21 「にゃ」
それからあっという間に数日が経った。
あの日アンジェリカの名前を聞いて、自分でも思っている以上に動揺してしまった。だが、アンジェリカはヒロインであり、トラヴィスも主要登場人物のはずで自分とは生きる世界が違うのだ、と自身に言い聞かせた。
(こうして彼と思いの外長い時間を過ごしてしまって、なんだかこんな時間がずっと続くのだと勘違いしてしまったんだわ……私はリハビリが終われば、ここを去る人間なのに)
自分を鼓舞するために、アイヴィー・エンドを去った後の人生について思いを馳せるようにした。
(とりあえずまずはフォスター先生の診療所には戻るけれど……いずれは独り立ちして、リハビリの専門施設を作りたい)
今回のリハビリを通して分かったことは、貴族や騎士という特殊な立場にいたはずのトラヴィスですら、マッサージや食事や休養の大切さについて知らなかった。フォスター先生がリハビリ専門の治療師がほとんどいない、と言ったのはあながち嘘ではないことを示している。
だからリハビリに興味のある治療師を相手に指導をするのも悪くない考えかもしれない。フォスター先生に相談すれば、快く力になってくださるはずだ。
(うん、知識は共有しなくてはならないもの。これはきっと私のライフワークになるのに違いないわ)
☆
今朝も早くから、トラヴィスは真剣な表情でリハビリに取り組んでいる。杖はまだいるものの、二十分も休まずに歩き続けることが出来て、ここしばらくの新記録だった。
「トラヴィス様、すごいです。今日は三十分も歩いていますよ? 足や、背中は痛くありませんか」
「ああ、大丈夫だ」
杖を使い、少し自由が効かない右足を庇いながら歩くことで、左足はもちろん、背中や腰などを痛めないよう気をつける必要がある。
(もう少し、歩けそうだけど……どうしようかな)
あまり疲れている様子は見られないが、調子が良いからといって歩き過ぎて、翌日に響いてもいけない。
やはり止めよう、と思った瞬間。
彼の杖が小さな石にひっかかり、一瞬だけバランスを崩しかけた――ように見えた。
(――あっ!)
いけない、と瞬時に判断して、彼の肩下に自分の身体を押し込み、背中とお腹に手を回して転ばないように支えた。これでも以前よりは痩せているのだろうが、それでも十分な身体の厚みが感じられた。
「悪い」
彼の低い声が思ったより近くから聞こえて、誘われるように私は顔をあげた。
「――!!」
予想以上に彼の美しい顔がすぐ側にあって、私は内心大慌てした。彼の銀色の前髪が、ともすれば私に触れそうな距離だった。
「ご、ごめんなさい!」
(顔をあげてはいけなかったわ)
だが、彼が転倒してはもってのほかだ。私はゆっくりと彼の身体が重心を取り戻すまで、支え続けた。トラヴィスからは普段使っている高級そうな香水に混じった男らしい香りがした。
(リハビリなんだから、こんなことで焦っていてはいけないのに)
トラヴィスだけではなく、アガサさんや、他の患者にもしたことがあるのに――誰にもこんな気持ちになったことはなかったけれど。
(私はモブ令嬢以下……)
邪念を捨てるべくここしばらくの呪文を心の中で唱え、私はうつむいた。地面を見つめたまま、トラヴィスに尋ねた。
「離れても大丈夫ですか?」
「――」
「トラヴィス様?」
「……ああ」
大丈夫だ、ということだと判断して、そっと身体を離そうとした。
その時とても奇妙なことが起こった。
「にゃ」
(え? ……トラヴィス……?)
猫の鳴き声――ではなく、トラヴィスが小さく呟いたのだ。
(にゃ……? 何?)
すぐにトラヴィスが自由になる左手を私の腰に回して、ぐっと力をこめた――ように思えた。
その時。
「朝から精が出るね」
背後から私の最推しの声が響いて、私は慌ててトラヴィスから距離を取った。するりと彼の手が難なく離れていく。
後ろを振り向けば、少し離れた道にセルゲイが朝から寸分も隙のない格好で立っていた。
「トラヴィス、あのままだと転びそうだったぞ。ユーリがいたから良かったものの」
セルゲイがあっさりそう言ったので、私はほっと安堵の息をついた。この裏道は、屋敷から目の届く距離だ。万が一にでも勘違いされるような行動は慎まなければ、と自分を律した。
私はその場でそのままカーテシーをして、セルゲイに挨拶をした。
「ユーリ、今日も朝からありがとう」
「いえ、とんでもございません」
「用件はなんだ」
トラヴィスが冷たい声で割り込んだ。
「用件はなんだもなにも、この前の返事を聞いてないからね――今日アンジェリカが屋敷に来ることになった」
(アンジェリカ……が……!)
どきんと胸が高鳴った。
私はこのまま兄弟の会話を聞いてはならないと辞することにした。だが、私が離れようとすると、トラヴィスの左手が私の右腕を掴んだ。
(なに……?)
セルゲイがトラヴィスの左手をちらりと見たが、何も言わなかった。とまどいながら私が見上げると、トラヴィスの表情がいまだかつてないほど無くなっていた。
「会わないといっただろ」
「あのな、トラヴィス、そういうわけにはいかないだろうが」
「会わない」
トラヴィスは手を離してくれないし、私は困ってしまった。
「駄目だ、当主代理命令だ――そんなわけだから、ユーリ。今日の午後のリハビリは全てキャンセルだ」
私が答える前にトラヴィスが返事をした。
「リハビリはキャンセルしない」
「頑固だな、お前。知ってたけど」
「兄上に似ているからな」
セルゲイは美しく整えられた髪の毛が乱れるのにも構わず、ぐしゃぐしゃと頭をかき回した。
「三十分でいい。それでどうだ? リハビリもキャンセルしなくて済むだろう? これ以上の譲歩はないぞ」
そこでトラヴィスが深く長いため息をついた。
「わかった。いつアンジェリカは来るんだ?」
アンジェリカ、と彼はその名前を呼んだ。
そういえば、トラヴィスは私のことを名前で呼んでくれたことがない、と場違いなことを考えた。だが当たり前だ、私はただの使用人にしか過ぎないのだから。
「昼だな」
再びトラヴィスが深い深いため息をついた。
「聞こえよがしにため息をつくな」
「じゃあ、午後のリハビリの前なら」
そう彼が答えたので、セルゲイがようやくほっとしたかのような笑顔になった。
「じゃあアンジェリカが屋敷に来たらお前の部屋に連れて行く」
「応接間でいい」
そっけなく答えると、トラヴィスはセルゲイから興味を失ったように、視線を逸した。私を見下ろして、呟いた。
「左足が痛い」
「――!」
私は驚いて、そっと彼に近づいた。必要ならば身を挺して支えなければならない。
「立っていられます?」
トラヴィスの顔色はそこまで悪くはないが、確かに疲労の色が見受けられた。
「なんとか。このまま屋敷に戻る。手を貸してくれ」
「もちろんです」
解放してくれた右腕をそのままトラヴィスの背中に回した。セルゲイが珍しくぼやっとした感じで、私達を見ていた。
「なんだ? まだ何か用事が?」
トラヴィスが尋ねると、セルゲイが、ははは、と口元をゆるく開けて笑った。
「ないよ」
セルゲイが両手の平を見せた。
「じゃあ、俺たちは行く」
「ああ。後でアンジェリカが来たら、執事をお前の部屋に送る」
トラヴィスは鼻を鳴らし、ゆっくり動き出した。彼のペースで歩くのに合わせながら、私はセルゲイに謝罪した。
「セルゲイ様、失礼いたします」
「あー、うん」
セルゲイが後ろで、私は何を見せられてたんだ!? とぼやいている言葉は私には届かなかった。




