12 表情筋どうされました?
翌朝、とんでもないことが起こった。
私が部屋の扉を開けると、眉間に皺を寄せたトラヴィスが立っていたのである。左半分しかあらわになっていないというのに、不機嫌そうだとすぐに分かる。
「わぁ、ずっと廊下にいらっしゃったんですか? どうされました?」
今まで一度も姿すら見かけなかったのに、こんなに立て続けに会えるなんてありがたい。まるでゲームのレアキャラのようである。
「お前が朝飯を作るところを見たいと思って」
「え?」
昨夜、本当にココアの入っていたカップを洗うのを眺めていたトラヴィスだったが、今度は私が朝食を作るところを見たいのだという。なんとも物好きな人だ。
「何か問題あるか?」
「問題はありません。でも何も特別なことはしませんよ?」
トラヴィスの眉間の皺が深くなった。
「それでもだ」
「はぁ……、お好きにどうぞ」
私の返事に、トラヴィスはゆっくりと片眉をあげてみせた。杖をついて歩く彼のスピードに合わせながら、一緒に厨房に向かった。
◇
早朝だったため厨房には私達の他は誰もいなかったが、しばらくしてアンソニーが入ってきた。筋骨隆々のアンソニーと並ぶと、トラヴィスの細さが際立つ。――彼はやはり病人なのだ。
「え、トラヴィス様!? 何か、何か粗相でもございましたか?」
アンソニーは突然のトラヴィス登場に慌てていた。
そこでとても不思議な事が起こった。トラヴィスの表情が一気に無になったのだ。
文字通り、無、である。
とてもじゃないが、顔の右半分をマスクで隠しているから、だけでは説明がつかないほどの変化だった。
私は呆気にとられて、みるみる失われていくトラヴィスの表情を眺めていた。そんな私の目の前で、トラヴィスが口を開いた。声の調子はどこまでも平坦で、冷淡な印象すら与えた。
「問題はなにもない――ただ、こいつが今から朝食を作る、というから毒でもいれないか見学しにきた」
アンソニーは余計に混乱しているようだ。トラヴィスを見て、私を見て、またトラヴィスを見ている。
「こいつ……。毒……!? 今更……!?」
アンソニーが口を滑らせた。
(そりゃそう思うよね……)
確かにトラヴィスはここしばらく私の作った食事を食べている。毒をいれようと思ったら、もっと以前からしているはずである。――してないけど。
「トラヴィス様はどうやら私の料理の腕を気に入っていらっしゃるようで、作る過程をご覧になりたいそうです」
「別に気に入っていない」
冷たい声で割り込まれたが、私は肩を軽くすくめただけだった。昨夜帰らないでくれ、と部屋に飛び込んできたくせに何を。アンソニーの手前、口には出さなかったけれど。
「は……、そ、そうですか。まぁ、そうですよね、ユーリさんがいれば、体調も悪くなられていないようです、し、ね」
じろり、とトラヴィスがアンソニーに冷たい視線を送ったので、料理長は口をつぐんだ。
(私がいれば体調が……? どういうことだろう)
しかし男性陣は沈黙するばかりだ。しばらくしてアンソニーはようやく衝撃がおさまったのか、ぎくしゃくしながらも動き出した。
(アンソニーさん、右手と右足が一緒に出てる……)
「ト、トラヴィス様、この椅子にお座りください」
アンソニーが私の手元がよく見える位置に、どこからか運んできた椅子を置いてくれた。トラヴィスはこれには素直にお礼を言った。
「助かる」
「――!」
お礼を言われたアンソニーは最初、ぼうっとしていて、何を言われていたのか理解できていない様子だった。その後、すぐに、あ、いえ、当然のことをしたまでです、などと口ごもりながら答えていたが、既にトラヴィスはアンソニーから意識を逸していた。
それから息を吹き返したらしいアンソニーは次々に入ってくる厨房の下働きのうち、女性だけ違う部屋での仕事を割り振ってくれた。そこまでする必要があるのか、と思ったが、念には念をいれたのだろうか。
セインや他の料理人たちも、部屋の奥に鎮座しているトラヴィスに驚いて、目を丸くしていた。
(やっぱりゲームのレアキャラ感がすごい……)
「すみません忙しい時間に。今から手早く作りますね」
食料庫の前で、私は小声でアンソニーに謝った。次回からは相談して、時間をずらすなどの対処が必要だろう。アンソニーは笑顔になると、やはり小声で返してくれた。
「問題ありません。セルゲイ様から、今一番優先するべきはトラヴィス様のご回復だと命じられています。なのでユーリさんはどうかお気になさらず」
「ありがとうございます」
「だから大丈夫ですって」
アンソニーは爽やかに仕事に戻っていき、私は手を洗ってから、調理を始めた。
脂をあまり使わないように留意しつつ、オムレツ――具はなしだが塩とハーブはいれた――、野菜スープ、温野菜のサラダ、それから焼き立てのテーブルロールパンをふたつ添えた。湯でボイルしたソーセージもつけた。ボイルしたのは、茹でることで焼くときに比べて余計な脂が落ちるからだ。今までと同じく常温の水をコップに淹れた。
椅子に腰かけたトラヴィスは私が忙しく立ち働くのを、無表情のまま見守っていた。視線は鋭く、厳しい。昨夜の会話がなかったら、監視されているかと思うくらいである。
(いやはや、本当にさっきと同じ人なの?)
朝食の支度が終わったので、トラヴィスに尋ねた。
「ダイニングルームかお部屋まで私が運びましょうか?」
するとトラヴィスは首を横に振り、厨房の向かいの部屋で食べる、と短く告げた。私は了承し、朝食をのせたバーカートを押しながら、杖をついてゆっくり歩くトラヴィスに付き添った。
部屋に入り、彼がソファーに座った。その前のローテーブルに食事を並べると、皿を眺めているトラヴィスの顔にみるみるうちに表情が戻っていく。
私は狐につままれたように彼を眺めていた。
「お前も座れよ、立たれてると鬱陶しいことこの上ないからな」
私は迷った。治療師とはいえ、セルゲイに雇われている身である。私の迷いを見越したのか、トラヴィスは少し強い口調で付け加えた。
「いいから。他に誰もいないだろ」
それでようやく決心した。私が頷くと、トラヴィスが少しまた表情を動かした。
「それで、お前は食わないのか?」
「後で頂きます」
「そうか」
私が向かいのソファに座ると、トラヴィスは食事に集中しはじめた。完璧な作法でカトラリーを使い、あっという間に綺麗に全て平らげていった。食後に水を飲みながら、彼が唸った。
「うまい」
「それはよかったです」
トラヴィスは腕組みをした。
「やはりお前は魔女だろう」
「だから違いますって」
私は苦笑した。
「だが、今まで何を食べても味がしなかった。お前が作る食事からは香りもちゃんとするんだ。女だと知って納得した。お前は魔女に違いない」
なんという乱暴な論理だ。しかし私は、彼の発言で気になった点があった。
「今まで香りも、感じませんでした?」
「ああ、感じにくかった」
そう頷く彼には、やはり表情が戻っている。その違いを私は興味深く眺めていた。
「もしよければこのままお話を伺わせていただきたいのですが、とりあえず食後に、ハーブティでも飲まれませんか」
「ハーブティ?」
「はい。レモングラス辺りがいいかなと思っているんですが。もしご興味があればいかがでしょう」
レモングラスのハーブティは、レモンのような香りが強く、癖の強いハーブの中でも、比較的飲みやすいはずだ。カフェインレスだし、消化不良に効く。ただ、もともとアジア料理に使われていることの多い食材で、チートなこの世界観だからこそ手に入るものだが、トラヴィスが知らないのも当然だろう。
効能を説明をするとトラヴィスは頷いたが、ぽつりと呟いた。
「ココアではないのだな」
「ココアがお望みでしたら、午後にでもまたお淹れします」
途端、無表情なトラヴィスの瞳が輝いた。
(ココア、美味しかったのね)
なんだか微笑ましく思いながら、一人で厨房に戻る。厨房では、使用人たちが忙しく立ち働いていたので、邪魔をしないようにレモングラスハーブティを淹れた。もしトラヴィスの好みではなかったら、私が頂けばいい話だ。アイスティーとしても美味しいから、冷えても問題ない。
乾燥したレモングラスを適当な大きさに切って、ティーポットにいれ、お湯を注いで蒸らすと、またたく間にハーブの良い香りが辺りに漂った。
興味津々、といった様子のアンソニーが寄ってきて、
「ということは、ユーリさんはご自宅には戻られない、ということで?」
と尋ねた。
「そうですね……。もしこのままトラヴィス様が私の問診を受けてくださるなら、とりあえず今回は帰らなくて良さそうです」
そう答えると、アンソニーはなんとも不思議な表情をした。
「どうされました?」
「いや、なんでもないです。……いつもは部屋すら出ないというのに、ユーリさんのことは必死で引き止めにこられたんだなぁ、あの方は。しかも体調もユーリさんがいれば……?」
アンソニーはごちゃごちゃと何か言っていたがそのまま自分の持ち場に戻っていった。
(なんだろう?)
引きとめたかったが、料理長の彼は今から凄まじく忙しい。また機会を見つけて、聞くことにする。そうこうしている間にお茶の支度が完了したので、トラヴィスの待つ部屋に戻った。
トラヴィスは大人しくソファに座り、目を瞑って待っていた。目眩でもしているのかと心配したが、目を開けた彼の視線は昨夜のようにはうろついていなかったし、顔色も悪くないから、大丈夫そうだ。
やはり食事は大切だ。
レモングラスのハーブティが入ったカップをソーサーにのせて準備すると、トラヴィスはすぐにカップを手に取り、香りを確認している。
「草みたいな匂いだな」
「くさ……? まぁハーブですからね。でもレモンに近くないです?」
「……レモン……か」
そういいながらも素直に彼は一口含み、小さく唸った。
「お口に合いませんでした? でしたら、無理に飲まないでも――」
「別に嫌いとは言っていない」
そう言いながら彼は全部飲んだ。
(嫌い……ではない? けれどココアほどは好きじゃない?)
わかりやすいようで、わかりにくいトラヴィスの表情を読むのに私は注力していた。
「おかわりは?」
と尋ねると頷いたので、どうやら本当に嫌いではなかったのだろう。
「兄からは新しい治療師を雇った話は聞いていた」
私がローテーブルに置いてあるカップにおかわりを注ぐのを見ながら、ぽつりとトラヴィスが呟いた。
「はい」
「話を聞いたその夜、今までとはまったく違う料理が運ばれてきた。しかもメモがついていた」
「そうですね、すぐに召し上がって頂けて嬉しく思いました。メモに関しては、お目にかかれないとのことだったので、せめてお好みをうかがいたくて」
「職務に忠実、だったか? だが、そんなことは初めてだったな」
トラヴィスの顔は無表情に近かったが、口調は意外に柔らかかった。
「きちんとお返事をくださって、助かりましたよ。それにトラヴィス様とやり取りさせていただけて、とても楽しかったです」
これは本音である。
「そうだな。俺もたのし……」
「?」
トラヴィスが軽く咳払いをした。
「いや、なんでもない。それで、お前はリハビリ専門の治療師で、料理もするとは聞いていたが……お前自身については兄は何も言っていなかった。教えろ」