ζε 彼 紗良クルス
1939年9月2日。紗良は人生を終わらせようと、窓から身を落とす。堕ちた先で出会った<彼>が、18歳の誕生日に迎えに来ると言う。信じることは出来ないけれど、生きていなければ真偽を確認することができない。確認するために生きていくしかない。お姫様だっこで自宅に送り届けられ、部屋に入るともぬけの殻。リビングに残されたパスポートに記されている紗良の生年月日は2007年。
§ プロローグ
(I'd rather end my life)
人生を終わらせることが紗良クルスの願望。
「悩みがあるのなら聞くよ」
よく放たれる台詞。
(あなたに話して解決する悩みならば、既に他の誰かが解決しているわ)
金髪碧眼、整った目鼻立ちで欧米的な外見。
外見にコンプレックスがあるわけではない。むしろ好まれやすい容姿をしていると自覚している。
交際を申し込まれるのは日常茶飯事。
ただ、現在までに交際した経験は無い。
「交際して、どうしたいですか?」
紗良は必ず相手に問う。特有の事情があり、それが最も重要なことだから。
返ってくる言葉は『大切にする』『幸せにする』『ずっと一緒に居たい』――実現不可能な内容ばかり。それらは望んでいる返答ではない。だから一度も交際に至れたことが無い。
もしも相手が実現可能な返答をしてくれたなら、受け入れようという思いはあるから、ハードルは高くないはず。それなのに、誰一人として条件を満たしてくれない。
実現可能な願望――例えば『キスしたい』と返答されたならば、物理的に可能なことだから受け入れることを検討する余地はある。経験は無いけれど、単に機会が無かっただけ。望んでそうしているのではないし、関心が無いこともない。とはいえ、人生を終わらせることが一番の願望であって、相手が誰でも構わないという自暴自棄な状態ではない。
交際を始めてもすぐに別れなければならず、二度と会うことは無い――。
パパの任地が変わる度、点々と移住し続ける根無し草。短いときは二週間、長いときは一年程の期間を経た後、国を跨いで移住する。だから生活圏が定まっていない。
紗良には出立直前に知らされるから、いつ、どこへ移住するのか知らない。知っていることは、同じ地へ戻った前例は無いことのみ。
それを踏まえても感情移入させられてしまうほどの相手でない限り、受け入れることは出来ない。恋仲でなくても感情移入した分だけ、別れの度に憔悴させられる。
§ 彼
一九三九年九月二日。フランス。
また転校――パパから「明日引っ越す」と告げられた。前日に告げられるのは、いつものこと。同級生に別れを告げる機会は無い。別れるための出会いと別れを重ね、心は疲弊する。交友関係を結べば傷付く。常に孤独であり続けることが精神を保つ唯一の手段。
(移住先では、何歳の誰として過ごすのだろう……こんな生活、もう続けたくない)
長い時間と労力を費やし、幾度となくパパに説得を試みてきた。
「Life like a grass without roots, I don't want to continue anymore」
〝Life〟の意味は〝生活〟が一般的だけれど〝生命〟や〝人生〟という意味もある。命を断つ覚悟で訴えているにも関わらず、パパは取り合おうとしない――。
交渉出来る機会は今夜が最後。明日にはここを発つ。
――あと二時間で日付けが変わるのに、まだパパは帰宅しない。交渉の機会を与えないつもりだろう。
(きっと、相手するのが面倒だと思っているのね。パパがその気なら、宣告通り人生を終わらせてやるわよ)
紗良の心は既に空っぽ。耐えられる程丈夫でもない。
現世に遺したい言葉は無いけれど、蔑ろにし続けたことを後悔させてやりたいという感情は抱いている。
紗良を監視するために設置されているカメラのレンズを掴み、窓側に向ける。レンズをまっすぐ見つめたまま、窓際まで後退りし後方へゆっくりと身体を落とす。
*
激しい衝撃を受ける。三階からの落下。生きていられるはずは無いのに、何故か途絶えるはずの意識は継続している。
(何故続いているのかしら)
「いてて……抱えられると思ったのにな」
尻の下から聞こえる声。
「お尻の妖精? 死神?」
「どっちも違う。どいてもらっていいかな」
尻を上げると、下に人間が横たわっていた。
「踏まれるために、そこに居るのかしら?」
「天使が降りてきたから、受け止めようと手を伸ばした結果がこのザマさ」
「無様ね」
「酷い言われようだな。何故降りてきたんだい?」
「終わっている予定だったから、降りた後のことなんて知らないわよ」
「それなら、僕と出会うためということにしよう。要らないのだから、僕のものにして構わないよね」
「無理ね。明日ここを発つもの」
(終わらせようとしたのに、何故明日のことを気にしているのかしら……)
「明日までは大丈夫だね」
紗良が〝残り数時間しかない〟と捉えている時間を、<彼>は〝まだ数時間ある〟と捉えた。
(正反対の考え方……<彼>なら私の問いにどのように答えるのかしら)
「私の人生は、あなたが居なければ終わっていたわ。生存し続けてしまった私は『明日』のことを考えなければいけないかしら?」
初対面。会って間もない相手に問う内容ではない。それでも<彼>の考えを聞いてみたくなった。<彼>が出す答えに従うために尋ねた。
「明日が来るまでは今だけを生きればいい。少なくとも今は、今のことを考えるだけで十分」
「そう……それなら明日が来るまでは、あなたのものになってあげてもいいわよ」
立ち上がろうとすると、足取りが乱れよろめく。
腰へすっと伸ばされた手に支えられ、転倒を回避する。
「僕の首の後ろに手を回して」
言われた通りにする。太ももの下側を持ち上げられ、お姫様だっこされた。絵本で見たことはあるけれど、されるのは初めて。
「重くないかしら?」
「全然。天使を独り占めできて幸せだよ」
「恥ずかしげもなく、よくそんな台詞を吐けるわね。誰にでも言っているのかしら?」
「本当にそう思ってるから言っただけだよ。今言わないと、もう言える機会は無いでしょ。だから言った。誰にでもは言わないよ」
(そう……確かに、失ってしまった機会は取り戻せないものね。だからこそ目の前にある機会を大切にしないといけないと考えるのは正しいわね)
<彼>は紗良を抱えたまま歩き始める。体感時間で十五分ほど歩き、あかりが灯っていない雑居ビルの階段を上る。
紗良の社会経験は乏しいけれど、これから何をされるのかくらい想像はつく。抱えられているから、逃げることは出来ない。
(要求を伝える機会はもう無いだろうから、今伝えておかなければいけないわね)
「初めてだから、優しくして……」
<彼>は応答することなく、無言で階段を上り続ける。
「いいよと言うまで目を瞑っていて」
(応えてはくれないのね……ダメ元で要望してみただけ。諦めはついている。<彼>のものになることを選んだのは私なのだから、受け入れるしかないわね)
指示通り、静かに目を瞑る。
*
「もう目を開けていいよ」
腕の中でゆっくりと瞼を開ける。
眼下に広がる街の灯と、空に広がる星々の煌めきが視界を埋め尽くす。
「わぁ……綺麗」
「気に入ってくれたかな。君を驚かせたくて黙ってたんだ」
見上げた先、<彼>の瞳はキラキラと輝いて見える。
首に回している腕にぐっと力を入れ、引き寄せた頬に向け首を伸ばす。
チュッ――初めてキスをした。
「誰にでもしているわけじゃないわよ! これが初めてなんだから」
そう思われることを、真っ先に否定しなければいけない気がした。
顔が熱い。嬉しさと恥ずかしさで、心臓の鼓動が激しくなっていることがわかる。
地面にふわりと下ろされる。
<彼>は屋上に乱雑に置かれている箱の一つから固形物を取り出し、近付いてくる。
(あれで殴られるんだ……結局、そうなる運命なのね。そんなことしなくても逆らうつもりは無いのに……)
頭を下げ、それを振り下ろしやすいようにして待つ。
頬がヒンヤリとする。目を開け視線を動かすと、瓶を当てられていた。
「何してんのさ。ぶどうジュースと赤ワイン、どっち飲む?」
(暴行するつもりは無さそうね)
「ワイン……飲んでみたい」
渡されたグラスに少量だけ注がれる液体。
「どうぞ。お気に召しますかな」
ゴクッ。
「ぶどうジュースじゃないの! 騙したわね」
「あはは! お酒はまだ早いでしょ。飲める年齢になったら注いであげる」
<彼>は真剣な表情になり、目をじっと見つめてくる。
飲める年齢になるまで生きる理由を作ってくれたのだと思っておこう。
「楽しみにしておくわ。でも明日には……」
「どこに居たって必ず見つけ出す。心配は要らないよ」
実現不可能なことを言う人は信用出来ない。高揚していた気分が一気に冷める。
「そんなこと、出来るはずない……適当なことを言わないで!」
「じゃあ、試してみよう。十八歳の誕生日、君がどこに居ても必ず迎えに行く」
「嘘つき……」
「そのときになるまで、わからないでしょ」
「そうだけれど……十六歳から飲酒できるのに、何故十八歳なの?」
「数年前に法律が変わって、引き上げられたよ」
迎えに来てくれることを信じてはいない。それでも、生きていなければ確認することができないから、生きていくしかない。
「そうなのね。それまで生きていないといけないわね」
<彼>を力いっぱい抱きしめる。
(生かしてくれて、目的をくれてありがとう)
「そろそろタイムリミット。今日が終わる前に送り届けないとね」
来たときと同じようにお姫様だっこで運ばれる。
夢のような時間は瞬く間に終わりを迎え、家の前でふわりと下される。
お礼を言おうと振り返ると<彼>の姿はもう無かった。
(お礼は、十八歳の誕生日に……)
*
三階の窓を見上げると、電気は灯っておらず真っ暗。
(パパ、まだ帰っていないのね)
部屋に入ると、何故かもぬけの殻。
リビングの中央に、パスポート、日本行きの航空券、受験票、地図と鍵がぽつんと置かれている。パスポートに記されている国籍は〝JAPAN〟。生年月日は二〇〇七年生まれということになっている。今は一九三九年。
異常であることは私でもわかる。
書き置きには『僕を信じて』とだけ記されている。
(僕……? パパは僕とは言わない。誰が置いたのか。何故パパは私を待たずに発ってしまったのか……腑に落ちない点は多々あるけれど、いくら考えたところで答えはわからない)
§ 共同生活
四月八日。入寮日。念願の安定した生活が始まる。
高校を卒業するまで、この寮で過ごす。もう転居を繰り返さなくて良い。
新たな生活の場は二人部屋。紗良はひとりっ子。親しい友人が居た経験が無い。だから同年代のルームメイトと衣食住を共にすることを熱望した。
二一一号室。
トントントントン。初めて訪れた場所だから、四回ノックする。
(応答が無い。入っても大丈夫かしら。入寮期間は四月五日から八日まで。最終日だから、ルームメイトが先に入居していると思ったのだけれど……)
扉を開けると、おかっぱヘアの人形と目が合う。これは日本の有名な伝統工芸品――。
「こけし!」
「えげつないこと言わはるなぁ。しばくよ?」
「関西弁話した! どこ出身!? 私は紗良クルス。色んな地域を転々としていたから、出身と呼べる場所はありません!」
九月に来日してから七ヶ月経った。日本語の勉強をしている際に関西弁を知り、ハマっていた。
「京都出身の縫胡桃おす」
「京都、ぬいぐるみ……こけし! 覚えました!」
「そんなにいきると、どつきますよ? クーリングオフする方が良さそうやねぇ」
「ごめんなさい! 返品しないでください」
「ほな、どつきますね」
「初めてだから、優しくしてください」
「そないなカミングアウトいらへん」
頭をペシっと叩かれる。<彼>と会ってからは、初めての経験をする度に嬉しいと感じるようになった。もしも、あの時に死んでいたら、知ることが出来なかったものだから。
*
あっという間に六月。日本での高校生活にも慣れてきた。
クラスにはまだ話したことの無い子が大勢居るけれど、紗良にとってそんなことは問題ですらない。出会いと別れを繰り返し続けてきたから、大勢と仲良くしたいという欲求は無い。胡桃と居られるだけで満足している。
授業が終わると誰かと会話したり、寄り道することなく真っ直ぐに帰寮する。
(今日は胡桃とどんな話をしようかしら)
配信や動画を漁り、会話のネタを探す。
*
午後七時。もうすぐ胡桃が帰寮する。
二人で決めた夕食の時間が七時半。それまでに帰ってくる。その後は朝までずっと一緒。風呂を上がり、眠るまでがお喋りする時間。部屋にベッドは二台あるけど、一台で一緒に就寝しているから、ずっとくっついている。
「胡桃とおんなじ関西弁しゃべりよる子見付けたよ」
今日見付けた動画チャンネルは、同年代の女の子が配信してる『ひなまつり』。動画を再生し胡桃に見せる。
「ちゃいます。こら大阪弁やわ」
(京都のお隣さんやん。同じ関西だけれど何かが違うらしい。重箱の隅をつついても空気が悪くなるだけだから、スルーして話を変えよう)
「うちも関西弁話せるようなりたい」
「よー話せてはりますよ」
「ほんまに!? 動画見て勉強した成果やな」
「元気な人やなぁ」
「それ、うるさい人って意味やろ。覚えたよ」
ジト目で胡桃を見ると微笑みかけてきた。
「覚えても、いっこもええことあらへんよ」
「自己満足やからかめへん」
*
夏休み三日目。
パパとは連絡を取っていないから、今どこで何をしているのか知らない。置き去りにされたから、会いたいとも思わない。胡桃が帰省せず寮に残っているから、夏休み中も二人で変わらぬ日常を続けている。
動画配信情報を収集する目的で始めたSNS。頻繁には見ないから気付くのが遅れたけれど、タイムラインは『ひなまつり』の祭ちゃんが視聴者と遊びに行った話題でもちきり。流れてきた『視聴者を踏んでみた』の紹介画像に目を奪われる。
「祭ちゃん海行ったんやって……うわっ、かっこいい! これ見て!」
横から画面を覗き込む胡桃。
「そら、一条羽菜ちゃいます?」
(接点あらへんから顔が思い浮かばん。こないな顔やったかな……胡桃が言うてるんやから、そうなんやろうな)
「うわっ、感動? びっくり? ようわからんけど、凄いな」
同級生に、こないにかっこ良うて惹かれる子がおることに気付かなんだことを悔やむ。
「仲良うなれるとよろしおすな」
〝まつり〟――。
「待って。それなら祭ちゃんって、もしかして日南茉莉!? 海誘ってくれたの断らんかったら良かった」
「後悔しても後の祭りやわぁ」
「今からでも、仲良うなれるかな?」
「仲良うなるタイミングに手遅れはあらへん。夏休み開けたら、声かけるとこから始めたらよろしおす」
*
夏休み明け。
下駄箱で一条さんを待ち伏せる。接点が無いから、用事が無いと教室では話し掛けづらい。
来た――近付いてくる一条さん。
「友達になってください!」
「怪しいのでお断りします」
視線を交わすことなく即答で断られた。
(棘のある華やかさ。ほんまもんの女王様やぁ)
更に惹かれ胸が高鳴る。
*
教室。
アプローチ方法を変える。まずは茉莉と接点を持とう。夏休み中には茉莉から電話を掛けてきたのだから、話し掛けても不自然とは思われないはず。
「茉莉。うちら知り合いよね?」
「せやなぁ。電話番号交換したし」
一条さんの方を見たまま、目を合わせてくれない茉莉。
「謝るの遅くなったけれど、海誘ってくれたのに行けんくてごめんなさい! これから友達になりたくて話し掛けました。今度関西弁教えてくれへんですか? 『ひなまつり』いつも見て勉強してるの」
「かめへんよ。っちゅうか、関西弁めちゃくちゃやで」
ようやく顔を見てくれた。
「やった! 約束ね」
(関西弁を教えることに対して『かめへん』と言ったのかもしれないけれど、友達になることへの返事として受け取ることにした)
改めて一条さんにアタック。
「夏休み、茉莉ちゃんと海行ったでしょ。私も今度一条さんと遊びたい」
「茉莉は何と言っていたのかしら? 今、話していたわよね」
「まだ、知り合いと認識してもらえているだけなので……これから友達になってくれることにはなりました」
「正直なのね。いいわよ。計画を立てているのは茉莉だから、茉莉と決めて」
(『一条さんと遊びたい』と伝えたのに、はぐらかされた……でも一歩前進! 贅沢を言わず、前進あるのみ)