10
———おかしい。
クロエは最近ずっとおかしい。
原因は分かっているのだが。
アランとの口付け以来、クロエを不振な動悸が遅い続けている。
一週間程前、婚約披露パーティーの翌日に、二人は口付けをした。
その時からアランを屋敷で見かける度に、クロエの胸を甘く締め付ける様な動悸が襲うのだ。
またそれが不意に訪れるから堪らない。
屋敷のエントランスで出かけるアランを見送る時に。
またある時は、屋敷の廊下で見かけた時に。
晩餐室で食事を囲んでいる時に。
一番最悪なのはシガールームで二人きりで過ごしている時だ。
アランはクロエの心情など御構い無しに、あの口付け以来度々口付けをせがんでくる。
堪らずクロエが距離を取ると、許さないとばかりに追い詰めてくるのだ。
はっきり言って気が休まらないのだ。
以前の様な和やかな友人の様な関係からは大幅に逸脱している。
クロエの胸の中はアランで埋め尽くされ、最早窒息しそうだった。
「クロエ!ここに居たのか」
ぼんやりと庭に置かれた椅子に腰掛けて束の間の休息を取っているクロエの元に元凶が現れた。
「ア、アラン様……」
息を弾ませ近寄ってくるアランにクロエは僅かばかりに身を引き、警戒する。
「クロエ、探したぞ」
そう言ってクロエの座る椅子の肘掛けに両手をつき、覆い被さるようにクロエの唇を奪う。
「ん……」
思わず漏れ出るクロエの甘い喘ぎも吸い尽くす様な口付けをするアラン。
堪能した後に唇を離すと、アランは真っ赤な舌先で己の唇をペロリと舐めた。
———こんなに色気ダダ漏れの人と今までどうやって一緒に居たのだっけ?
クロエは困惑し、視線を逸らした。
アランはそのままクロエの前に跪くと、クロエの顔を下から覗き込む。
「君は最近おかしいな。私を罵りもしない。詰らない。金をせびらない。私は君が心配だ、クロエ」
「放っておいて下さい。気分じゃないんです」
「気分じゃない?私は君に飽きられたのか?それとも金に飽きたのか?君は元から高潔な人物ではあるが、金が欲しいという欲求まで無くしたら、最早人間では無くなってしまうぞ?」
「———アラン様……。高潔な人物はそもそも金をせびりませんし、婚約者を罵りませんし、詰りませんよ。やっぱり貴方、変な人だわ」
ついつい憎まれ口を叩くクロエにアランはにっこり笑う。
「まあ、いいや。来てくれ。宝石商を呼んだのだ。婚約の記念に何か作ろうと思ってな。それから婚姻式の時に使う装飾品を相談してデザインを考えよう」
アランは立ち上がってクロエの手を引いて立ち上がらせる。
クロエは渋々アランの後を付いて行くしかなかった。
★
「こちらなどいかがでしょうか?」
応接室に入ると、宝石商の男が一人立ち上がって挨拶をしてきた。
恰幅がある卑しい目付きの男だ。
クロエが割と嫌いなタイプの人間である。
しかし、宝石商の見せてくる宝石はどれも素晴らしく、複雑なカットが施された美しいデザインの物ばかりだった。
「アラン様が選んでください。私は金貨以外は金塊しか信用しない質ですから、例えイミテーションであったとしても分かりませんから」
クロエの言いように宝石商の男はピクリと柳眉を動かしはしたが、笑顔は崩さなかった。
「ふん、そうか?ではオーダーメイドにするか。常に身につけておくとなるとネックレスか指輪辺りか?そうだな、この前のアッシュグリーンの色の石を使った指輪にするか。余りでかいと邪魔だからな。小さめの石をシルバーに小さく嵌め込んで作れ。但し、この前よりも質の高い石を使って欲しい。婚姻式に使う装飾品は、大体ドレスのデザイナーと決めてある。予算に上限は設けないから、是非我が伯爵家を傾かせるくらい気合いを入れて作ってくれ」
「ほほっ、かしこまりました」
アランと宝石商は高笑いをしながら上機嫌に商談は纏まった。
———まるで悪役の密会現場みたいだわ。
クロエは小さく溜息を吐いた。
★
宝石商が帰ると、アランとクロエはサンルームでアンリの淹れた茶を飲んでいた。
アランはクロエに何事か話しかけるが、クロエの反応は鈍い。
「アラン、ごめんなさい。気分が優れないのよ。部屋で休んでもいいかしら?」
「あ、ああ。気が付かなくて悪かった。ゆっくりするがいい」
クロエは立ち上がって部屋に辞した。
クロエは気づかない。
アランの不安そうな顔に。
「ああ、クロエ。君はどこかに消えて無くなってしまいそうだ。」
アラン以外人気の無いサンルームに呟きが落ちた。




