-8-3 ゼロポイント 再び(3)
友寄は第8コートを後にするとすぐに二人の姿を見つけてしまった。
困った友寄は話しかけるタイミングを窺うという言い訳を使って、しばらくその場から動こうとしなかった。
(行ったらええんや)
友寄は怖がっている自分に気が付いていた。
(早く行けって)
そうこうする間に優花と父親は何かぽつりぽつりと会話をしてまた黙り込んでしまった。
友寄はイヤな予感がした。
そしてぐずぐずしていた自分に腹を立てて、ようやく二人の前に姿を現したが、言葉を用意していなかったから、しばらく何も言えなかった。
「残念やったな」
やっと絞り出した言葉に優花は何も反応しなかった。
「どうでした?」
友寄は何かを恐れ、会話の続きを父親へ求めた。
「今までで一番上手かったと思います」
父親は落ち着いていたから、友寄はほっとした。
少しの間、試合の話をした。
優花は良かったらしい。
それは友寄がここに来た時すでに相手の真田鈴が評判になっていて、その根拠が優花との試合だったから間違いないのだろうと思った。
そして優花が力を発揮したのだと思うと少し嬉しくもあった。
「内容は悪くなかったんや?」
優花は反応せず、友寄は続ける。
「ちょっと負けたくらいで気にしとったらあかんで」
テニスは試合ごとにコートやボールの種類が異なる。
このコンディションの違いはプロでさえも技術の優劣を度々逆転させる。
またメンタルの影響の大きい競技とも言われる。
色々なことが勝敗を左右する。
個人戦だから試合数も多い。
そんな中、いつも安定して力を発揮して勝つということはなかなか難しい。
だから。
残念ながらここぞという場面で勝てないということも出てくる。
「みんなそれを乗り越えてはい上がっていくんやし」
友寄はそれを失敗や挫折だとは思わない。
でも昔のようにそれが次への糧になるとももう思えなかった。
ではそれが何になるのか。
友寄はその答えを見つけることは出来ていなかったし、もはやそれを探そうともしていなかった。
友寄は自分が今していることはただの慰めだということに気が付いている。
それでもウソで固めた慰めなど言うつもりもないから、ありのままの事実を伝えたが、二人ともなんとも言わなかった。
「優花は上手くなってるし、これからも上手くなっていく」
「成長してるんやから。次にやったら勝てるやろう」
それは事実としてそう思っている。
「コーチ」
父親が割って入ってきて、友寄の心の奥に押し込んだイヤな予感が顔を出す。
「次はないんです」
友寄はこうなることが元々わかっていたような気になった。
「それに、うちはちょっと負けたくらいと違いますから」
父親は続ける。
「あんなにがんばってきて、何回も挑戦したのに、1回も本戦に上がられへん」
友寄は優花の父親の本心をはじめて聞いた気がした。
「ここまで成長出来たのはコーチのおかげやと思ってるし、コーチには感謝してます」
友寄は目を逸らす。感謝されるだけのことをした覚えはない。
「でも今日、わかりました」
きっとこうなるのだろうと思った。
「優花は限界です」
「限界」
友寄はぼんやりと父親の言葉を繰り返す。
「そう。優花はもうこれ以上がんばられへん」
電話で優花が言いたかったことはこれだったのか?
「そうなんか?優花」
優花は何も言わず、より深く頭を落とした。
それを見た友寄はやはりそうなのかと思った。
友寄は優花がいつまでもがんばり続けると勝手に思い込んでいた。
それが間違いだったんだと思うと、何度も同じ勘違いをする自分を心の中で笑った。
「試合で優花はボールを追わへんかった。それで俯いてプレーをして、いい加減なショットを打った」
優花は反論をしなかった。
そう言う父親は優花を責めているわけではないようだ。
「今まであんな態度で試合したことなかったのに」
言葉に混ざって父親の気持ちが溢れてくるようだった。
「いつでもずっとがんばってきたのに」
父親は悔しかったんだと思う。
娘にすべてを託して、一緒に戦ってきたのだ。
「でも優花は諦めた」
一瞬、優花の体が揺れたように見えた。
「もう優花はがんばられへん」
苦渋の決断なのだろう。
「せやからコーチ」
友寄はそれなら仕方がないと思った。
「優花はもう」
やっぱりなと思う。
「テニスを辞めます」
優花はじっとして動かなかった。
友寄は面白くなかった。
でも、すぐにそんなものなのだと思った。
結局は本人次第なのだ。
本人が辞めたいと思えば辞めるしかないのだと思うし、まだまだ親の助けも必要なのだから、親がやる気を失えばそれもまた辞める時なのだろうと思う。
深く考える必要はない。
そんなものなのだと思えばいいのだ。
「そうですか」
友寄はうんうんと頷いた。
そしてしばらく何も言わずに、またうんうんと頷いた。
「優花はそれでええんか?」
優花は動かなかった。
そして友寄も父親も優花の言葉を待っていた。
でも優花は何も言わなかった。
父親は娘の無言に心を痛める。
「コーチ。もうこれ以上優花を苦しませたくないねん」
父親は我慢していた。
友寄はそれをただ見ていた。
「がんばらんかったら。テニスしてへんかったら優花が悲しむことはないねん」
そして父親が絞り出した言葉を静かに聞いた。
「こんなにがんばって必死になって、家族が泣かなあかんなんてことがあるか?」
そう言う父親の頬を涙が伝って、友寄はその涙の重みを感じた。
ならなぜ?!
そう思うと急に胸が苦しくなった。
だからすぐにそんなもんだと思い直した。
ずいぶん諦めが良くなって、友寄は冷静さを取り戻す。
何をまた張り切ったのかと思った。
そんなもんだと諦めたらずいぶんラクになった。
ラクになりたかったのだ。
あの頃、その少年は友寄が自分の子供のように育てたのだ。
ラケットの握り方からすべてを教え込んだ。
そしてその少年はそれらすべてを熱心に取り組んで、モノにしていった。
これからもずっとその関係が続くと思っていた。
なのに。
少年の父親も信頼してくれていると思っていた。
なのになぜ。
1回の敗戦がそれほどまでに重いのか。
話し合えばわかり合えるのじゃなかったのか。
なぜ。
抗えないことがあることは友寄でも知っている。そして人はそれに直面するとやはり大きな苦しみを受けてしまうことも確かだ。
だから、どうせそんなものだと思ってしまえばラクになることが出来た。
そして、そんな苦しみを味わいたくないからほどほどに生きていくことにしたのだ。
だからこのマチカネテニススクールを選んだ。
自分を苦しめないここを。
なのにここにも友寄を苦しめようとする子供がいた。
その子供はシャラポワになりたいと言った。
そして協会に登録もしていないクセに同じカテゴリーの上位の選手に追いつくのだと言った。
何も知らない子供の無謀な発言だった。
友寄はそれを聞こえなかったことにして、レッスンではほどほどな指導しかしなかった。
それでもその子は友寄が言ったことすべてに熱心に取り組んだ。
友寄はそれからも目を逸らした。
そういう姿を見せて欲しくないのだ。
友寄は信じている。
だからこそそういう姿を見るとまたその気になってしまう。
また同じ苦しみを受けたらどうする。
危なかったと友寄は思った。
どうせそんなもんだと呪文を唱えて、父親の涙をただの水滴に変えた。
「続けんのが嫌なんやったらしょうがないですね」
そこそこでやっていくつもりだった。
「本人の意思が一番大事ですし」
それを優花が張り切るから。
「私が強要することでもないですからね」
別に自分はどうでもよかったのだ。
「優花」
でもせめて本人の意思は聞いておきたいと思った。
「優花」
優花からはまだ何も聞いていない。
「優花はほんまにそれでええんか?」
あんなに一生懸命だったのに。
「もうテニス嫌いになったんか」
嫌いだったらあんなにがんばれるわけがない。
「シャラポワになるんちゃうかったんか?!」
「ライバルに追いつくんちゃうかったんか?!」
優花は俯いて泣くばかりで何も言わなかった。
「コーチ。もう決めたんです」
父親が友寄に言う。
「お父さんもほんまにええんですか?」
「優花がかわいそうやねん」
「ほんまにそう思ってますか?優花はテニスを続けたらかわいそうなんですか?」
「テニスするから泣くんや。辞めたら泣かんですむねん」
「それはお父さん自身でしょう?悲しいのも、もう限界やと思ったのもお父さんでしょう」
「そうや。オレが無理矢理にやらせてきてたんや。だから、もうこれ以上親のエゴで優花を悲しませたくないねん」
「優花がそう言うたんですか?」
「言うた」
「優花の口から辞めたいって言うたんですか?」
「・・・」
「なあ、優花」
「がんばれへんかったもん」
優花が口を開いた。
「約束しててんもん」
えっえっと泣き声を混ぜながら。
「めちゃめちゃがんばるって。だからテニスやらしてって、お父さんとお母さんに約束してんもん」
「もうええねん、優花」
父親が優花を見た。
「でも約束守られへんかった。最後までがんばれへんかった」
父親は娘の言葉を黙って聞いた。
「だから優花にはテニスをする資格がないねん」
「資格ってなんやねん」
友寄は悲しかった。
「テニスするんに資格がいるんか」
「資格がなかったらもうテニス辞めんのか」
友寄はそんなものかと思った。
「その程度の気持ちしかなかったんか」
ラクになるためではなかった。
友寄の悔しい想いが言葉にこもる。
「テニス好きやったんちゃうんか?!打ってて面白いんちゃうかったんか。テニスクラブでみんなと一緒におるん楽しいんちゃうんか」
「テニス好きなん、ウソやったんか!?」
「コーチ、もう」
父親の言葉を優花が遮る。
「ウソちゃうもん」
合間合間に泣き声をはさみながら優花は懸命に言葉を続けた。
「優花、テニス好きやもん」
父親は娘の声に耳を傾ける。
「優花、テニスしたい」
風が吹いて葉っぱたちがガサガサと音を立てた。
「もっともっとテニスしたい」
「オレに気を遣わんでええんやで」
父親の言葉に優花は首を横に振る。
「優花、テニスしたいねん。テニスもマチカネも辞めたくない」
「辞めたらもうしんどい思いもせんでええねんぞ。もう泣かんでええねんぞ」
「泣いたってええもん。今まで泣くほどがんばったことなかってん。でもテニスが好きやねん。だから泣いても泣いてもがんばりたいねん。がんばってがんばってもっとテニスうまくなりたいねん」
優花は立ち上がって涙を拭うと、父親の方を向いた。
「お父さん。休みの日も潰れるしお金もいっぱいかかるけど、これからも優花にテニスさせて下さい」
父親は黙っていた。
優花は心配そうに、それでも前を向いて父親の返事を待った。
二人の間を都会は相変わらず色々な音を出して通り抜けていく。
父親の返事は決まっていた。
ただ嬉しくて、声が出せなかっただけだ。
本当は父親も辞めて欲しくなんてなかった。
ただ辛そうな娘を見るのが耐えられなくなっただけだ。
そして、それが自分たち親のせいだと思っていたから。
優花も辞めたいなんて思っていなかった。
でも約束を守れなかったから。
それに両親に迷惑をかけていると思っていたから。
そして友寄も本人たちの意思次第だなどとは思っていなかった。
そう思わないと自分が傷付くから仕方のないことだと割り切ろうとした。
どうせそんなものなのだからと、自分の心を裏切って大事なものを失うところだった。
その少女は、テニスの基本をいろんな人達から教わったのだそうだ。
そしてそれを友寄がほんの少し磨きをかけた。
少しだけ磨かれたその少女の行動が他の仲間たちをまた少しずつ磨いていく。
教え子たちの小さな光が集まるとそこはピカピカと輝きだした。
そしてその光が自分を照らしていることに友寄が気付くにはまだまだ何年もかかりそうだった。
「優花。ライバルの試合、見るか?」
「うん、見る」と言って優花は母親からもらった古いラケットバックを肩にかけた。
数年前に無謀な発言をした優花はさっきほんの少しだけ立ち止まり、今また立ち上がった。
たまにはがんばれない時もある。
そんな時には立ち止まればいい。
それでもまた立ち上がって続けてさえいれば大丈夫なのだと友寄は思う。
その先に何があるのか。
それには何の保証もないけれど、諦めなかった自分がそこにいることだけは間違いないはずだ。
そして、そこにいる諦めない自分はきっとどんな願いも叶えようと努力するのだと思う。
それは少なからず幸せに近付く力になるだろう。
友寄は信じていた。
すべてのチャレンジと努力は無謀から始まるということを。
ザザザァと落ち葉が風に吹かれて舞い上がった。
「お父さん、早よ行こ」と言って優花はポケットに手を突っ込んで風に背中を向けた。
都会は相変わらずあちこちから騒がしい音を鳴らしていたが、和仁の耳はそれらを一纏めにして、ただざわざわと聞き流した。
コートの外から風が落ち葉を舞い込ませて、神経質になった七海の打つ邪魔をした。
「アウト」
鈴は小さな声を出して左手を上げるとチラリと七海の方を見た。
七海はすぐに背中を向けた。
そして鈴はしばらくその背中を見つめた。
テニス少女U12 -8-3
『ゼロポイント 再び(3)』
終