28 トラヴィスの過去と肩の三角筋
気鬱になって、母親は錯乱していたのではないか、と大人になってからトラヴィスは気付いたのだという。それでも子供にとって、親というのは絶対的なものだ。しかも一週間の内、何時間かしか一緒に過ごせない母親であればなおさら。
母との思い出を語ろうとすると、トラヴィスの呼吸が浅くなった。
「母親は……俺を、父親と勘違いしていた。血が繋がっているかはわからないが、どこか似ていたらしい。段々成長するにつれ、俺の身体を触ってくるようになった。俺が嫌がるようになったら、隣の寝室に男を連れ込んで……悪い、今も全部は話せない」
口元を手で覆った彼の顔からどんどん血の気が引いていく。慌てて私は首を横に振った。
「もう話さないで。どうか、気を楽になさって」
小さく頷いた彼は深呼吸をしながら、しばらく黙り込んでいた。
「部屋には常に使用人がいた。だから母が直接俺に手を出すことはなかったんだが……今でも時々夢に見る……」
意に染まぬ接触、見たくないものを見せられること、聞きたくないことを聞かされること。どれも程度を過ぎれば、いくら相手が肉親とはいえ虐待と言っていい。
彼がふと視線を私に向けた。私達は今、ローテーブルを挟んで向かい合って座っている。
「ユーリ、俺の隣に来てくれるか?」
私はすぐに頷いた。
「もちろん。トラヴィス様がそうして欲しいのなら」
「ああ、頼む」
私が隣に座ると、トラヴィスは安堵したかのように身体の力を抜いた。手を差し出されたので、それを握る。彼の手のひらはいつも私より体温が低いが、今はじっとりと汗をかいていて、極端に冷たい。
「ハーブティのお代わりを飲まれますか? 温かいのをいれてきましょうか」
少しでも気持ちが晴れたらいいなと思って提案した。
「いや、いい。それより、ここにいてくれ」
(トラヴィス様の手、少し震えてる……)
「分かりました。ここに、います」
答えれば、繋がれた手にぎゅっと力が入るのが分かった。そうやって二人でしばらくソファに並んで座っていると、やがて彼の震えが収まっていく。
ふうとトラヴィスが息を吐いた。
「取り乱してすまない。情けないな」
「そんな、謝ることなどありません」
少しずつ彼の手に温度が戻っていくのを感じた。しばらくして彼が呟いた。
「おかしな話だと思うかもしれないが、母の部屋にいるとき、俺は猫になるようになった」
「……猫……?」
「ああ、エドワードという猫が主人公の本がその頃お気に入りで……。母の様子がおかしくなると、自分は人間ではなくエドワードなのだ、と思いこむようにしていた。一種の逃避だな。今でも極度に緊張したり、感情が昂るとつい猫の真似をしたくなる衝動がある。鳴き真似や、仕草を」
トラヴィスの告白を聞きながら、ある光景が脳裏をよぎった。
(ああ。裏庭で私達が近づいた時に、彼がにゃあと鳴いたような……、そうか、あれは……彼にとって心を守るための大切な行為だったのね)
それから、トラヴィスは時折口元を押さえる仕草をしていた。おそらくその衝動を抑えていたのに違いない。
「そういえば、トラヴィス様のお部屋には猫の本が多いなって思ってました」
私が本棚にちらりと視線を送ると、トラヴィスが気の抜けたように笑った。
「こんな話を信じてくれるのか? そもそも猫が好きなんだ。いつか本当に猫を飼いたいから、色々と調べている」
(ライトノベルの世界なんだったら、彼自身が猫に変身したりしそうなものだけど……)
その方がよっぽどファンタジーらしい。本家の『あくでき』ならばあり得そうな設定だ。可愛いし、イラスト映えする。
だが、この世界ではそんなことは起こらないようだ。やはり『あくでき』の世界観をある程度踏襲しているものの、まったく同じではない。
今の私にとっては、ただの現実にしか過ぎなくて。
誰の気持ちも、誰の行動も、私には予想できないのだから。
(トラヴィスやセルゲイがアンジェリカに惹かれていなかったように、彼らには彼らの意思があって、それぞれ一生懸命生きている)
私がそんなことを考えていると、トラヴィスが口を開いた。
「このマスクなんだが……」
「はい」
ローテーブルに置きざりになっているマスクを、私は見つめた。
「母親がおかしくなったのは、俺の顔が父親に似ているせいだ。だから自分の顔が嫌いになった」
「……そうでしたか」
自分の顔が父親に似ている――本来なら喜ばしいことなのに、そのせいで母親が奇異な行動をする。父親の面影がなければいいのに、と恨んだのだろう。そんな子供の頃のトラヴィスを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「母親と会う時にはせめて顔の半分だけでも隠したいとこのマスクをするようにした。やがて見るに見かねた使用人が執事に訴えてくれて、それからすぐに母との面会はなくなった」
トラヴィスによれば、それまでもエヴァンス侯爵はもちろん母親を主治医に診せてはいた。だが、もう手の施しようがないとついに諦めたのだという。そして遠方の領地に送り、療養という名の隔離をしたのだ。トラヴィスもそれからは会っていないのだという。
「母がいなくなった後も、どうしてか人前ではマスクを取れなくなった」
「セルゲイ様やエヴァンス侯爵様の前でも?」
「家族でもだ」
答えるトラヴィスの声は淡々としているが、兄にまで素顔を見せられなくなったと知り、私はワンピースをぎゅっと掴みながら俯いた。
「母との面会はしなくてよくなったんだが、それから人が苦手になってな。マスクをしていても女性はあまりにも近寄りすぎると吐き気がしたり、気を失いそうになったりした」
それはきっと母親から植え付けられたトラウマのせいに違いない。
やがてトラヴィスはマスクさえつけていれば、男性であれば普通に接することが出来るようにはなったらしい。幸い、エヴァンス侯爵やセルゲイはトラヴィスの症状に理解があり、家庭教師や身の回りの使用人を全て男性にしてもらうことでなんとか乗り切った。
年頃になっても滅多に夜会にも出なかった。まるで引きこもりのように暮らしていたが、思春期を迎えたトラヴィスは身体が丈夫で、剣技に長けていた。そこで騎士になることを決意した。いつまでもエヴァンス家の世話になってはいけないと思っていたからだ。エヴァンス侯爵夫妻もセルゲイも、トラヴィスの選択を応援してくれたのだという。
その選択は正しく、数年後には王宮に務める騎士となった。氷の騎士はかくして誕生した。
「騎士の世界は男ばかりだからというのも選んだ理由の一つだ。少しずつ女性を前にしても、仕事中だと思えば我慢できるようになった。……後で具合が悪くなることはあっても今までなんとかこなせてきた」
「騎士が天職でらしたんですね」
「かもしれないな。まぁそれも、この足を怪我して終わったが」
彼が自分の右膝をぽんと軽く叩いた。
「トラヴィス様……」
声が揺れてしまい、私は慌ててぎゅっと目を瞑った。
「だがな、ユーリ。世の中にはもっと苦労をしていたり、大変な状況の人がいくらでもいる。俺は両親には恵まれなかったが、伯父や兄にはよくしてもらって感謝している。むしろ自分でもどうしてこんなに弱くてかっこ悪い人間なのかと――」
トラヴィスがそこで一度言葉を切った。
「なあ、どうか俺のためになんか泣かないでくれ」
「弱いわけないです、だって……だって、ようやく見つけた夢を突然断たれるなんて、あまりにも……」
涙はとどまることを知らず、私は泣き止む努力をとうに諦めていた。
「ご両親のあれこれはトラヴィス様が生まれる前のことですし、お母様は……お母様はもちろんお辛かったと思いますし、うかがっている限りでは、もっと早い段階でなんらかの適切な治療が必要だったのかと思います」
これは治療師としての言葉だ。もし私がその場にいたとしたら、どうやってでも助けたいと手を尽くしたのに違いない。聞いている限りではエヴァンス侯爵が放置していたようにも思えないが、それでも。
「うん」
「ですが、トラヴィス様の心に傷を残されたのは別の話です。その時側にいて、なんとかしてトラヴィス様を助けて差し上げたかった」
これは、ユーリとしての言葉だ。異世界転生という奇想天外な事態を体験するのなら、トラヴィスの幼少期に転生して、彼を救いたかった。
「ユーリ……」
彼と繋いでいない方の手で涙をふいてから、トラヴィスを見つめた。
「部外者なのに知ったような口をきいて、ごめんなさい。それから……私の前ならいくらでも好きなだけ猫になってください! エドワードとして可愛がります!」
ぽかん、としたトラヴィスだったが、やがてじわじわと笑みを作った。
「俺が猫になってもひかない、だと?」
「はい、幸い猫は好きな動物ですから!」
「エドワードになった俺を可愛がれると、お前の未来の上腕二頭筋を賭けられるか?」
「いいですよ! 上腕三頭筋も、肩の三角筋も賭けます!」
「ははっ」
彼が明るく笑った。
「おかしなやつだよな……、普通の令嬢とは全然違って、ちっとも目が離せない。最初に目が合ったときからそうだ。まるで違う世界から来たみたいだ」
どきん、と鼓動が高鳴った。
(違う、世界……)
トラヴィスは信じてくれるだろうか。
私に異世界の記憶があるということを。
それとも世迷言を、と端から相手にしないだろうか。
(きっと、トラヴィスだったら――)
私は彼とつないでいる手に力をこめて、勇気を振り絞った。
「トラヴィス様、聞いて欲しいことがあります」




