第三話 私の婚約者は渡しません。
先月の私の誕生パーティは、なんの問題もなく終わりました。
そして今日私は、一ヶ月ぶりに訪れたニコライ陛下と対面しています。
ここは私の部屋に入ってすぐの応接間です。婚約者といえども結婚前ですので、ちゃんと近衛兵とメイドが同席しています。
「お会いできて嬉しいです、ニコライ陛下」
「あ、ああ……」
先触れはあったものの、予定にはない突然のご訪問です。
私の部屋に彼女がいるはずないとわかっているでしょうに、陛下の瞳はだれかを探して動いています。
そういえば、と私は口を開きました。
「モーヴェ様を覚えていらっしゃいますか? 私の従妹で大公令嬢の」
「ああ!」
力強く頷いた後で、ニコライ陛下は恥ずかしそうに私から視線を逸らしました。
私は笑い出したくなりました。笑って笑って最後は泣いてしまえたら良かったのに。
言葉の続きを欲して、陛下の視線が私に戻ってきます。焦らすようにテーブルの上のお茶を飲んで、私は応えます。
「今日はお義姉様と王都へ買い物に出ていますの。少しでも気晴らしになれば良いのですが」
「……そうだな」
見てわかるほど気落ちした彼に、今日はどんなご用事ですか、と聞くのはやめにしました。
婚約者になって十年以上、年に一度、夏の誕生パーティにしか会いに来てくださらなかったニコライ陛下。我がボワイエとベルナール王国の都は、馬を疾駆させれば半日で往復できる距離だというのに。
それは忙しさのせいではなく、私を愛していらっしゃらないからだったのですね。結婚を一年先延ばしにするほど多忙だったはずなのに、恋に落ちた相手のためならば時間を作って一ヶ月で訪れてくださるなんて。
「忙しいところに邪魔をしたな。私はもう帰らせてもらうよ。……君の顔を見られて良かった」
メイドに用意させたテーブルの上のお茶も冷めていないのに、目当ての相手がいないというだけで陛下は立ち上がりました。
これで誤魔化せるつもりなのでしょうか、これで疑われないとでも思っているのでしょうか。
……思っているのでしょうね。だって私は、顔を見られて良かったという社交辞令だけで胸がときめく安い女なのですから。
「お待ちください、ニコライ陛下」
「ロメーヌ?」
私は畳んだハンカチを取り出して陛下に渡しました。
「本当はもっと刺しゅうの腕が上達してからお送りするつもりだったのですが、せっかくお会いできたので」
「あ、ああ。ありがとう、大切にするよ。……ロメーヌの香りがするね」
終わる直前の夏の花の花壇で香りを移したハンカチです。
私と同じ香りのハンカチです。
どうか忘れないでください。あなたの婚約者が私だということを、両国の関係を鑑みれば婚約破棄など不可能だということを。
畳んで渡したハンカチを広げ、刺しゅうを見たニコライ陛下が苦笑なさいました。
「も、申し訳ありません。私、刺しゅうは苦手なのです」
「なんだか信じられないな。薬の調合だなんて難しいことをやってのける君が、刺しゅうが苦手だなんて。ああ、いや、私はどちらも出来ないが」
「それは……」
あなたのためです、その言葉を飲み込みました。
母君の命と引き換えに生まれた陛下は、最愛の妻を失った先代国王が気鬱の病で早逝されたため幼くして即位なさいました。
一年に一度しか会わなくてもお疲れでいらっしゃることはわかりました。だから必死で勉強して、疲労を回復する栄養剤を作れるようになったのです。陛下に差し上げた後でお兄様に、隣国の王宮医師や薬師を軽んじる行為だと怒られてしまいましたっけ。
ハンカチを無造作に懐へ入れて、ニコライ陛下が体を曲げて私に顔を近づけます。
そんなことあるはずないのに、キスされるのではないかと期待する自分が悲しくなります。
そっと私の頭を撫でる陛下は誕生パーティのときのように前髪が乱れています。お仕事の合間を縫って急いで来られたせいでしょう。
恋のために馬を駆り前髪を乱れさせているのは、私の知らないニコライ陛下です。
私が知っている陛下は、真面目で優しくて理知的で、恋を知らない男性でした。
結婚したら、一緒に過ごしたら、私に恋してくださるかもしれないと夢見ていました。たとえ運命の恋に落ちてくださらなかったとしても、お互いに愛し愛されて生きることはできるだろうと信じていました。
「本当にありがとう、ロメーヌ。……君がいてくれるから、私は王として頑張れるんだ」
「光栄です、陛下」
私は城門まで同行して、馬に乗って去っていくニコライ陛下を見送りました。
嫉妬に狂った心には気づかれなかったでしょうか。
ボワイエ王国の王女に相応しい態度を取れていたでしょうか。だけどどんなに努力したとしても、陛下が私に恋することはないのです。あの方の心はもう、モーヴェ様でいっぱいなのですから。いつか妻として愛される日が来たとしても、心から恋される日は永遠に来ないのです。
それでも……それでも私は、ニコライ陛下をモーヴェ様に渡すつもりはありませんでした。