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32 「まるで新婚旅行みたいだ」

 それからしばらくして、久しぶりに遠方の領地からエヴァンス侯爵夫妻がアイヴィー・エンドを訪れた。もちろん、トラヴィスにも会いたいとのことであった。


「もし出来たら、彼らの前でもマスクを取りたい。だが出来るかどうか……」


 出かける前にそう言ったので、私は彼の背中に手を置く。


「トラヴィスの勇気を私は誇りに思う。でも、どうか無理はしないで。今日じゃなくても機会はまたあるから」


 そう声をかけると、彼の顔色が少し明るくなる。


「そうだな。ありがとう……お前は本当に俺の言って欲しい言葉をよく分かっているな」


 私は微笑んだ。


 ◇◇◇


 結果としてトラヴィスはエヴァンス侯爵夫妻の前でもマスクを取ることが出来た。

 

 アイヴィー=エンドの応接間で、彼が小刻みに震える手でゆっくりとマスクを取った時、私の心も震えた。そして私ですらそうなのだから、エヴァンス侯爵夫妻の胸中はいかほどだっただろうか。

 彼らに視線を送れば、二人共瞳が潤んでいた。


「トラヴィス……! セルゲイに聞いてはいたが……、お前……、ついに……」


 揺れる声のエヴァンス侯爵に対し、トラヴィスが頷いてみせる。


「ああ。全て有理のお陰だ」


 すでに挨拶は済ませていて、最初から二人は私に優しかったが、より一層眼差しが穏やかになる。


「本当にありがとう。君になんと言って感謝の弁を述べたらいいのかわからないよ』


 エヴァンス侯爵の隣で、侯爵夫人もハンカチで目頭を抑えながら何度も頷いている。エヴァンス侯爵は優しげな風貌の穏やかな紳士で、侯爵夫人もたおやかな印象を与える上品な人であった。


「トラヴィスが騎士になった時から、いつかは怪我をするかもと覚悟はしていたのだが……。身体を治してくれただけではなく、まさかマスクを取れるようにしてくださるなんて」


 治療師としての私をそこまで評価してくれて、冥利につきる。

 だがこれに関しては違う。


「いえ、私の力ではありません。全てトラヴィス様がご自分でお決めになられたことですわ」


 そう、トラヴィスが自分で決めたこと。

 だが私の隣でトラヴィスが首を横に振る。


「有理がいてくれなかったら、俺がマスクを取れたとは思えない。お前のお陰で強くなれたんだ」


 そう言って彼が私の手を取る。


「こうして有理が相手なら、俺は触れることができる」


 エヴァンス侯爵夫妻がはっきりと音を立てて、息を呑む。

 しばらくして、エヴァンス侯爵がうん、と頷いた。


「女性を相手に、トラヴィスがこうして近づくことができるなんて以前なら考えられないことだ。真実の相手というのは、こうも違うものなのだな」


 本来ならば結婚前の男女がみだりに人前で触れ合うことはないが、トラヴィスはあえてそうしたのだ。彼は、侯爵夫妻を安心させたかったのだ――もちろん侯爵夫妻も理解している。

 エヴァンス侯爵は私に向かって微笑む。


「本当に、ありがとう。トラヴィスは頑固で苦労するだろうが、その分この人と決めたら一途なのは間違いないと思う。心から結婚を祝福させてもらうよ」


 こうしてエヴァンス夫妻は私を彼らの家族に暖かく受け入れてくれたのだった。


 そうして少しずつトラヴィスは過去との決別を果たして行き、外出時にもマスクを取れるようになった。それでもたまに素顔だと心もとないと伊達眼鏡をかけるようになった。彼が過ごしやすい風にしてもらうのが一番だし、そしてその黒縁の伊達眼鏡は最高に彼に似合っているから私には何も言うことがない。


「本当に、よかったの?」


 今日はこれからサットンの両親が滞在している地方へと向かう。サットンの両親にも手紙で自分がエヴァンス侯爵の次男であるトラヴィスと婚約をするのだ、とは知らせてはいた。


 すぐに両親が仰天した様子の返事を寄越してきたので、フォスター先生に頼み急遽一週間のお休みをもらい、彼らに会いにいくことにした。何しろサットンの両親が住んでいる地方まで馬車で二日はかかるのだ。


 長い時間の馬車での移動になるため、トラヴィスには来なくてもいいのだ、と伝えていたのだが……。


「俺は行きたいんだ。それにお前が一緒にいるんだから大丈夫だろ?」

「もちろん、夜はちゃんとマッサージするよ。でも馬車に乗っている時も時々足を動かさなきゃね」


 心配げな私に、トラヴィスは頷いてみせた。


「ああ、分かっている」


 こうして狭い空間で座り続けていると、健康な人でもエコノミー症候群になる可能性があるのだ。私はとりわけ気をつけてトラヴィスの様子を見なくてはならないと心に誓う。

 トラヴィスはのんびりとした表情で私を見下ろしている。馬車では私と二人だから伊達眼鏡もしておらず、リラックスしている。


「クラウディアとしての記憶はどんな感じなんだ?」


 今まであまりその辺りの話をしたことがなかった。とりわけトラヴィスは“異世界”である日本での生活についての話を聞きたがるからだ。彼にとってみればただの絵空事のような話だろうに、目を輝かせて聞いている。だからクラウディアについて語ることは滅多になかった。


「もちろん貴族のマナーを知っているからある程度の記憶はあるんだろうなって思うが」

「うん。大体有理としての記憶と同じくらいの分量かな。クラウディアが物心ついてからの記憶の前に、有理の記憶がある感じなんだよね」


 私の隣でトラヴィスは腕を組んだ。


「前に……?」

「そう。クラウディアの記憶が今の世界線だっていうことは疑うことなく理解しているんだけどね。私の中で、人生の記憶が二回分並んでいる。だから混乱はしなかったんだ。そうだな、前世、みたいな感じかな?」

「ふうん、面白いな」

「そうだね。ああ、でもちゃんとクラウディア=サットンにならなきゃな」


 フォスター先生やメグはそこまでクラウディアのことを知っているわけではなかったから少し気楽に構えていられた。エヴァンス邸ではもちろんのこと、しかも今やトラヴィスは私が二つの記憶を持っていることを知ってくれている。

 だがサットンの両親は違う。

 そこでトラヴィスが私の肩をぐいっと抱いた。


「大丈夫だ。なんのために俺がついていると思っている」


 私は目を丸くした。トラヴィスの顔は真剣そのものだが、瞳が優しい光を帯びていた。


「ふふ、心強いな」

「ああ、大船に乗ったつもりで頼りにしておけ」


 トラヴィスが私の額にキスを落とした。それから彼がぎゅうぎゅうと私を抱きしめた。


「なあ、向こうでそんなに余裕がないと思うが」

「?」

「もしちょっとでも時間あったら、その、俺と一緒に街を歩いてくれないか?」


 私はぱあっと笑顔になる。

 彼の腕の中で姿勢を変えて、トラヴィスの顔を見上げた。


「うん、もちろん! 私も初めていく場所だから、一緒に散策しよ」


 トラヴィスの顔に喜びが一瞬で弾けた。


「楽しみだ。お前と初めてのことを体験できるのが嬉しくて仕方ない」


 それからトラヴィスが再び私をぎゅうぎゅうと抱きしめた。しばらくして彼がぽつりと呟いた。


「まるで新婚旅行みたいだ。今は俺だけの有理だよな」

「!?」

「だってそうだろ。いつもは患者さんのユーリでもあるからな。それにそんなお前が俺は好きだ。だけどこの旅行中は朝から晩まで俺だけの有理だろ」


 まさかトラヴィスがそんなことを言うとは、と思わず彼の顔をまじまじと眺めると、頬に赤みがさしてきた。トラヴィスが照れている、と思えば私の頬もみるみるうちに熱を持つ。


「もう、照れるなら言わないでよ。私も恥ずかしくなっちゃうじゃん」

「仕方ないだろ。俺の、す、素直な気持ちだ!」


 トラヴィスが可愛い。

 そしてこうして気持ちを伝えようとしてくれている彼が愛しい。

 私がそっと彼に手を回すと、トラヴィスが抱きしめてくれた。

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