30 新しい旅立ち
あっという間に数ヶ月が経った。
トラヴィスのリハビリがある程度の目処がつき、私はフォスター先生の元へ戻ることにした。彼自身が真剣に取り組んだリハビリの甲斐があって、トラヴィスは杖がなくても問題なく歩けるようになり、また階段も自由に上り下りできるようになった。すっかり体調は回復し、体力もかなり戻ってきた。
一番の懸念だった右足の火傷の痕は依然残ってはいるがだいぶん綺麗になったし、痛みはほぼなくなったことを彼は喜んでいる。それに彼はまだ若く、身体のつくりも頑丈だ。日々の生活が鍛錬となり、これからも少しずつ良くなっていくだろう。
そして彼のトレードマークでもあるマスクは――未だ私の前でしか取ることはできない。
フォスター先生の元に戻る理由は、自分の名前を掲げた診療所を開くにはまだまだ経験が足りないからだ。私は永遠にフォスター先生の治療師である。
将来自分の診療所を開くのが夢だとトラヴィスに言えば、彼は心から賛成してくれた。ただ、それもあってアイヴィー・エンドを去りフォスター先生の元へ戻ると言えば、それは賛成したくないな、と拗ねられたけれど。
今日はセルゲイ――かつての私の最推し――の執務室にトラヴィスと訪れた。ソファを勧められるるがまま、トラヴィスの隣に腰かけた。
「本当に行ってしまうんだねえ、ユーリ」
「はい、お世話になりました、セルゲイ様」
私がそう挨拶すると、セルゲイは爽やかに笑った。
トラヴィスが私の隣で背筋を伸ばした。膝の上できゅっと両手を丸めた彼が何を言い出すのかを察知して、私も背筋を伸ばした。
「兄上、前々から話してはいたが、俺はユーリと婚約しようと思っている」
「ふふ、ついにそんな日が来たんだね」
まったく驚いたそぶり一つ見せなかったセルゲイは、快く私達を祝福してくれた。
「ユーリはそれでいいの?」
私の返事に迷いはなかった。
「はい」
その答えに満足したかのようにセルゲイはにこりと笑った。
「そんな予感はあったんだよね、ユーリはトラヴィスの心を蕩かしちゃう気がしたんだ」
ぱちんとウインクをする彼は、今日も洒落ていて、隙がない。以前のように視界に入るだけでテンションがあがるようなことはなくなったが、やっぱり素敵な人だな、とは素直に思う。
セルゲイが改まった口調で話し始めた。
「私のせいでトラヴィスが酷い怪我を負う羽目になったからね……。一時は私はどうやってその責任を果たすべきかとずっと考えていたんだ」
「兄上……!」
私の隣でトラヴィスが驚いたかのように呟いた。
「ユーリが当人と同じくらい、側で支える家族も同じくらい苦しいから大事にしてあげたい、と言ってくれただろう?」
「――はい」
フォスター先生をアイヴィー・エンドに呼ぶのを私からお願いした時のことだ。
「あれで随分救われたんだ。それまで一番苦しいのはトラヴィスなのだから、私が弱音を吐いてはいけないのだと思っていたから……。もちろん、トラヴィスの怪我の原因は私が作ったのだということを忘れてはいないが」
打ちひしがれたように見えるセルゲイに、我慢ならないとばかりにトラヴィスが声をあげた。
「俺は騎士の仕事を全うしただけで、兄上のせいなんかじゃ絶対ない。俺が引き受けた時点でそれは俺の仕事で、俺の責任になる」
「うん、それはそうかもしれないが……だがやはり……」
答えるセルゲイの声は弱々しかった。
「そうなんだよ。だからそんな風に思わないで欲しい」
私には、兄弟どちらの気持ちもよく伝わってきたから余計な口出しは控えた。宥めるような気持ちで、トラヴィスの背中にそっと手を回す。
しばらく部屋を沈黙が占める。
やがてセルゲイが口を開いた。
「だがユーリのお陰でこうしてトラヴィスが誰かと一緒に生きていくという気持ちになってくれた。本当にどれだけ感謝してもし足りない。どうか二人で仲良く暮らしておくれ」
トラヴィスに聞いたところによると、セルゲイはかつて年上の幼馴染の女性が好きだったのだそうだ。その令嬢は年頃になるとすぐに別の男性と結婚してしまったのだという。
セルゲイが本当に好きな令嬢は振り向いてくれない、ということはアンジェリカではなく、その幼馴染のことだったのだ。
(トラヴィスが最初に言っていた通り、セルゲイもアンジェリカのことは全く好きでもなんでもなかったのよね……)
私自身は、あれからアンジェリカと会うことは一切なかった。何しろ私はアンジェリカ=ステインバーグがヒロインの物語では、モブ令嬢以下なのだ。ある意味、『あくでき』が私の物語とは一線を画していることの現れだ。
それでいいのだ、と最近は思うようになった。
私はこの世界が『あくでき』と同じだ、という思いこみなしで生きるべきなのだから。
(だけどこのお屋敷に来たのは、『あくでき』でセルゲイが最推しだったことは後押ししてくれたから……だから、やっぱり全く無関係だとは思えないけれど)
今はもう私の最推しではないがセルゲイはセルゲイで素敵な男性だ。そのうちきっと彼に似合いの女性が現れることを願っている。
セルゲイに向かって私は頷いてみせた。
「ありがとうございます、セルゲイ様」
それから三人で今後について相談した。
私は町に戻り、そしてトラヴィスもエヴァンス侯爵家から出る形で共に暮らすことになる。こんなことは、もともと複雑な経緯でエヴァンス家に引き取られたトラヴィスだから可能なことだ。セルゲイも、トラヴィスがそうして町で暮らすことを応援すると約束してくれた。
話がまとまり、私たちはセルゲイの部屋を辞するために立ち上がった。
「セルゲイ様、どうかいつまでもお元気でいらしてください」
もちろんトラヴィスがアイヴィー・エンドを訪れることはあるだろうが、今後私がセルゲイに会うことは滅多にないだろう。そう思っての挨拶だったが。
「はは、まるで今生の別れのように言うんだな――また会おうね、ユーリ」
私の元最推しは最後まで粋だった。
 




