-4-3 天才少女(3)
天気予報で前日から翌日いっぱい雨を降らせると言われた雨雲は、前日の練習が終わるまで待ってから雨を落とし始めて、皆が寝静まる夜の間中しとしとと地面を濡らし続けていたが、試合が始まる日の朝には隣の街へと移っていった。
多くの人たちは予報を信じて中止になるだろうと予想していたが、それでも当日になるとエントリー開始の1時間ほど前にはビジネス街のど真ん中にあるこのテニスセンターへ集まっていて、その頃には道も乾き始めていた。
坂口優花と大西萌菜のマチカネテニススクールの二家族が到着した頃にはセンターコートのある建物の中では、長丁場に慣れた大会出場者とその家族たちがレジャーシートや折りたたみのイスをあちこちに広げていた。
既に本部周辺に優花たちが寛げるようなゆったりしたスペースは無く、夕子や千佳子とそれぞれの旦那があっちがマシかこっちがマシかとウロウロしている中、優花はさっさと奥に行くとセンターホールのようなところに空いたぴったり二家族くらいのスペースを見つけて自分のラケットバッグを置くとその場所を確保した。
「萌もラケバ置いて待ってて」
優花にぴったり付いて来ている萌菜に指示するとすぐに優花はのんびりしている親たちの元へ行って荷物を奪って戻ってくると、それを敷いてセッティングを始めた。
「萌菜もちゃっちゃとしんかいな」
セッティングが終わってから到着した大人チームの千佳子が萌菜にそう言うと、すかさず萌菜が「ママらは何もしてへんやん」と言い返してきた。
ワハハと大人が指摘された矛盾を笑いで誤魔化すとそんなことには慣れっこの優花は「ええから、残りの荷物早く置いて」と言いながら荷物を奪って自分で片付けていく。
「優花ちゃんはしっかりしてんな」と大人たちが褒めて話を逸らしていると、優花が急に「萌、アップ行こ」と言って萌菜を連れて外に行ってしまった。
「あれ?優花ちゃん怒った??」
日頃から優花と話す機会の少ない萌菜の父、健司が心配そうに言うと、夕子はううんと小さく首を振ってから視線を健司の後ろに向ける。
健司が振り返るとそこには女の子がいた。
小さくもなく大きくもない。
どこにでもいるような普通の女の子だ。
でもこの子はテニスコートに立つと普通じゃなくなる。
今日の予選を戦いに来ている中で一番強い女の子。
服部七海がそこにいた。
「かなり意識してる?」
健司は昔マンガで見たような猛烈なライバル意識を期待する。
「意識と言うか・・・」と夕子は旦那、和仁を見る。
「変なとこ見られたくないんちゃうかな?憧れやから」
和仁はそう言って夕子に視線を返した。
学生の頃からテニスが好きで、やがて社会人になり結婚してからも休日にはテニスを楽しんだ。
それは和仁と夕子の間に優花が生まれても変わらなかった。
二人は所属するテニスサークルにベビーカーで優花を連れて行った。
やがて優花がラケットを持てるようになると、待ってましたとばかりに教えたがりのおじさんが手取り足取り優花にテニスを伝授した。
教えたがりでなくても自分の出番が無い人が優花の面倒を見るようになって、優花は色々な大人たちに遊んでもらいながらテニスを習ってきた。
もちろん和仁と夕子も教えた。
小学生になると優花は大人たちとラリーが出来るようになった。
「今からこんだけ打てたら将来楽しみやなぁ」
「将来はオリンピックで金メダルやな」
という他愛も無い冗談は冗談とわかっていても和仁と夕子を喜ばせてその気にさせた。
優花は3年生くらいからサークルの大人たちと一緒にゲームをすることが出来た。
もちろん大人たちは子供に合わせてプレーをしたが、それでも優花がポイントを取ることも少なくなかった。
そして優花が4年生になると、和仁と夕子は優花にちゃんとしたレッスンを受けさせようと考えた。
その頃には二人はサークルを土曜日だけにして日曜日は優花の練習に充てるようになった。
トートバックいっぱいに練習用に買った大量のボールを入れて、和仁は一球一球しゃがみこんでボールを取り上げては球出しをした。
夕子は優花が打ったボールを拾い集めた。
2時間のほとんどを優花の練習に充てた。
優花は練習をするたびにうまくなっていった。
ある日、いつものように練習を終えて帰る準備をしていると、自分たちと同じような3人家族がやってきた。
両親に連れられてきたその女の子は優花よりずっと小さかった。
自分の背中より大きなリュックにラケットを突き刺して歩いていくその後ろ姿がリュックから手足が生えている亀さんのように見えた。
「お父さん、見て見て。すごいかわいい」
優花は自分と同じ子供のプレイヤーを見て喜んだ。
「お母さん、私もあんなリュック欲しい」という優花は自分のラケットを夕子のラケットケースに居候させてもらっていた。
その子供はラケットメーカーの名前が大きく書かれた自分用らしきリュックを背負っていた。
「レッスン通う前に買いに行こっか」と夕子が乗り気になった。
「よし、ほんじゃ今から買いに行こ」と和仁も賛同した。
そして和仁が急いで片付けをして車のエンジンをかけるが、優花はなかなか車に乗り込んでこない。
「優花、帰るで」という和仁に、夕子が後ろを見ながら「お父さん、見て」と言った。
「ん?なに?」
「さっきの子、めっちゃうまい」
そう言われてコートを見ると、さっきの子供がリュックの甲羅を脱いで大きなラケットを持って立っていた。
そして父親がちゃんとしたボールかごから出す球出しのボールをパシパシと打ち込んでいた。
和仁は目の前の光景を受け入れることが出来なかった。
あんな小さな子があんなにしっかり動けるハズがない。
あんな小さな子があんな大きなラケットを振れるハズがない。
あんな小さな子があんな球を打てるハズがない。
そして、あんな小さな子が優花よりはるかにうまいハズがない。
優花は車の外でずっとその女の子に見蕩れていた。
和仁は優花越しにその子を眺め、視界の中の二人を見比べてしまった。
その瞬間、これまで和仁が無意識に描いてきた楽しい想像が崩れ去った。
ついさっきまで希望にうるおい満ち溢れていた気持ちが急にカサカサの色褪せた勘違いに変わった。
「帰ろ」
和仁は優花を呼んだ。
「もうちょっと見たい」
「そんなん見たってしゃあないやろ!」
和仁は思わず声を荒げた。
優花は何も悪くないのだ。ただ勘違いしていた自分に腹が立っただけだ。
無駄な努力をする前に気付いただけまだマシだと自分に言い聞かせた。
「優花、今日はもう帰ろ」
夕子が旦那と娘を気遣って声をかけるが、その声もまた元気はなかった。
「嫌や。もっと見る」
「もうええやん。優花」
「なんで?もっと見んねん。そんで優花、あの子みたいにうまくなんねん」
「そんなん!」
無理に決まってるやろ!という言葉を和仁はかろうじて飲み込んだ。
「なあ、テニススクール行ったらあの子にも勝てるようになるやんなぁ?」
優花がどれだけ努力をしても、その分あっちも練習するのだ。
時間はすべての人に公平に流れている。
それを追いつくには・・・『どれだけ』以上の努力をするしかない。
「優花、めっちゃがんばんで」
「めっちゃじゃ、足らん」
「ほんじゃ、めっちゃくちゃがんばる」
「めっちゃくちゃのめっちゃくちゃにがんばらんとあかんねんぞ」
「めっちゃくちゃのめっちゃくちゃのめっちゃめちゃにがんばる」
「ほんじゃあ、がんばってみぃや!」
そう言ってその日のうちに、検討していたテニススクールへの入会を決めた。
無駄な努力に終わろうが意味のある努力になろうがそんなことを気にするのはやめた。
そして優花のレッスンがない日は家族で練習をするようになった。
そしてたまに強いグループの大人たちに混じってゲームをしているその子やその友達を見た。
「お父さん、あの子ナナミって言うねんて」
名前を盗み聞きした優花は嬉しそうだった。
そしてやがてマチカネテニススクールの仲間が小学2年生に負けたと言って帰ってきて、ナナミが服部七海であることを知った。
「優花ちゃん、七海ちゃんに声かけたらええのに」
「えー!ムリムリ。絶対ムリ」
「なんでー?!まあ、いっか。今日試合すんねんもんな」
「1回戦勝てたらな」
「1回戦は0ポイントの子やろ?優花ちゃん絶対大丈夫やって。私の相手なんか1回戦、8ブロックの1シードやで。絶対負けるわ」
「萌、絶対なんかないねんで。どんな相手でも勝つチャンスはあんねん。だから絶対がんばりや」
「優花ちゃんも『絶対』って言ってるやん」
「前向きな『絶対』はええねん」
そうしてしばらくするとU11女子の集合がかかった。
もはや名物となった長い説明が行われている頃、本部ではU11女子のオーダーが準備されていた。
テニス少女U12 -4-3
『天才少女(3)』
終
テニス少女U12 「天才少女」終わりました。 次回から「ゼロポイント」はじまります。 お楽しみに☆