18
クロエが侯爵邸に着いて翌日の朝である。
今日は朝からクロエをサイラスが侯爵邸の庭のあちこちを案内してくれていた。
「本当は春の方が花々が咲き乱れて美しいんですよ」
サイラスがクロエの隣で言う。
「ええ、そうなんでしょうね。でも、これはこれで趣きがあります」
クロエは花の少ない庭を見ながら答えた。
「そう言って頂けると幸いです」
サイラスがクロエに少し身を寄せると、クロエは一歩後ずさった。
その拍子だ。
クロエが僅かに躓いて体勢を崩すと、サイラスが腰を抱き、支えてくれた。
二人の視線が絡まる。
サイラスはクロエを抱く腕に力を込めると、あっという間に二人の距離は縮まる。
サイラスの熱い熱を含んだ瞳が僅かに潤む。
クロエは耐え切れずに目を逸らした。
「クロエ様……、その唇を許してはくれませんか?」
クロエの耳元にサイラスが甘く囁く。
「それはいけません。離してください」
クロエが身をよじるとサイラスは身を離し、クロエのグレージュの髪を一房掬い、口付ける。
「お許しになってくださるまで待ちます。例え叔父上に背く事になっても」
クロエはふらつく足に力を込めてサイラスから逃れる。
一歩距離を置いてサイラスを振り返った。
「その気持ちは勘違いですよ。人の物程欲しくなるのでしょう。アラン様の物でない私に何の価値もありません」
クロエが苦笑すると、サイラスは切なそうに顔を歪めた。
「では私のこの心臓の鼓動はなんなのでしょう?」
サイラスが逃げたクロエの右手を取り、己の胸な当てる。
「不正脈では?」
クロエが笑うと、サイラスは苦笑してから、右手の甲にちゅっと口付けた。
「これはお許しください」
甘い余韻を残してサイラスはクロエの右手を離した。
———アラン様より余程上手に口説くのね。案外こういった事は年じゃなくて才能なんだわ。
クロエは冷静に考えていた。
「クロエ様、珍しいな。まだ年明け前なのに。ほら、初雪ですよ」
空からは大量の白い粒が降ってきた。
「これは……結構積もるかもしれませんね。勢いが凄い」
「ええ。屋敷に入りましょう」
★
———その日、クレマン侯爵領は真っ白な世界に覆われていた。
例年にみない程の大雪に襲われ、静寂が支配していた。
クロエは与えられた客室で外を見ながら静かに過ごしていた。
その静寂を裂く様に部屋にノックが響く。
「クロエ様、ちょっといいですか?」
サイラスが返事も待たずに入室する。
慌てた様子にクロエは何事かと振り返る。
「昼頃の事だそうですが、馬車が侯爵領の途中の山道で崖から落ちているのを領民が発見したそうです。家紋はまだ確認していませんが、もしかしたら」
クロエは目の前が真っ暗になった様に感じた。
「そんなに高い崖では」
頭の中に最悪の事態が巡る。
「すぐ近くの山道なので、今確認に行こうと」
サイラスの言葉を断片でしか理解出来ない。
「豪華な仕立ての馬車なので」
アランとの様々な出来事が頭に過ぎる。
「叔父上が」
クロエは立ち上がる。
「直ぐに行きます」
クロエは確固たる意志を込めた眼差しを向けた。
サイラスは慌てて止める。
「まだ叔父上と決まったわけではありませんから。父が確認を急がせています。ほんの少し行った所なので、すぐに分かります。報せを待ちましょう」
サイラスは言葉を重ね宥めるが、クロエは振り切り、出かける為の支度をする。
「クロエ様!」
「私は彼の婚約者です!!」
サイラスは呆気に取られた。
もう誰も止める者は居なかった。
クロエは行きの馬車から見た山道を思い出し、崖のある辺りを目指して駆け出した。
雪が降るような支度をしてきては居ない。
足には履いてきた普通の革靴。
羽織りだけは辛うじて厚手の仕立てのものだ。
クロエは自分の命を投げ出してもアランに会いたいと思った。
侯爵邸のエントランスを貴族の娘とは思えない駆け足で抜ける。
外に身を委ねれば、切り裂く様な寒さが襲った。
クロエは厩舎から馬を借り、ひらりと飛び乗った。
サイラスが後を追う様にもう一頭馬を出し、乗る。
「サイラス様」
「一人では行かせられません。けど、貴女が馬に乗れて良かった」
クロエはニヤリと笑う。
「私は金貨で買われた貧乏貴族の娘ですよ?なんでも自分で出来ないとやっていけませんから」
サイラスは苦笑を浮かべ、馬を駆った。
二人は並走する様に雪で埋まった悪路を進む。
もう、クロエに迷いは無かった。
唯、アランの事を考えた。
何を難しく考えていたのだろう。
クロエは己に問う。
———結局彼を試して信じていなかったのは私じゃない。
少しの後悔と逸る気持ちを胸に、クロエは馬を飛ばすのだった。




