31 「トラヴィス様がデレた!」
それからしばらくして。
私はその夕方、家路を急ごうと逸る気持ちでフォスター先生の診療所の扉を開けた。すると、そこには――。
「有理!」
「トラヴィス、迎えに来てくれたの?」
「ああ」
そこにはすっかり市井の人となったトラヴィスが立っていた。
意外なことに平民としての暮らしは、トラヴィスを気楽にした。貴族に比べれば礼儀正しくないし、口が悪い人も多いが、ほとんどの人は気さくで明るい。トラヴィスが無表情だろうがマスクをしてようが、誰も彼も気にしていない。時々見知らぬ子供がじっと不思議そうに見つめるくらいである。
そう、トラヴィスは家で私と二人きりであれば素顔でいられるようになったが、外出する時はいまだにマスクは必需品である。
過去から抱えていた様々なものを、トラヴィスが一つ一つ解放していくのを私は隣で見守っている。彼自身、このまま母親の幻影に悩まされ続ける人生は嫌だという思いもあっただろう。それは静かな、しかし確かな彼の闘いであった。
二人で暮らし始めてから数ヶ月が経った、つい先日。
セルゲイに招待されてエヴァンス侯爵邸を訪れた。
久しぶりのアイヴィー・エンドはやはりとても美しい佇まいで、私とトラヴィスを迎え入れてくれた。
『わぁ。この庭園はやっぱりとっても綺麗ね』
思わず歓声をあげてしまう。
二人で何度となく散歩をした中庭はその日も美しい薔薇が咲き誇っていた。私が足をとめ、その景色を楽しんでいると隣でトラヴィスが呟いた。
『そうか? 俺にはとりたてて綺麗だとは思えないが』
『そりゃ小さい頃からこの庭園を見ていたら、そう思うかもしれないけれど。こんな規模の庭園はなかなか他にないわ』
トラヴィスがそこで足を止めたので、彼を見上げた。
彼は何かを言おうとして、一旦口を開き、それからまたつぐんだ。その動作で、彼が心の奥底に隠している何か……きっと母親について話したいのだろうと気づいた。
しばらく待っていると、トラヴィスが口を開いた。
『実は薔薇が好きなのは、俺の母親だったんだ』
彼の告白に、私は小さく息をのんだ。
『離縁されて……、心が病んだ母親が少しでも心安らかになるようにと、これだけの薔薇を植えたらしい』
『そうだったの』
私はもう一度綺麗に咲いている薔薇たちを見渡した。この景色はエヴァンス侯爵たちの、トラヴィスの母親への贈り物だったのだ。
『だが、母親がこの庭園にいるのはほとんど見たことがない。だから俺にとってはこの庭園は、見捨てられた自分と同じように思えて仕方なかった』
彼は一度言葉を切る。
『だからあまりじっくりと眺めることが出来なかったが……』
『トラヴィス……』
以前は母親のことを話そうとすると、時々呼吸が乱れることもあったトラヴィスだが最近は落ち着いてきている。今もそこまで動揺している様子は見られなかったが、トラヴィスの腕に私はそっと手を置いた。私の手の上に、トラヴィスの厚みのある手が重なる。
『ありがとう。今こうして有理と一緒に改めて見ると、うん、確かに綺麗なものだな。薔薇に罪はない』
そう言って、彼は静かに笑った。
『待っていたよ! 元気そうで何よりだな、ユーリ!』
久しぶりのセルゲイは上から下まで洒落ていた。執務室で両手を広げて歓迎してくれたセルゲイに、私はカーテシーをする。
『セルゲイ様もお変わりなくお過ごしのようで』
『ああ』
姿勢を正すと、セルゲイが私を軽く抱きしめた。家族にする挨拶で、これはセルゲイが私のことを弟の伴侶だと認めているからだ。
セルゲイは体を離すと、すぐににっこりと微笑んだ。
『二人ともソファに座ってくれ』
すぐにメイドたちがアフタヌーンティーセットを運んできてくれ、ダージリンの芳しい香りがあたりを漂う。セルゲイが優雅な仕草で紅茶を飲みながら微笑んだ。
『トラヴィスとはちょくちょく会っているけど、すっかり足の調子も良さそうだ。本当にユーリにはどれだけ感謝しても足りないな。リハビリをいまだに頑張ってくれているのかな?』
私は微笑んだ。
『驚かれるかもしれませんが、これはトラヴィス様がご自分で頑張った成果なのですよ。私は夜に時たまマッサージするくらいしかしておりません』
そう答えると、私の隣でトラヴィスが身じろぎした。セルゲイがトラヴィスの顔を眺めてから、思わずといった感じで吹き出した。
『なんだい、そんな子供がお菓子をもらったような顔をして』
『……断じてそんな顔はしていない』
トラヴィスがふんと鼻を鳴らした。
『いーや、していたね。お前がそんな顔をするのは滅多にないから間違えることはない』
『勝手に言っているがいい』
ふふ、と私は仲の良い兄弟の会話を笑いながら聞く。
しばらくセルゲイがあれこれと近況を話してくれたり、また尋ねられたり。診療所の話をセルゲイはとても興味深い眼差しで聞いてくれた。
最初から最後までセルゲイはあくまでも私を家族の一員として扱ってくれ、その心遣いが嬉しかった。もう私も彼をライトノベルの登場人物だと思って色眼鏡で見ることは無いだろう。
そんな風に心地よい時間を過ごしていたのだが、やがてあっという間に約束の時間が終わりに近づいていた。ソファを立ち上がって、別れの挨拶を交わす。
『ああとっても楽しかったな。ユーリ、診療所は忙しいと思うけど、また機会があれば是非我が家に来てくれないか?』
『はい、もちろんです』
私が答えると、セルゲイはにこりと笑った。
『今度は晩御飯でも一緒にしよう』
『トラヴィス様と喜んでうかがいます』
セルゲイはにっこりと笑った。
『その日を楽しみにしているよ。そういえば、ユーリが来ると聞いて料理長がぜひ顔を出してくれと言っていたぞ。この時間ならまだいるはずだから厨房に寄ってやってくれ』
『アンソニーさんが! いいですか、トラヴィス様?』
私が隣に立つトラヴィスを見上げると、頷いてくれた。
『俺も行く』
セルゲイが腰に手を当てて苦笑した。
『お前も行ってもいいがユーリにゆっくり再会を楽しませてやれよ。お前が行ったらどうせ無表情で周りを威嚇するんだろうからな』
『それの何が悪い』
トラヴィスは悪びれもせずに答えた。
『悪くはないが、そんな心の狭さだとユーリが……』
セルゲイの言葉はそこで不自然に途切れた。
なぜならトラヴィスが彼の目の前で、マスクを外したからだった。
『トラ、ヴィス、お前……』
呆然としてトラヴィスを見つめるばかりだったセルゲイの瞳が潤んでいることに気づき、私は視線を落とした。
出かける前に、セルゲイの前で可能ならマスクを外したいとトラヴィスは言っていた。けれど出来ないかもしれない、とも。どちらにせよ、私としてはただ彼を支えるだけだ。
だが、今日トラヴィスは自分の力でまた一歩前に進んだ。
『実は有理の前だとマスクを取れるようになってきてな……次は兄上だと決めていた』
掠れた声でトラヴィスが答えると、セルゲイが弟の体をがしっと抱きしめた。
『お前を誇りに思う、トラヴィス』
兄弟はそれ以上一言も言葉は交わさなかったが、お互いに背中を叩き合い、想いを通じ合わせていた。
セルゲイの執務室を出ると同時にマスクを再びつけたトラヴィスの顔は、厨房に近づくにつれかつての無表情そのものになっていった。
私としては見慣れたものだから怖くもなんともない。
『ユーリさん、来てくださったんですね!』
厨房に顔を出すと、アンソニーさんをはじめかつての仲間たちが大喜びで迎い入れてくれた。
『ユーリ、お前とっても元気そうだなあ!』
セインがニコニコしながら話しかけてきた。彼は本当に良い人だと思う。
『ありがとう、元気よ』
『診療所、どうだ?』
『忙しいわよ。けど、とっても充実している』
『充実しているのがユーリの顔に出てる気がする。それが何よりだな!』
『ここも忙しいでしょう?』
『そら、お前がいる時と変わらねえよ』
セインと会話をしている最中、ずっとトラヴィスは私の近くに立っていた。
(ちょっと近すぎじゃない……?)
と、思うくらいの距離だった。
そう、要は私と話す人に圧を与えるくらいの。
しかもトラヴィスはやはり無表情で、時折ちらりと厳しい視線をセインに向けていた。最初は朗らかだったセインが、徐々にトラヴィスに視線を送るようになる。
『ま、そんなわけだ』
と、セインが話を切り上げようとする前に、私は皆にはわからないようトラヴィスの背中をポンと叩いた。そこでようやくトラヴィスが体の緊張を解く。
『皆が変わりなくて良かったわ』
私がにこっと微笑むと、セインも頷いてくれた。それから私はアンソニーさんやセインだけではなく、他の仲間達とも挨拶を交わした。その段になってトラヴィスは私から一歩離れた場所で見守ってくれるようになった。――まぁ、一歩はあくまでも一歩だけれど。
楽しい時間もすぐに終わりがやってくる。
『今日はお会いできてよかった! 是非またいらしてくださいね!』
アンソニーさんに言われ、私はおずおずと頷く。
『ええ、また機会があれば』
以前とは違い、私は街に住んでいる。なかなかその機会はないだろう、そう思ってのことだったが。
しかしそこでトラヴィスが口を挟んだ。
『ああ、また有理には顔を出させる』
『えっ……!?』
アンソニーをはじめ、厨房にいる全員がびっくりして一斉にトラヴィスに注目する。そこでトラヴィスは居心地悪そうに、続けた。
『なんで驚く? 皆が有理によくしてくれたのは分かっているからな。それに俺にもよく尽くしてくれたことに感謝している』
トラヴィス様がデレた、とセインが小さく呟いたのが聞こえると同時に、皆がわっと歓声をあげたのだった。




