25 私の最推しは!
(あ、いけない)
今の私は使用人だった。慌ててカーテシーではなく、上級使用人としての最上級の挨拶――足を折り曲げ、腰から礼の姿勢を取った。顔を上げる前に去ってくれ、と心の中で強く念じるのも忘れない。
だが、願いは通じなかった。
「やっぱりディア、だよな? どうしたんだ、田舎にひっこんだと聞いていたのに」
数年ぶりに会う婚約者であるリヒャルトは屈託ない様子で話しかけてきたが、私は彼に答える気など一切ない。そのままの姿勢で黙って、時間がすぎるのを待っていた。
「顔をあげてくれ」
しかし命令されてしまい、仕方なくしぶしぶ顔をあげた。リヒャルトは以前と変わらぬ美貌のままだったが、既にトラヴィスやセルゲイを見慣れた私には凡庸な印象しか与えない男性だった。
(クラウディアは好きだった男性なのに、ごめん)
私はリヒャルトの油断なく細められた視線に気づき、彼が私の化粧っけのない顔や、貴族令嬢にしては短めの髪、またシンプルなドレス全てを値踏みしているのが分かった。
「そうか。サットン侯爵のことは残念だったね。僕たちもなるべく助けになりたいと思っていたのだけれど、力及ばず申し訳なかった」
一目散に婚約破棄を通達してきた家の子息らしい言い訳を聞かされた。
(どの面を下げて……!)
と、思ったが、私は微笑むだけにとどめておく。するとどうしてか、リヒャルトが目を見張った。彼がすぐさまにこりと微笑みを浮かべた。すり寄るように近づいてきたので、思わず一歩後ろに下がる――壁に背中が当たった。
「ディア、今はどうしてるんだい? どこかの貴族の家で家庭教師でも? それかシャペロンあたり? このドレスの感じだと家庭教師かな」
(な、なんで突然様子が変わって……?)
こんなことをいうとなんだが、リヒャルトという男性は、クラウディアに女性としての興味をまったく抱いていなかったと思う。礼儀正しい距離を常に保っていたから、クラウディアとリヒャルトは、挨拶のキスをのぞけば、キスひとつ交わしたことがなかった。
(そうだったのに、クラウディアが使用人だと思うと突然? 何それ、使用人萌えなのリヒャルトって?)
しかしこの様子だと、リヒャルトは私がトラヴィスと共に夜会に来たことには気づいていないようだ。セルゲイほどではないが、リヒャルトも十分腹黒いので、私がエヴァンス家と関係があると知ったら、間違いなく利用しようと考えるはずである。
トラヴィスが戻ってくるまでになんとかリヒャルトを去らせたい。そう心を決めて、私は彼と話をすることにした。
「クーパー様、お久しぶりです。お元気そうで何よりですわ。奥様はどちらに?」
あの時、クーパー家は代わりの婚約者をリヒャルトにあてがうつもりだった。数年経っているし、リヒャルトが既婚者であることは間違いないだろう。
「妻はどこかそのあたりに……まぁ妻の話はいいじゃないか、久しぶりに君に会ったというのに」
(妻の存在を今まで忘れていた? 呆れたわ)
忘れているのか、すっかり夫婦仲は冷え込んでいるのか。もしあの時サットン家が没落していなかったら、忘れ去られる妻はクラウディアだったのだ。
「私はお役目があってこちらにおりますので、ここで失礼いたします」
「ディア、そんなつれないことを言わないでおくれよ」
きちんと一礼をして、彼の前を立ち去ろうとしたが、リヒャルトにぐっと腕をつかまれた。
「クーパー様」
リヒャルトがにこりと笑みを浮かべながら私に顔を近づけてくる。
「元婚約者同士だろ。せっかくだから二人きりで今までの話をしようじゃないか」
彼がジロジロと私のドレス姿を見下ろしている。
旧交をただ温めたいわけではなく、彼の目的は明らかだった。
(クラウディア、男の趣味が悪いよ――!!)
「なんなら朝まででもいいんだよ……ギッ!」
こういう時にハイヒールが活躍する。とはいえ、今日はローヒールしか履いていない。だが私はうっかりよろけたふりをして彼の足を踏みつけてやった。
「わわ、すみません、立ちくらみかしら」
「……てて。ディア、大人しそうなふりをして君はこんなじゃじゃ馬だったんだね。婚約者の時に知っていれば離さなかったものを。いいね、ますます燃えてきた」
うっとりしたかのようにリヒャルトが呟いている。
(まさかのM――! 逆効果だった――!!)
「クーパー様、お戯れはいい加減になさってくださいませ」
「いいね、ディア。その目、たまらないよ。どうか以前のようにリヒャルトと呼んでおくれ」
(次はもう急所を蹴るしかないか……!)
だが足を踏むレベルではなく大騒ぎになってしまうだろうし、リヒャルトはどうやら攻撃されると興奮する質みたいだからどうしようかと一瞬迷ったその刹那。
リヒャルトの頭ががしっと後ろから誰かに掴まれ、令嬢たちがきゃあと歓声をあげた。
「汚らしいその手を離せ」
絶対零度の声が背後から響き渡り、頭を掴まれたリヒャルトがゆっくり振り向くと。
そこには青白い炎を背後に燃やしている、氷の騎士ことトラヴィス=エヴァンスが立っていたのだった。
「聞こえなかったのか、手を離せと言っている」
左手で頭を掴んでいるトラヴィスが右手に持っていた杖を剣よろしくリヒャルトの喉元に突きつけた。
「あ、は、はい……」
怯えきったリヒャルトはあっさり私の手を離し、振り返ることなくほうほうの体で逃げていった。きゃあきゃあと令嬢たちが黄色い声を上げる中、トラヴィスが私の腰をぐいっと掴んだ。
「行くぞ」
「はい」
トラヴィスに連れられて大広間から廊下に出た。そのまま帰るのかと思いきや、トラヴィスは私を中庭へと連れて行った。ここはどうやら招待客に自由に開放されているらしく、そぞろ歩いている貴族たちの姿がいくらか見受けられた。
先程までの喧騒が嘘のようだ。
トラヴィスは黙りこくって歩いているし、どう考えても怒っているようだったが、このままどこにいくつもりかを知りたかった。
「どちらまで行かれるんです?」
中庭の真ん中にこれまた立派な噴水があった。そこに差し掛かったとき、思いきって声をかけてみた。
トラヴィスは、はっとしたように立ち止まった。
「特に、考えはなかった」
「ではよろしかったら座りませんか。ちょうどベンチがありますし、足を休ませましょう」
「……ああ、そうだな」
「ちなみに人混みから抜けましたけど、体調の変化は?」
緊張しすぎて我慢して後でどうなるか分からない、と言っていた彼だったが、黙って首を横に振った。
「どうやら今夜は平気そうだ。お前が側にいてくれたからだろうな」
(!)
彼の物言いは時々心臓に悪い。
「それは……良かったです」
彼がベンチにゆっくり腰を下ろすのを見守っていると、トラヴィスが隣に座るように手を動かした。
「お前も座ってくれ」
「あ、でも――」
「少し休んでいきたいから、そこに立っていられても困る」
彼のマスクをしていない左半分の顔が月の光に照らされてとても美しい。私は小さく頷き、彼から出来る限りの距離を開けて端に座った。
それからしばらく、噴水から聞こえる水の音、大広間から流れてくる貴族たちのさざめきの声やワルツの演奏を二人共黙って聞いていた。
(ああ、トラヴィス、めちゃくちゃ格好良かったな)
星空を見上げながら私は思った。
リヒャルトにぐうの音も言わさずに追い払った姿は貫禄があり、氷の騎士だった頃を彷彿とさせた。
『お姉ちゃんの最推しは誰?』
以前妹に聞かれた言葉。
あのときは力いっぱい、セルゲイ=エヴァンスと答えたが今はもう――。
(私の最推しは、トラヴィス=エヴァンスだわ)
だから、セルゲイでも、スタングリードでも、アンジェリカに会ってももう心はそこまで踊らない。私はトラヴィスを見ていられたら幸せなのだ。
(いつまで側にいられるかはわからないけど、それでも私は幸せものだな)
そこまで考えた時、トラヴィスが呟いた。
「さっきのは婚約者だった男だな」
嘘をついても、ごまかしきれないだろう。私は頷いた。
「はい」
「無礼な男だったな。――好きだったのか?」
一瞬返答に迷った。クラウディア=サットンはリヒャルトのことが好きだったから。でも私は首を横に振った。
「いいえ。それでもある程度の期間は婚約者でしたので、情があったことは否定しませんが」
「そうか。あいつはお前に未練がありそうだったな」
それは私が一番意外だった。
「以前からこうした夜会に来ても、ほとんど一緒に過ごしていませんでしたし、突然どうしてあんな風に彼が言ったのか、分かりません」
「――ワルツは?」
突然の話題転換に一瞬話がついていきそこねた。
「ワルツ?」
「婚約者だったのだからワルツを踊ったことくらいあるだろう?」
それは何回もある。そもそもこうした夜会での最初のダンスは婚約者や配偶者と踊るものだ。
「それは、まぁ、はい。婚約者だったので……」
トラヴィスが突然ベンチから立ちあがった。
「わ、トラヴィス様、急に動いては――」
しかし振り向いた彼が煌めく夜空と、噴水を背景に私に右手を差し伸べてきたので、言葉を飲んだ――とても美しかったから。美麗イラストにして一生眺めていたいくらいの。
「ユーリ、どうか俺と踊ってくださいませんか」




