34-10
これは後にヴラドから聞いた話しである。
明朝一番にヴラドは下位貴族のタウンハウスが並ぶエリアに、文字通りマーサを捨てた。
前日に会合に参加していたマーサではあるが、自らの身に何が起こっているか、全く理解していないようだった。
マーサは始めこそ挙動不審であったが、いつの間にかぼんやりとそこに寝そべり始めたという。
かなりの時間が経った頃、マーサの前に一人の男が立つ。
男は白い開襟シャツに、黒いベストを纏った三十前後の特に特徴をあげるのが難しい顔立ちだった。
一度人混みに紛れてしまえば、どの男だったか分からなくなるような風体だった。
マーサに男は怒りを露わに話しかけた。
「おい、婆あ!昨日の手紙はどうした?」
マーサはぼんやりしながら、
「手紙?はて、なんのこってすかいね?それより旦那さん、芋を恵んでくれんですか?腹が減って困ってます」
そう言ったそうだ。
激昂した男はマーサに詰め寄った。
「手紙だ、手紙!なんだこの婆あ、惚けてやがったのか。失敗したなあ」
マーサは矢張りぼんやりしながら、ふと思い出したように懐から手紙を取り出したそうだ。
「これは食べられんですだ」
男は溜め息を吐いてマーサから手紙を引っ手繰ると、こういった。
「お前なんぞ、口封じする価値もない!」
そう言って足早にその場から去った。
ヴラドは極々自然に気配を消して男を付けた。
男は、まず高級宿屋街に向かう。
とある宿屋に併設された酒場に入ると、カウンターに腰掛けた。
ヴラドは大分時間を置いてから入り、男から少し離れたテーブル席に座った。
更に暫くすると、一人の女が入ってきた。
見るからに金を掛けていそうな身形の女だった。
女はアルトリア国の者では無いようだった。
その肌は非常に白く、北国リシアの特徴を顕著に表した長身の女だった。
男と席一つ分空けて座ると、女が男に話しかけた。
「昨日は待ちぼうけだったのよ?」
お互いに前を向いたまま小さな声での会話だ。
一見して話しているようには見えない。
「すいません、手違いがありました」
「まあ、いいわ。リシアに帰ったら報告はするけどね」
女がそう言うと、男は分かりやすく動揺を肩の揺れで表した。
「どうか、お怒りにならないで」
男がそう言うと、女は鼻で笑った。
「では、今後も誠実である事ね」
女は下品な程に肩の開いたドレスを着ていた。
背中の部分も剥き出しだった。
脇の下辺りに刺青が掘ってある。
半分はドレスと腕に隠れて見えなかったが、その紋様は、漆黒の十字の上に髑髏。
そう見えた。
「では私はこれで」
男は怯えたように震える手で銅貨を数枚カウンターに置くと、マーサから奪った手紙をその場に残して立ち去った。
ヴラドはここで迷った。
どちらを観察するべきか、と。
一瞬の躊躇がヴラドの運命を決めた。
女は振り返ると声を上げた。
「……あら?人がいるなんて気付かなかったわ。いい男ね。それに、同郷じゃないかしら?」
妖艶な笑みを浮かべてヴラドの座るテーブルに近づいてきた。
「リシア人か?」
ヴラドが仕方なく話しを合わせる。
「そうよ。少し一緒に呑みましょうよ。奢るわ」
女がグラス片手にヴラドの隣に座る。
給仕に追加の注文をする。
「こちらへは仕事で?」
女に聞かれた。
「ああ。リシアで知り合った知人に雇われた」
ヴラドはなるべく当たり障りの無い答えを告げる。
「そう、出稼ぎ?それとも永住なさるの?」
「骨を埋めるつもりだ。そちらは?」
「ちょっとしたお遊びに来てるのよ」
「そうか。先程の男は恋人か?」
「見ていたのね。私があんな男相手にすると思う?釣り合わないでしょう?」
女が挑むようにヴラドを見た。
丁度酒が届いた。
真っ赤な血のような酒だ。
「俺はアンタの相手は務まらないか?」
ヴラドが真っ赤な酒を掲げ、挑発した。
「いいわ、隣の宿を定宿にしているの。行きましょうか?」
ヴラドは酒を一口含むと口端から血の雫が落ちた。
女がヴラドの口端を舐め上げた。
★
まさに骨抜きという事だろう。
女は、一夜を共にしたヴラドに狂った。
女は、北国リシアのギャングの一員だ。
血の誓いを、その身に彫った十字架と髑髏に誓う。
彼女が属する組織は、スカルゴッド。
リシアを裏から牛耳る巨大な組織だ。
今やその影響力は、リシア国内に留まらない。
上位貴族と結びつき、権勢を振るう。
スカルゴッドの意思は王の意思をも凌ぐと言われる程だ。
だが、世間に知られているのはスカルゴッドのほんの少しの上部だけだ。
スカルゴッドに属する者でさえ、その頂点に君臨するボスの本意は知らないのだ。
唯、組織の中で縦に下される命令に従うのだ。
女はマリアといった。
マリアの今回の仕事は、アルトリア王国の内部を腐敗させる事。
通称ワニと呼ばれる合成麻薬を蔓延させる事。
そして、それは一部では成功しつつあるそうだ。
下位貴族は金の成るワニに飛び付き、平民を中心に売り捌いている。
巨額の利益を生み出しつつあるという。
高位貴族でもいずれその旨味に飛びつくだろうとマリアは狂気を滲ませた。




