第六話 私の婚約者だった方の話~恋の過ち~
本来なら新婚生活を送る予定であったし、即位してもう十年以上経って仕事にも慣れている。
婚約者であるロメーヌの十八歳の誕生パーティ後のニコライには時間の余裕があった。いや、無理矢理時間を作り出した。
誕生パーティから一ヶ月ほどでいそいそと隣国へ出かける自分を笑顔で見送ってくれたスタンに、ニコライは恋した相手がロメーヌでないことを話していなかった。
「モーヴェ様を覚えていらっしゃいますか? 私の従妹で大公令嬢の」
「ああ!」
予定なく訪れたボワイエの城で、ロメーヌの口から彼女の名前が出ただけで胸が弾んだ。
婚約者である隣国の王女に対する裏切り行為だとわかっていたが、浮かれる声を止めることはできなかった。
顔を背けたのは罪悪感からではなく照れ臭さからだったせいか、目の前にいる婚約者の表情の変化に気づくこともなかった。
「今日はお義姉様と王都へ買い物に出ていますの。少しでも気晴らしになれば良いのですが」
「……そうだな」
気晴らしという言葉で、初めてモーヴェの実家である大公邸が火事で焼け落ちたという話を思い出した。
彼女の状況も考えずにひとりで浮かれていた自分が恥ずかしくなった。ロクに話したこともないモーヴェに自分の気持ちを知られたら、軽蔑されてしまうのではないかと不安になった。
帰り際ロメーヌにハンカチをもらって交わした言葉の記憶は残っていない。
ロメーヌが刺しゅうしてくれたハンカチは、ベルナールの王宮に戻ってからいつものように執務室の机の引き出しに放り込んだ。
婚約者からもらった手紙や贈り物は大きささえ合えば、すべてその引き出しに入れてある。鍵の壊れた引き出しだ。
スタン曰く、ロメーヌ姫が嫁いできた後にこれを見つけたら感激するよ、とのことだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
モーヴェが大公領に戻ったという報告が届いたのは、ニコライの気持ちとは無関係だった。
彼女の実家である大公家は、ベルナール王国と隣国ボワイエ王国の国境に接している。カバネル公爵領とも近い。
ボワイエの大公領の動静はベルナール王国にまで波及する。実際大公邸が火事で焼け落ちてからしばらくは、国境に近い貴族の領地で食料品の買い占めが相次ぎ王都の物価にも影響が出た。世の中なにが起こるかわからない。明日は我が身かもしれないと思ったのだろう。
ニコライは仕事の気晴らしに遠乗りしてくる、と言って王宮を出た。
国王の想い人がだれであるかをまだ知らないスタンは、やっぱり笑顔で見送ってくれた。
そして大公領の関所で止められたニコライはモーヴェと再会した。大公令嬢の彼女は、ニコライが領地に入ることへの許可を与えてくれた。
「ロメーヌ様の誕生パーティでお会いしてからずっと、もう一度お会いしたいと思っていたんです」
そう言ってモーヴェは微笑んだ。
従姉の婚約者にそんな言葉を告げること自体が間違っているなどという考えは、ニコライの頭には浮かばなかった。
以降のニコライは、十日と空けずに大公領へ通い詰めた。
ふたりが結ばれるまでに時間はかからなかった。
モーヴェは初めてではなかったが、ニコライはなにも聞かなかった。
彼女の恋人か婚約者は大公邸と共に炎の中で消えてしまったのだろうと思ったからだ。
恋の過ちは甘く心地よい。
ニコライはモーヴェに溺れた。
自分の立場も予定されている未来も思い出すことはなかった。ようやくそれを思い出したのは、彼女に妊娠を告げられたときだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……モーヴェが身籠った。私の子だ」
ロメーヌの瞳から光が消えるのがわかった。
無理もない。ニコライと彼女の結婚式が行われる一ヶ月ほど前に言い出すような話ではなかった。
それでもニコライは話し続けた。
「私は、君との婚約を破棄したくはない。君の侍女として彼女を迎えても良いだろうか」
婚約者と会う前に、彼女の身内に散々罵倒された恥知らずな案を口にする。
ボワイエの国王夫婦と先代の意見とは違う。
彼らは口を揃えてモーヴェの腹の子を流すよう言った。
ニコライは隣国の国王で、モーヴェはボワイエの大公令嬢だ。
ふたりには責任がある。恋の過ちに溺れた罰は受けなくてはならないというのだ。
虚ろな表情で首を横に振って拒むロメーヌに、ニコライは新たな案を投げかけた。
モーヴェの産んだ子どもだけ引き取るのはどうだろう、引き取らないまでも養育費を払わせてもらえないか──ロメーヌは無言で首を横に振り続けた。
結局その場で結論は出なかった。
すべてが解決するのはその一か月後、本来ならニコライとロメーヌの結婚式だったはずの日に、彼女の葬儀が行われたときだった。