-1-5 デビュー(5)
玲奈がテニスコートを離れて、小道沿いにある野球場を一人でぼうっと眺めていると、向こうからさっきの対戦相手が歩いてきた。
玲奈は知らぬ顔で野球場に視線を戻す。
「あの・・・」
細い道だから、無視して通り過ぎるのもかえって不自然だと思ったのか、その子は玲奈に話しかけてきた。
「玲奈ちゃん?」
「そう。・・・ごめん、名前覚えてへん」
「あっ。萌菜」
「ふうん」
挨拶だったら、もうこれでよさそうなものを萌菜はここで立ち止まる。
「何か用?」
「いや、あの、次の試合こっちやから」
さっきから試合の子が通ると思ったら、こっちにもテニスコートがあるらしい。
玲奈は一人になりたくてここに来たのに、どうやらここはそれに向いていなかったようだ。
玲奈は用事もないから黙っていると萌菜が続けて口を開いた。
「5年生?」
「そう」
「大っきいね」
「うん」
会話と言うほど話は続かずお互いに気まずい思いをする。
「そっちは?5年?」
今度は玲奈が話しかける。
「ううん、4年」
「ふぅん。背、高いね」
「うん」
試合なら早く行けばいいのにと玲奈は思う。
「試合は?」
「あっ、うん。まだ大丈夫」
「あ、そう」
・・・。
自分の横に収まって一緒に野球場を眺めている萌菜に、一つ年上の玲奈が仕方なく気を遣う。
「お母さん、優しそうやな」
「うーん、今日だけ、かな。玲奈ちゃんのお母さんは怖いな」
「ううん。うざいだけ」
「あ、そう。・・・お父さんは?優しいん?」
「ううん。・・・おらん」
「あ、そうなんや」
玲奈は萌菜にウソをついたわけではなかった。
本当のことじゃないけど、本心を言ったつもりだ。
でも何も知らない萌菜は「ごめん」と言って黙ってしまった。
「もう行かなあかんわ。バイバイ」
その場の空気に耐えられなくなった萌菜が口を開いて、その場を後にした。
なぜだか来た方向に戻っていった萌菜を見て玲奈は「何なん?」と呟いて、また一人野球場を眺めた。
さっきのコートではもう次の試合が終盤に差し掛かっていた。
その横の観覧席の端に玲奈の母親が座り込んでいた。
始めはそばにいた何人かもそこを避けるように移動していったから、今は不自然に一人だけポツンとしている。
そこに千佳子は近付いていった。
そしてそのうなだれた母親のそばまで来て、千佳子は立ち止まってしまった。
自分でも何をすれば良いのかよくわかっていない。
そもそも萌菜に負けたから怒ったのだ。その負かした相手の親が何を言ってもイヤミに聞こえるだろう。
それにまったく知らないさっき初めて出会った人だ。
別に自分が何かする必要もないと思うし、自分に何が出来るとも思えない。
きっと余計なお世話なんだろうと千佳子は思う。
でも。
なんと言うか、だ。
「あの」
目の前のゲームも見ず、自分の足下に視線を落とした玲奈の母は千佳子の問いかけにまったく気付く様子もなかった。
「あの、武藤さん?」
玲奈の母はふと頭を上げて千佳子を見たが、誰だかわかっていないようだった。
「あの、萌菜の。大西萌菜の母です。さっき試合をした」
玲奈の母は何も受け答えをせず、じっと千佳子を見つめるだけだったから千佳子は慌てた。
「あ、あの、ごめんなさいね。おじゃまでした?」
「いえ、別に」
邪魔じゃないけど、歓迎もしていないという風に聞こえた。
「あ、あのね、私こういうところ初めてやし、ここやったら武藤さんしか知り合いおらんし・・・」
オロオロしている自分に気が付いているが、この程度の会話しか出来ないのだから仕方がない。
千佳子はとにかく会話を途切れさせないようにと言葉を続ける。
「玲奈ちゃん、テニス上手ですよね?!」
自分の娘に負けた子の親に言うことじゃなかった。
「そちらのお子さんの方が上手じゃないですか」
やはり気を悪くさせてしまった。
「萌菜なんて全然でどうしようもないですよ」
ダメだと思うほどそっちの方に行ってしまう。
「ほんと、たまたまですよ。玲奈ちゃんのボールが入ったら萌菜なんてちゃんと返せませんでしたし」
千佳子が出来ることなんて何もないのだ。それは自分でもよくわかってる。
「さっきも完全にまぐれですし。変な試合してごめんなさいね」
玲奈の母は何も言わなかった。千佳子が何を言いたいのかわからないのかもしれない。
その千佳子自身が自分で何が言いたいのかわかっていないのだから。
千佳子は言葉が続かなくなって、話しかけたことを後悔した。
「・・・こちらこそ、練習にならない試合でごめんなさいね」
玲奈の母がつぶやくように言った。
「あ、いや。ごめんなさいはこっちですから」
千佳子は玲奈の母を見る。
玲奈の母は目の前のコートを眺めていた。
「さっきびっくりしたでしょ」
玲奈の母は視線を前に向けたまま独り言のように話した。
千佳子は何も言えなかった。
「あの子が・・・ちゃんと出来へんから、つい」
「つい」では済まない勢いだったと千佳子は思った。
本人は出来ることを精一杯やったのだろうと思う。
それに小学生だと言ってもあのくらいの学年なら人目も気にする。
まだまだ小さなものだろうけど自尊心も芽生えているだろう。
そんな子がみんなの見てる前で大声で叱られたんだから、さぞ傷ついたことだろうと思う。
「あの、娘さんもすごくがんばってたと思いますよ」
玲奈の母は何も言わない。
「サーブも速かったですし」
実際、萌菜はまともにラケットを振ることが出来なかった。
「最後もすごい粘ってたし、ほんとに負けると思ったんですよ」
第9ゲーム、お互いミスばかりという展開をギリギリの差で玲奈が取って4-5にすると、続く第10ゲームでは玲奈はとにかく相手のコートに返すようにプレーをした。
玲奈の母はその姿を思い出す。
相変わらず、ミスをしないように意識した玲奈はヘンテコな打ち方をしていた。
ただとにかく多く返球しようとしたそのゲームは長い時間がかかった。
40-40。
アドバンテージの無い試合だから、後1ポイント取れば5-5で追い付くというところだった。
そしてそれは後1ポイントを取られれば負けるポイントでもあった。
結局、玲奈はこれを取ることが出来なかった。
そして今日も何も変わらないことが決まった。
「結局、負けですから」
「でも」
「負けは負けです。負けたら・・・」
玲奈の母は何かを言おうとしたが「・・・ダメなんです」と簡単な言葉で締めくくった。
千佳子はそれ以上踏み込もうとはしなかったから会話はそれで終わってしまった。
「私、もう帰りますので」
玲奈の母は立ち上がってそう言った。
「あ、はい。なんかおじゃましてごめんなさいね」
「いえ」
千佳子は自分のいつものお節介といつも通りの無力さを感じて話しかけたことを後悔した。
玲奈の母は車に戻ったものの玲奈がいないので帰ることが出来なかった。
かと言って探しに出る気はまったく起こらない。
どうせ探しに行っても嫌がられるだけだということを知っている。
玲奈は以外と手の掛からない子供で、放っておけば自分で気持ちに整理を付けて帰ってくる。
だから。
だから・・・、どうでもいいのか?
夫へまたいい報告が出来なくなったことが気になった。
今日から楽しい日々が戻ってくるハズだったのに。
それを。
玲奈が勝たなかったから。
玲奈がもっとがんばっていたら。
もっと、もっと何かが出来たろうに。
[仕事中にごめんなさい。玲奈の試合のことで連絡しました。]
玲奈の母は夫にメールを打った。
そして返信も待たずメールを続けた。
[今日も負けました。4-6です。]
夫が帰ってきてから、目の前でちゃんと報告したほうが、もしかしたら色々話せるかもしれないと思っている。
色々話せば夫の興味を引くかもしれないし、夫が喜ぶかもしれない。
だから話す内容はじっくり考えて、そしてしっかり話が出来るように夕食の時間を選んでいた。
でも今日は少しも待てなかった。
返信なんてないのはわかっているし、また夫を怒らせるだけだと思った。
でも我慢出来なかった。
携帯を握った手が振動して、予想外の返信を伝えた。
[そんなん結果聞かんでもわかってるわ。何を期待しとんねん。]
それでも内容はいつもと同じようなものだった。
[ごめんなさい。]
夫の機嫌を損ねたくないからすぐに謝りのメールを入れた。
[なんでお前が謝んねん。意味わからん。どうせそんなもんなんや。]
いつものように自分が責められるように感じて、メールはやっぱりダメだったんだと思った。
[ごめんなさい。気を付けます。]
[何を気を付けんねん?!マジで意味わからんねんけど。玲奈のこともどうせ勝たれへんのわかってんねん。俺らの子やぞ。そんなんどうせ負けるんやからいちいち気にせんでええんじゃ。]
夫は私のことをダメだと言う。
自分のこともダメだと言う。
そしてとうとう玲奈のこともダメだと言った。
やっぱり負けたらダメなんだろう。
あんなに格好悪い打ち方までして、結局負けてしまうんだ。
玲奈はやっぱりダメなんだ。
玲奈は・・・。
[今日は惜しかったです。]
しばらく待ってみたけど夫からの返信は来なかった。
[サーブもリターンもいつもより良かったんです。3-5で負けそうなところだったのに4-5まで追い上げて、最後も20回くらいラリーが続いて40-40まで行った。後ちょっとで追い付くとこやった。でも最後に取られて負けてしまいました。]
何を書いても返信はない。
それでもよかった。夫に聞いてもらえれば。
[相手のお母さんも負けると思ったって。玲奈のこと上手やって、すごい誉めてくれた。]
そうじゃない。
そんなことじゃない。
[玲奈、がんばってたもん。ほんまにすごくすごくがんばっててん。玲奈は全然ダメじゃない。それやのに、私、玲奈に怒ってばっかりで。今日も試合が終わって玲奈にひどいこと言ってしまった。]
返信は無かった。
娘を睨んでいた母親は、やっと、娘を心配する母親に戻った。
手が掛からないと言ってもまだ5年生だ。
ひどく傷ついたに違いない。
母親は娘を探しに車を出た。
そして程なくして携帯が振動した。
[何言ったか知らんけど、がんばってたと思うんやったら誉めたったらええんや。]と書いてあった。
そして続け様にメールが来て、[帰ったら試合の話、聞かせてくれ]と書いてあった。
萌菜は初戦を勝利で飾った第1コートで、2回戦を15分程度で終わらされてコートから出てきた。
「あんた。サーブはもっと上で打たなあかんねんやろ」
千佳子は残念がったが、それなりに満足感もあった。
それは萌菜も同じようだった。
「もっと練習せなな」
「そやな」
そこには珍しく素直な萌菜がいた。
「ありがとうございました」
対戦相手の子が挨拶に来た。
聞けばまだ3年生とのことだった。萌菜は0-6で完敗した。
それでもこっちは始まったばかりだ。
まだまだこれからだと千佳子は思った。
「なんでこっちで試合やってるん?」
聞いた声が萌菜に話しかける。
萌菜が振り返ると玲奈が立っていた。
萌菜はオロオロして千佳子を見る。
「ええねん、気にせんとって。さっきの話、間違ってたというか、違うこと言ったから訂正しに来てん」
玲奈が続けて話す。
「さっき、お父さんおらん言うたやろ?あれ、ウソって言うか、ほんまはおんねん」
萌菜は今度はビックリして玲奈を見る。
「それで今度、テニス教えてもらうことになってん。ママは下手やけどパパはうまいねんて。だから次やったら負けへんで」と一方的に言うと玲奈はバイバイをして車に戻っていった。
千佳子にはなんのことかわからなかったけど、何だか少し安心した。
車の方に立っていた玲奈の母がこちらに向かって会釈をして帰って行った。
今朝、たくさんいた子供たちももう半分もいないくらいになっていた。
そして試合が終わった千佳子と萌菜も帰り支度を始めた。
「萌、今日レッスン行きたいわぁ」
「ほんまかぁ?あんた今日レッスン無いの知ってて言ってるやろ」
「違う、違う。ほんまにレッスン行きたかってんって」
「はいはい、残念やね。月曜日にがんばり」
「そやな。あー、早く月曜日になって、めっちゃ打ちたいわー」
負けて悔しいからなのか、優花ちゃんたちに会いたいだけなのか。
どっちかわからないけど萌菜はマチカネテニススクールが好きなようだ。
そして千佳子もやっとクラブの親たちの気持ちが少しわかったような気がした。
テニス少女U12 -1-5
『デビュー(5)』
終
テニス少女U12「デビュー」終わりました。
次回から「置いてけぼり」はじまります。
お楽しみに☆