016 悪意の予兆
碑透がいたのは、湖からそれほど離れていない木の下だった。たくさんの水を飲み込んだ為か、頭は今も割れるように痛かった。
頭を押さえながら辺りを見回すが、人の気配は感じられなかった。それでも、何らかの方法で自分が助かったのは事実だった。
「新月の夜に…。」
朦朧とした記憶に残った言葉だった。
居る筈がないとは分かっていても、もしかすると…という気持ちは拭えなかった。目を閉じて思い出す。
懐かしい匂い、懐かしい声…それに。唇に触れた柔らかな感触。昌だと思えたから嫌だと感じなかった。曖昧な記憶だとしても、夢や妄想だとは思いたくはなかった。それに、確かに自分は湖水からこの場所に移動している。
「姫さん!ひめさーん!」
遠くから呼ぶ、態狸の間の抜けた声に一気に現実に引き戻されるような気持ちになった。それでも、態狸の声に応じる。声を聞いた態狸はすぐに碑透の元に駆けつけた。
「無事か!鳴月、姫さんがいつまでたっても来ねぇって心配して屋敷まで来たんだ。胸騒ぎがするとか言っていたが、何ともねぇか…って、全身びしょ濡れじゃねぇか!なにがあったんだ!?」
すれ違ってはまずいと、態狸のみで練習の地へ向かい、鳴月は屋敷で待っているようだ。
態狸は口を挟む暇もなく喋り続けた後、碑透の姿を見てぎょっとした顔をした。碑透はどう説明したら良いのかと、考え込んでしまう。
何となくだが、昌のことは言わないほうが良いように思ったのだ。
それに、湖の中で碑透の足を絡め取ろうとした存在。 黒い靄のように霞んではっきりとは認識できなかったが何か良くないもののように思えた。
態狸たちの前に助けがなければ、碑透は今頃息をしていなかったかもしれない。恐ろしい想像を止める事は出来なかった。
これは、態狸に話すよりも鳴月に相談するのが良いだろう。これからも練習を続けていくとなれば湖水に入ることは避けて通れることではない。
「鳴月も心配して止めるのが大変だったんだぞ。まぁ、とにかくだ。姫さん、歩けないようなら担いで行くがどうする?」
担ぐ。その言葉を聞いていつだったか態狸に俵のように担がれたことを思い出した。できればもう少し人間的な運び方をしてもらいたかった。
頭痛はまだ続いていたが、歩けないほどではなかった。
「大丈夫、歩けるわ。鳴月のところに行く。」
強がりではなかった。湖の黒い靄についてもそうだが、鳴月とはいくら話しても学ぶことが尽きなかった。
この世界のこと、神力の使い方、蒼清の姫神子のこと。三種の神器を探しに行く前に、少しでも多くのことを聞いておきたかった。
湖は少し森の深い場所にあった。危険のない場所だと伝えられていたため、いつも一人で来ていた。
そもそも、この国は周辺の森・湖含めて結界で覆われている。悪いものが入ってくることはないと言われていた。
暗い時間になると護身のためと、態狸が付き添うことは多かったが日中は自由に外を歩いていた。
考えながら歩いているうちに、森を抜け、吾月の屋敷が見えてきた。碑透がいた森は吾月の住む屋敷のすぐ裏手にある場所だった。
屋敷に入り客間に向かう、鳴月はそこで待っていると言われた。ノックをして部屋に入ると、後ろを向いて座っていた鳴月が、扉の開く音に振り返った。
「姫神子さま!」
縋るように駆け寄った鳴月に、碑透は笑って見せた。落ち着かせるように鳴月の手を握る。
鳴月は、普段穏やかで感情を笑顔に隠してしまうような少女だ。そんな彼女が取り乱した姿はかえって碑透を落ち着かせた。
「遅くなってごめんなさい鳴月。一旦無事だと伝えたかったから顔を出したのだけれど…この通りびしょ濡れだからちょっと着替えてくるわ。」




