第九話 私の婚約者だった方の話~残り香~
微笑みながら涙を流す彼女の顔が胸の中で消えない。
婚約者だったロメーヌは、自分の人生を終わらせることでニコライの恋を実らせてくれた。
ロメーヌの兄、ボワイエ王国の国王に命じられてニコライに付き添ってきた近衛兵は、自国の大切な王女を傷つけた隣国の王に怒りを覚えたらしく、都の大広場へ戻るまでの間ずっと睨みつけてきた。
汚物を見る侮蔑の瞳だった。
不敬だと咎めることが出来る立場でないことはニコライもわかっていた。
スタンには、突然送られてきたロメーヌの葬儀の連絡に驚いていたとき事情を話した。
従弟は悲しげに、とても悲しげに溜息をついて、そうだったんだ、と呟いた。
ロメーヌの葬儀を終えてベルナールへ戻ったニコライは、鍵の壊れた引き出しから彼女に贈られたハンカチを取り出した。
一年近く顧みられることのなかったそのハンカチからは、夏の花の香りが消えていた。
不器用な手による刺しゅうは、涙で滲んだ瞳に映すことでさらに歪んで見えた。
愛しいモーヴェと結婚できて、ふたりの子どもを嫡子にすることもできる。
願っていた以上の結末だ。なのにニコライは涙を止めることができなかった。
胸に大きな永遠に塞がらない穴が開いてしまった気がした。
それでもニコライは信じた、信じようとした。
自分は幸せになる。愛する女と結婚して、だれ憚ることなくふたりの子どもを迎えられるのだ。幸せになれないわけがない、と。
まして婚約者だったロメーヌの人生まで終わらせてしまったのだ。幸せにならなくては罰が当たる。
ニコライとの結婚に当たって、モーヴェの実家である大公家の領地はボワイエ王国に返上されて王領となった。
モーヴェと彼女の子どもの持つボワイエの王位継承権は放棄することを約束させられた。ニコライが保証人となって書類にも署名した。
少し冷たいような気もしたが、ニコライとモーヴェがボワイエ王家にしたことを考えれば優し過ぎる対応だろう。
彼女の腹が目立たないうちにと結婚式は迅速に、それでいて密やかに行われた。
花嫁のベールの下で揺れている鮮やかな赤毛が瞳に映ると、冬の暖炉で優しく迎えてくれる炎のようだった違う少女の髪を思い出した。
花嫁のベールを上げて煌めく青い瞳に見つめられると、夏の短い夜と長い昼の狭間の空のような深い色の瞳を思い出した。
(……ああ、道理で懐かしいと思ったわけだ)
結婚して半年が過ぎても、モーヴェの腹は膨らまなかった。
問い詰めるニコライに彼女は言った。
「ニコライ様を愛するあまり子どもが出来たと思い込んでしまったのです」
「ニコライ様に捨てられるのが怖くて嘘をついてしまったのです」
「ニコライ様に喜んでいただきたかったのです」
モーヴェの発言はコロコロと変わっていった。
結論はひとつ、彼女は身籠っていなかった。
もちろん、だからといって離縁など出来るはずがない。
ニコライはこれまで以上に仕事に打ち込むようになった。
王としての務めでもある。
執務室の机からかつての婚約者からの手紙を取り出して読み返していたら、モーヴェと出会う前もこうして心を休めていたのだと思い出した。
今、引き出しの鍵は直されている。
──ロメーヌ姫からの手紙や贈り物を彼女以外の女性が見たら気を悪くする。
そう言ってすべて処分しようとしたスタンにニコライが泣きついて、最終的に鍵を直して常に施錠することで互いに譲歩したのだった。
仕事に疲れたニコライは、ボワイエ王国から届かなくなった栄養剤の代わりを自国の王宮医師や薬師に作ってもらった。国王であるニコライが飲む許可を得るため、隣国の王女は調合法を明かしてくれていたのだ。
しかし、いくら飲んでもニコライの体調は回復しなかった。
製作者が嘘をついていたのではない。ほかの人間が飲むと元気を取り戻していた。栄養剤が効かないのはニコライの心の問題だろうと医師達は言った。