第五章 真成
復興中の西乃国の国内は、まだまだ問題山積で、劉煌は一難去っても国政で揺れる
大政殿から外に出て晩秋の低く差し込める西日を浴びた劉煌は、しばらく早足で歩いてからハッとして立ち止まり後ろを振り向くと、案の定、宋毅が着いてきていないことに気づき、そこでふーと大きなため息をついた。
しばらくそこで待っていると、宋毅が真っ赤になって地面を滑るようにして劉煌に向かってきているのが見えた。
宋毅は劉煌が待っているとわかると、左右を見渡してから劉煌に向かって右腕をちょっとあげてみせた。劉煌が何事かと思い目を細めて宋毅の右手を見ると、彼は何やら封書らしきものを手にしていた。
宋毅は劉煌に追いつくと「陛下、靈密院からです。」と小声で告げ、またあたりを見回してから誰にも見られないように劉煌に封書を渡した。
劉煌は「うん」と返事をすると、それを懐に入れるでもなく、その場で中身を出して書面を読みはじめた。宋毅は、誰かに見られやしないかとあたりをずっと気にしてキョロキョロしていたが、劉煌はそんなことはお構いなしで読み終わるや「わかった。」とだけ言って天乃宮にまた速足で戻っていった。
劉煌は天乃宮で着替えて小高蓮になると、お茶も飲まずに靈密院に向かった。
劉煌が靈密院に入ると、教室では今日も翠蘭がインターンに囲まれて、研修後のディスカッションを続けていた。
劉煌が気にせず教室のドアをノックすると、中にいる全員が一斉にドアの方を見た。
翠蘭は劉煌に気づくと、インターン達を掻き分けてドアの所まで行き、ドアを開けて劉煌を中に入れた。
「小高御典医長」
「小高御典医長」
お辞儀をしているインターン達の声の中、「みんな、今日も研修時間が終わってもディスカッションしているの?熱心ね。」と劉煌が驚いて聞くと、インターンの一人が大真面目な顔をして答えた。
「はい。人の命に関わることですから。」
その回答に喜びを隠せない劉煌は、大きな笑顔で「うん。」と嬉しそうに頷いた。
そして何か思いついた彼は、突然翠蘭に向かって、「インターンの研修プログラムをもっと実戦的なものにした方がいいかもしれないわね。後で一緒に考えましょう。」と提案し、インターン達に向かっては、くぎを刺した。
「知識を入れることは大事なことよ。だけどその知識に振り回されないように。あなた方が診るのは人で、知識をそこに見るのではないのだから。では、悪いけど、講師の講義時間は終了よ。」
そう言うと劉煌は翠蘭の手を引っ張って教室からあっという間に出て行った。
劉煌は御典医長室に翠蘭を連れていくと、「御産婆さんの件、今晩でもいいって?」とすぐ用件に入った。
「ええ、急な出産がない限り大丈夫だそうです。」
「じゃあ、早速行って話を聞こう。」
彼はまた翠蘭の手を引っ張って廊下に出ようとした。
しかし何かに気づいたのか、突然劉煌は歩くのをやめると、キョトンとしている翠蘭の方を振り返って、「ごめん。大事な事を忘れていた。」と言った。
翠蘭は自分に何か至らない点があったのか心配になり不安げな顔をして「何を…」と聞いている途中で、既に劉煌の唇は彼女の唇の上に乗っていた。
「今日は誰にも邪魔されずに済んだ。」
そう言いながら唇を離すと、劉煌は翠蘭を彼の胸にギュッと抱きしめてキスの余韻に浸った。
翠蘭は劉煌の胸に右頬をつけて抱きしめられていた。
彼女は劉煌の背中が好きだった。
彼女は、背中はその人の本質が顕れる場所だと感じている。
それは身体の前側は自分で見えるのでいかようにも取り繕えるが、背部には目が届かないからだ。誰でも他人に見せられないものがあり、それが後ろへ後ろへと押しやられて形成された背中は、誰にも嘘をつくことができない。
彼女は小さい頃から、沢山の人に背負ってもらった。
自分より遥かに年上の大人の男でも、大きそうに見えて実はとても小さな背中だったり、それは実際に計れば本当は縦も横もとても大きいのだろうけれど、彼女の感覚的にあまりの小ささに、わずか6歳の彼女が背負われながら、思わず恐縮してしまったことも多々あった。
それなのに、自分より少し背が高い位の少年だった9歳の劉煌の背中は、実際には大人の1/3にも満たない大きさなのに、6歳のよその国に初めて来た皇女には、本当に誰よりも広くたくましく、優しくて、彼女を大きく包み込んでくれるような安心感があった。
そして、今、劉煌の腕の中で、彼女は、そのずっと6歳の時から憧れ続けてきた彼の背中と同じ位、彼の腕に抱きしめられ、彼の胸に自分の顔をうずめていることが好きになっていることに気づいた。
やがて彼女も勇気をふり絞って両腕をおずおずと彼の背後に回すと、彼はさらに彼女を強く抱きしめ、二人はしばらくそのままの状態で何も言わずにただ抱き合っていた。
「本当はずっとこうしていたいが、残念だがそうもいかない。」
本当に残念そうに劉煌が言うと、翠蘭は劉煌の背中に回していた腕をすーっと自分の体側に戻し、彼を見上げて、「はい。」と言ってから優しく微笑んだ。そんな彼女を見て、劉煌はまた彼女にキスしたいという自分の内なる情動をグッと押さえると、「さあ、御産婆さんのところに話を聞きに行こう。」と自らを奮い立たせた。
~
西乃国京安で唯一の御産婆である朱明は、京安の街の中心に家を構えていた。
幸い、その日はまだどこからも呼び出しが無く、朱明は自分の家でくつろいでおり、翠蘭が訪ねると、「あー、来た来た。もう来たのかい。早いねー。」と嬉しそうに声をかけた。
朱明はいそいそと二人を中に入れ、すぐに湯を沸かして茶でもてなした。
「しかし、驚いたね。御典医長が自ら私の話を聞きたいなんて。張麗さんからの話だから嘘の訳ないとは思っていたけど、本当に、しかもこんなに早く来るなんて驚いたよ。」
翠蘭は朱明の発言に驚いて思わず口を開いた。
「私のことをご存知だったのですか?」
「京安で張麗さんのことを知らない人はモグリですよ。まず女で医者ってだけだってインパクトがあるのに、しかも凄腕だからさ。」
朱明は笑顔で翠蘭にそう言うと、今度は劉煌に向かって「そしてあなたは京安中の嫌われ者よ。」と言ってまた笑った。
劉煌はこの聞き捨てならないセリフに「どうして、私が嫌われ者なのよ。」と突っかかると、朱明は大笑いしながら、「だって、あなたが張麗さんを連れて行っちゃったじゃない。みんなブーブー言っているわよ。」とからかった。
劉煌は朱明の言っていることを理解すると、今度は凄く真面目な顔をして「そんなに京安は医者が不足しているのかね。」と聞いた。
朱明は、これですぐにこの御典医長は本気で医療に取り組んでいると悟ると、やはり真面目な顔をして「悪いけどさ、ここの町医者はごろつきばかりさ。張麗さんが居なくなったらもっと悪くなっちまった。努力しなくても患者が来るからね。」とこぼし、大きなため息をついた。
これには翠蘭も困惑してしまい、どうしようという顔で劉煌を見つめた。
翠蘭の視線を感じながらも劉煌は、彼女の方には向かずに朱明に向かって切り出した。
「朱さん、現状を教えてくださってありがとう。一応町医者の研修はやっているのだが、まさかそこまで酷いとは。それも帰って陛下に報告するが、今日は他でもない、京安の妊婦の動向を知りたくてやってきた。」
「それも驚いたんだよね。医者が妊婦のこと知りたいってさ。ま、張麗さんは女だからともかく、男が妊婦のこと気にするってさ。昔から出産は穢れだから男子禁制と決まっているのに。」
朱明は少し顔を曇らせて言った。
この発言は劉煌にとって青天のへきれきで、彼は大真面目に語った。
「出産は穢れだと?陛下は出産は神聖なことだと考えている。この国の未来を担う大切な子供たちが生まれるというのに、その過程を穢れだなどと考えるのはとても残念だ。」
あまりの意識の違いに朱明が呆気に取られていると、劉煌は続けて聞いた。
「今あなたの所に、どれくらいの数の妊婦が集まっているのだろうか。私たちの予測では同じ時期にかなりの数の女性が妊娠していると踏んでいるのだが。」
朱明の意識はようやく地上に舞い降りてきて、グッと地に足をつけると「御典医長の推察どうりですよ。実は、今三万人位から相談を受けています。」とサラッと言った。
すると今度は、劉煌が素っ頓狂な声で「さ、三万人だと!?」と叫んで、彼の意識が地上から離れてしまった。
朱明は大きなため息をつきながら、「そうなんですよ。私もはじめのうちは、良かったねと思っていたんだけどさ、こう次々どんどん妊娠しちゃうとさ、出産の時どうしたらいいのかって実は途方に暮れていたの。」と言って劉煌の方をチラッと見たが、彼がここに居ないことがわかると、今度は翠蘭の方を見て頷いた。
翠蘭は、劉煌をチラッと見ると、「三万人、三万人」と念仏のように唱えている劉煌を無視することに決めて、朱明に向かって説明し始めた。
「朱さん、実は陛下は、そのことにとても心を痛めておられて、出産用の医療施設を作ろうとお考えなのです。今の御産婆さんの形式では、それぞれのご自宅におうかがいしての出産ですから、妊婦さんお1人につき御産婆さんお1人になりますよね。それでは、来年の出産ラッシュに対応できないので、出産目前の妊婦さんたちを1か所の医療施設に集めて、みなさんそこで出産…」
彼女がそう言い終わらないうちに、朱明は、「それなら現状よりは少しはマシだけど、それでも私だけでは到底無理だよ。なんたって私もその頃には80になるし。」と言うと、今度は朱明の実年齢を知った翠蘭が地上から離れて行ってしまった。
お陸との付き合いが長い劉煌は、女性の年齢不詳さには免疫がついているので、翠蘭と入れ違いに地上に戻ると、「だから医師に研修させて、出産ラッシュに対応しようと考えていたのよ。」と説明し、「ね、朱さん、考えてくださらないかしら。医師への御産婆研修の講師になっていただくのと、出産ラッシュに少しでも役立つ医療施設の構想へのご協力を。勿論報酬はお支払いするから。ご希望の金額を言ってくださいな。」と申し出ると、朱明は珍しい物でも見るかのような表情をして、劉煌をしげしげと見てから、「本気で言っているんだね。」とうなった。
劉煌は微笑みながら頷くと、朱明も頷きながら「うん、わかった。考えてみるよ。ただ、私の方も報酬以外にもあなたに考えてほしいことがあるんだ。」と言った。
その言葉に劉煌が不思議そうな顔をしていると、朱明は、おもむろに話し始めた。
「京安には御産婆は私しかいない。しかも私は80だ。医者にも教えるが、女性で御産婆をやりたいと思う人に是非私の想い・経験を伝えたい。
何を言われるのかと紗に構えていた劉煌は笑顔になり朱明の手を取ると、嬉しそうに答えた。
「それは大変素晴らしいお考えです。御産婆養成機関も作りましょう!」
彼はやっと地上に戻ってきた翠蘭に向かって「構想にもう一つ加わった。」と声を弾ませて言った。
そして朱明に向かって「私たちは夕飯を食べに行きますが、よろしければご一緒にいかがでしょう?」と誘うと、朱明は嬉しそうに話に乗った。
「じゃあ、お隣さんで食べませんか?なかなか面白い料理を出す若手の料理人がいてね。」
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