第十五話 私があなたのために出来ること
隣国ベルナール王国の王宮に着いたのは夕方、ほかの季節なら星が輝いているころでした。
スタン様が話を通してくれていたので、王都の城門でも王宮の入り口でも誰何を受けることはありませんでした。そのまま初めて入ったニコライ陛下の寝室で、あの方はベッドに横たわっていました。
私が部屋に入っても頭を動かして確認する気力もなさそうなのに、陛下は呟くようにおっしゃいました。
「……夏の花の香りが、する……」
陛下の周りにはベルナール王宮の医師や薬師達が取り囲んでいます。
どなたも暗い表情です。
「……ロメーヌ? 君? 君なのか?」
「はいっ! ロメーヌが参りましたっ!」
か細い声に問われて、なにも考えずに駆け寄ります。
この部屋にモーヴェ様の姿はありません。ニコライ陛下がご自分で毒を飲んだ証拠がないので、ひとまず王宮の敷地内にある塔で軟禁されているのです。
このことについてもお兄様の許可は得ているとのことでした。
ベッドの傍らで膝をつき、掛け布の端から覗いていたニコライ陛下の手を自分の両手で包みます。
大きな手は驚くほど力がなく、体温を感じないくらい冷え切っていました。
ここに来て、私はスタン様に話を聞かされたときに覚えた違和感の正体に気がつきました。
モーヴェ様が持っていたと思われる大公領の毒は、本来は聖獣様がボワイエ王国に住み着く前、大氾濫の前兆があったとき町の周囲の森に撒いて魔獣を弱体化させていたものなのです。
大氾濫の進路に沿って撒き、魔獣を徐々に弱らせていきます。人間が口にしても少量なら軽い倦怠感を覚えて食欲がなくなる程度です。それでも大氾濫での魔獣の力を弱めさせられるなら十分だったと言います。
要するに、服用してすぐ自害出来るような性質のものではないのです。
ニコライ陛下は、長期間毒を摂取させられた末にこの状態になっているのだと思われます。
毒だけなら解毒できますが、食事を摂らずに衰弱した体を直すのには時間がかかります。私が送っていた栄養剤だって、ここまで弱っていたら逆に劇薬になるでしょう。
そもそも液体を摂取できるかどうかさえわかりません。
……いいえ。毒はもう解毒されているのだと、私は気づきました。
ニコライ陛下が国王である以上、重臣に裏切られる可能性は常にあります。ですがそれなら即効性のある毒薬を飲ませるでしょうし、解毒と見せかけて止めを刺すでしょう。
今の陛下は解毒しても体が衰弱しきっていて回復しない状態なのです。
「……ロメーヌ……」
「はい、陛下」
答えても陛下の耳には入っていないようです。
私の背後に立っていたスタン様がおっしゃいました。
「ロメーヌ姫、うわ言です。お気づきだと思いますが、陛下の解毒は済んでいます。けれど弱っていたところに普段より濃い毒薬を飲まされたことと、そんな状態で解毒を強行したことで体が衰弱しきってしまって」
大公家の毒は酷く苦いため、致死量を飲むと体が勝手に吐き出してしまうそうです。魔獣用に撒くときも蜂蜜を混ぜるなどして味を調えると聞きました。だから薄めて使い徐々に弱らせることにしか使えないのです。
陛下が飲み込んでしまったのはそれまでの継続的な摂取で体が弱り、味覚も衰えていたからでしょう。
あるいはだれかに無理矢理飲まされたか、です。
「解毒剤であっても副作用からは逃れられませんものね」
「陛下はだれが声をかけても答えません。ただずっとあなたの名前だけを呼んでいるんです」
スタン様は素人調合師の私の力を期待していたのではなく、ニコライ陛下の最期に会わせてくださるために連れてきてくださったのでしょう。
「……ニコライ陛下……」
私はどこで間違えてしまったのでしょう。
あの日、薬の調合を始めたのはあなたのためだと伝えれば良かったのでしょうか。ハンカチを渡したときにはっきりと、私を忘れないでくださいと言えば良かったのでしょうか。……十八歳の誕生パーティで、キスしてくださいとお願いしておけば良かったのでしょうか。
どちらにしろ、もう遅い──
「ロメーヌ姫。このような状態の陛下に使用しても意味はないかもしれません。ですが、よろしければ、聖獣様がお預けくださった聖珠をお使いいただけませんでしょうか」
「あ」
そうでした。聖獣様の聖珠があったのです。
大氾濫を防ぐには小さいし、ニコライ陛下は呪われているわけではありませんが、なにか効果があるかもしれません。聖獣様のお力か、迷いの森は植物の生長が速く薬効なども強まっています。生き物もほかの土地より大きく長生きのように思えます……虫も。
聖獣様がお創りになった聖珠なのですから、近い効果を期待してもいいかもしれません。
「も、もちろんです。ニコライ陛下のためにいただいたものなのですから」
スタン様に持っていただいていた荷物袋を受け取るためニコライ陛下から離れると、
「……ロメーヌ?」
悲し気に私を呼ぶ声が耳朶を打ちました。
胸が締め付けられて、呼吸が止まりそうになります。
こんな状態だというのに、陛下は私が手を握っていたことに気づいていてくださったのでしょうか。
「大丈夫ですわ、ニコライ陛下。きっと、きっと、聖獣様のお導きがございます」
私は荷物袋から取り出した聖珠をベッドの上の陛下に翳しました。
私が陛下のために出来ることは、今はこれだけなのです。
聖珠の淡い光が強くなり、それはやがて──