第二話 私の婚約者が恋に落ちました。
微笑むニコライ陛下に私は答えました。
「驚きました! とても驚きました。どうしてこんなことを?」
「……従弟のスタンに勧められたんだ。ただでさえ結婚を一年先送りにして悲しい思いをさせているのだから普通に祝いに行っただけでは駄目だ、一度訪問出来ないと告げてからお忍びで行って驚かせてみてはどうか、とね」
ニコライ陛下の従弟のスタン様は、ベルナール王国の公爵家のご令息です。
陛下よりふたつ年下なので私と同い年です。
よく陛下からお話を伺いますが、まだお会いしたことはありません。陛下よりも小柄だと聞いているせいか、同い年にもかかわらず弟のように感じています。お仕事のできるスタン様に王妃として認めていただけるかどうか心配です。
「……ああ」
「陛下?」
陛下は籠手を外した指先で、そっと私の髪を掬い上げました。
「ロメーヌの香りだ。兜をかぶっていたときは、自分の汗の匂いしかしなかった」
「は、はい」
「……あ、すまない」
「い、いいえ」
私は嬉しさと照れ臭さで胸がいっぱいになって俯きました。
鎧の中の暑さでお疲れだったのでしょう。
いつものニコライ陛下はこんな大胆なことはなさいません。幼いころからの婚約者だからか、私に魅力がないからか、いつも妹のようにしか扱ってくださらないのです。……いえ、まあ、さすがに実の兄とはまるで違うのですけれど。
私は、なんとなく辺りを見回しました。
家臣達と歓談していたお兄様が、私に気づいて片目を閉じて見せます。
もしかしたら私以外の家族はみんなニコライ陛下がお忍びでいらっしゃることを知っていたのかもしれません。両親やお義姉様の視線も感じます。……驚かされた代わりにと唇へのキスをおねだりするのは無理そうです。
「ロメーヌ?」
「あ、いえ、なんでもありません」
キスしてほしくて周囲の様子を探っていただなんて、恥ずかしくて言えません。
たぶん言わなくて良かったのでしょう。
子どものころから王として公務に携わっていたニコライ陛下には、とても生真面目なところがおありですから。はしたない娘だと思われてはたまりません。
「そうでした。私、レモン水を持ってまいりますね!」
「パーティの主役が使い走りのような真似をするものではないよ。……私にお任せください、姫」
跪かれて、頬が熱くなりました。
物語に出てくる運命の恋人同士のようで、なんだか心臓の動悸が激しくなります。
ニコライ陛下がいつもと違うのは、鎧の暑さのせいだけでなくお忍びの解放感もあるのかもしれません。いつもは隣国の国王としての公式訪問ですものね。結婚したら……いつもこんな風に接してくださるのでしょうか。
「君もレモン水でいいかい?」
「はい!」
「……ロメーヌ様ぁ! そちらの方はどなたですの? 私にもご紹介していただけませんか?」
「モーヴェ様」
ニコライ陛下が体を起こして歩き始めたとき、モーヴェ様がやって来ました。
婿候補達の売り込みに疲れていたのかもしれません。ニコライ陛下は私の誕生パーティにしかいらっしゃいませんし、国境近くの大公領で生まれ育ったモーヴェ様がパーティに出席されるのは今年が初めてです。
どうせ隠れてキスなど出来そうにないですし彼女にも陛下を紹介しておきましょう。私は唇に人差し指を当てて見せました。
「ご紹介いたしますけれど、今日はお忍びでいらっしゃっているので会ったことは内緒にして差し上げてくださいませね。この方は私の……」
「……」
「……陛下?」
ニコライ陛下は無言で、呼吸すら忘れてモーヴェ様を見つめていました。
鮮やかな赤毛に大きな青い瞳、モーヴェ様は華やかな美少女です。
婿候補達は大公家の地位や財産だけでなく、彼女の美貌にも惹かれているのでしょう。
同い年で同じ赤毛で青い瞳でも、私と彼女はまるで違います。私の髪の赤色はくすんでいて、瞳の青も暗く沈んでいます。
明るく社交的な彼女と内気で引っ込み思案な私は性格も正反対です。
彼女が城に引き取られた直後に、モーヴェ嬢が太陽ならロメーヌ王女は月だと言っていたのは、どなただったでしょうか。
私は、ニコライ陛下が好きでした。彼に恋していました。
幼いころから、それこそ初めて会った瞬間から心を寄せていました。誕生と同時に母君を失った彼を癒すのは私の役目だと自惚れていました。
ずっと彼を見ていた私だから、わかりました。わかってしまったのです。
──彼は今、恋に落ちたのです。