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11 一度会いさえすれば、好調な出だし

(症状としてはきっと貧血な気がするわ。貧血の時は……)

 

 カップに半分くらい淹れたホットココアを手に戻れば、トラヴィスの顔色は少しだけ良くなっているように思えた。それでもまだまだ健康な人と比べれば、青白い。血の気が引いているのだろう。


「どうぞ」


 私が差し出したホットココアを彼は懐疑的に眺めた。


「これは……ココアか? 女子供の飲み物だろう、これは」


「はい。ですがチョコレートではなくカカオを使ってますし、あまり甘くないようにも調整してあります――貧血のときには効きますよ。どうぞ薬だと思ってお飲みください」


 ココアの粉末には鉄分が含まれている。鉄分は取りすぎるとお腹を下すこともあるから注意が必要だが、もちろんココアを一杯飲むくらい問題ない。

 

 私がそう言えば、彼は大人しく啜った。しばらく黙って飲んでいたが、ぽつりと呟いた。


「うまい」


「良かった。美味しいのが何よりです」


 彼は顔を少しだけしかめつつも全て飲み干した。温かくて甘いココアを飲むと、彼の顔色はずっとマシになった。少々の糖分はこういう時、役に立つ。


 しばらくしてトラヴィスはうつむいた。


「悪い」


「?」


 私は首をかしげた。


「女子供の飲み物じゃないか、などと言って悪かった。こんなにうまいんだな、ココアは。そもそも俺の発言は、その、女子供に失礼だった」


 私は苦笑した。

 セルゲイも似たようなことで謝っていた。やはり兄弟だから似るのか。


 メモでのやり取りを通じて感じていた通り、彼は悪い人ではなさそうだ。氷の騎士だと評される人なのに、口調は意外に柔らかく、話しにくくもない。最推しとはいえ腹黒セルゲイよりよほど素直そうな印象だ。


(氷の騎士、なんて言ってるのは、きっと彼と直接話したことがない人かな)


 遠目だったら、彼の容姿は凛としていてみえて“氷の騎士”の名前はしっくりくるはずだろう。

 

 私は患者の気持ちを軽くすることに注力することにした。


「別に私は気にしていません。謝るなら私にではなく、ココアに謝ってください」


 ぴくりと彼の肩が揺れた。

 

「ココアにだと?」


「はい。これから付き合い方を考える、と心底謝罪してくれればそれでいいです。これからトラヴィス様は時々ココアを飲まれるのがいいかもしれませんね」


 紅茶やコーヒーを朝食時に供するのは貴族のスタンダードではあるが、カフェイン含有量が高いため、鉄分摂取を阻むことがある。健康な成人男性ならばまったく問題ないが、彼の場合、今は避けておいたほうが無難だ。今まで食事には水を添えていて、正解だった。


 トラヴィスは顔をしかめた。


「お前、変なやつだな」


「ですかね。なので私のことは女と思わず、変なやつと思って頂ければ」


 澄ました顔で言うと、トラヴィスはますます呆気に取られた表情になった。


「それで、せっかくお部屋まで来ていただいたので、今後のメニューの相談をしたいのですが――もしもう少しお時間があるのであれば」


 私がそう続けると、しばらくしてトラヴィスがゆるゆると口元を緩めた。


「今からメニューを相談するだと?」


「職務に忠実なんですよね、私」


「物はいいようだな――明日家に帰るから今話す必要があるのか? 家に帰らなければならないのだろう?」


 どこかおそるおそるといった調子で尋ねられた。


(それが心配だったの?)

 

 意外だった。

 内心の疑問は顔に出さないように気をつけながら、私は否定した。


「トラヴィス様が私とこうして直接話してくださるなら、私は帰りません。今後のために、医者の先生に往診を頼もうと考えていたんです」


 そう答えれば、納得した、という顔になった彼は椅子に座り直し、私に向き直った。このポーズから察するに、前向きに私の話を聞いてくれるのだろう。


(どんな力が働いたかわからないけど、体調が悪くならなくてよかった)

  

 そしてトラヴィスは私に協力的にみえる。

 患者さんとのファーストコンタクトとしては、意外なくらい理想的な出だしだった。私は『トラの巻』を取り出して、ペンを構えた。椅子は部屋に一つしかないので、立ったまま尋ねる。


「食事の度にメモのやり取りをさせていただいていましたけど、基本的には薄味が好みでいらっしゃいますよね?」


「そうだな」


「特に好きな味とかはございました?」


 彼はあっさり答えた。


「お前が作るのはどれもうまかった。とはいえ、俺はもともとあまり食に興味がない」


「しょくにきょうみがない」


 私がオウム返しに言うと、トラヴィスの眉間に皺が寄った。


「騎士たちで食にうるさい奴なんて、戦場で死ぬ理由がひとつ増えるだけだろう。まぁ、以前は味が濃いものも好きだったんだが、この屋敷に戻ってからはどうも胃が受けつけなくなって」


「なるほど」


「料理長の料理はまずくはないし、豪華な類だと思うんだが、俺にはどうしても合わなかった」


「そういうことは、あるかもしれませんね」


 アンソニーは悪くない。彼は病人食はまだ勉強中だと言っていた。それにどうやらトラヴィスはあまり部屋から出なかったようだから、アンソニーとも会話はしていなかったはずだ。だから、食後に皿に残された料理からアンソニーはトラヴィスの好みを判断するしかなかったのだろう。


(とりあえず、私がいくつかメニューを試して……アンソニーさんにメモを書いていけば、いつか私がいなくなっても大丈夫なはずだから……)


 私は途中からトラヴィスから意識が逸れ、机の上に置いた『トラの巻』に気づいたことを書き込むのに集中していた。


(どうしようかなぁ……味が濃いものばかり出せないけど、ダシの味が染みているものならば満足感が高いだろうから……そうだ、病気の症状を聞かないと――でもそれはあとでゆっくり問診したらいいか……あ!)


 そこでトラヴィスの存在を思い出して、顔をあげた。すると彼は面白いものを見るかのような表情で私を見ていた。


「お前、俺のことを完全に忘れてたな」


「すみません」


 これは完全に私の非だ。


「まぁ仕事のことを考えているのだから許してやる。――しかし妙なものだな、俺はお前とだけは普通に話せるらしい」


 ほっそりした長い指で、彼は自分の顎を触っている。最後は自分でも驚いている、といった口調だった。


「はぁ」


「なんだ、そんな気の抜けた声を出すな――それに俺のこのマスクについても何も聞かないんだな」


 彼はくいっと顎をあげた。

 マスクは確かに目立つけれど、彼の美貌を損ねるものではない。


「はい、私の仕事には関係ありませんので。あの、明日で結構なのですが病状についてうかがいたいので、トラヴィス様のお部屋に行ってもいいですか?」


 ぴくりとトラヴィスの顔が歪んだ。


「俺の部屋?」


「はい、あまりお時間は取らせないつもりです。もしご自分のお部屋がお嫌でしたら、応接間でもなんでも結構です。トラヴィス様の体調を把握するのに、いくつか質問させていただきたいだけなので」


「俺の部屋に来たがる女は山程いるのに、お前はあくまでも治療のためなんだな」


 王都でも有名な氷の騎士だったのだから、彼と付き合いたい女性は多かっただろう。


「私はトラヴィス様の治療のためセルゲイ様に呼ばれましたので、他意はありません」

 

 トラヴィスは鼻を鳴らした。


「考えておく。それで、先程の質問で終わりか?」


 その問いに関して、私はちょっと考えた。パラパラと『トラの巻』をめくってから、彼に尋ねた。


「今まで出させていただいた料理は全て召し上がっておられましたけど、本当に一度も具合は悪くなられませんでした?」


「ああ。快調だ。むしろ時間になると腹がちゃんと減るくらいだ」


(基本的に野菜がメインだから、胃腸がちゃんと働いているんだわ)


 それはトラヴィスの身体にとって良い兆候である。


「わかりました。じゃあ、明日の朝食はオムレツと、スープと、温野菜のサラダにしましょう。ボイルしたソーセージもお好きですよね? だからそれもつけますね」


 私は頭の中でメニューを考えながら彼に答えた。


「ではもう夜遅いので、今はこのへんにしておきましょう」


 私が手を差し出すと、彼は首をかしげた。


「なんだ?」


「ココアの入っていたカップを渡してくださいますか? 洗いに行きますので」


「洗いに? 俺も行ってもいいか?」


「え、洗うだけですよ? 何も面白くないと思いますけど……お好きなようにどうぞ」


 そう言えば、彼はなんだか微妙な顔をして、私を見ていた。

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