっていた。
京安の町を囲う城壁の向こう側はしばらく民家が無いので、城壁の外側は真っ暗な空間に見える。それ故、そこから見ていると、真っ黒な背景の中心に無数のオレンジ色の点々が揺らめいて、さながら星空のようにも見えた。
劉煌も、劉煌という名前を完全に封印し、女に化けて逃亡していた時代、偵察のためにここから何度も京安の町を眺めていたことを思い出し、今翠蘭が言った『あなたの京安の町』という言葉に感慨もひとしおだった。
劉煌が翠蘭の肩を抱くと、翠蘭は何の躊躇もなく自然に劉煌の肩に頭を乗せてきた。そしてちょっとしてから彼女の頭に自分の頬を乗せた劉煌は、何気なく視線を上に向けると、漆黒の空の中に幾千の大小の星が、きらきらと光を放っていた。
劉煌は翠蘭の肩に乗せた手で彼女の肩をそっと握ると「空も綺麗だよ。」と優しく囁いた。
その一言でようやく翠蘭の意識は空に向かい、目の前にある満天の星空にようやく気づいた彼女は「本当」と呟いた。
「山の反対側に行けば町の光もなくなるから、もっと星が沢山見えるだろう。」
「そうね。」
「じゃあ、遅くなるから行こうか。」
「でも、私はここがいい。」
「え?」
「お空の星もいいけど、あなたの星たちを眺めていたい。あなたの大事な子供たち。」
その言葉に、劉煌は、彼女が正真正銘の皇女であって、東之国の前皇帝皇后が子女に対してどのような教育を行ってきたかが見えた気がした。
”君に朕の子供たちの母になって欲しい。”
そう切望しながら、翠蘭とは対照的に、劉煌はずっと空を見上げていた。
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