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彼女の名前は、クロエ・ランベール。
極貧子爵家の長女にあたる彼女は非常に困惑していた。
「ふん?君はいくらで買えるのだ?」
その困惑の原因は、目の前の男性に端を発する。
ここはランベール子爵家で唯一きちんと体裁を整えられた来賓室。
上等な客が来た時に開かれる以外は用途は無いが、綺麗に磨かれた調度品は年代物ではあるが、子爵家の全財産といっても差し支えないくらいの代物ばかりである。
今年、十七になるクロエが覚えているだけで片手で足りる程しか開かれた事のない来賓室に、我が物顔で居座る男性。
高慢そうな顔。しかし、一級品だと誇示するような美しい色気漂う端正な顔立ち。
口元には薄っすらと浮かべた笑み。
すらりと長い腕で、これまた嫌味な程長い組まれた足の膝を抱えるように手を組んでいる。
少し屈んだような姿勢の為、流れ落ちた一房の黒髪。
磨き抜かれた男。
要は金のかかりそうな美男子だ。
クロエの一番嫌いなタイプの男は、アラン・ルソーといった。
成金の伯爵だ。
貿易で傾きかけた伯爵家に財を成した商人顔負けの遣り手の伯爵。
美貌の伯爵。
夜会を飛び回るように数多の女性を泣かせた伯爵。
今、社交界きっての噂の人物。
それが何故、ランベール子爵家のような貧乏貴族のボロい屋敷にいるのか———。
クロエは理解が追いつかなかった。
「いくら……?とはどういう事でしょうか?」
父、ロベルトがアランの顔色を伺いながら尋ねる。
「文字通りですよ、子爵。私は彼女と婚姻を結びたい。いくら金を積めばいいのかと聞いているのです」
「なんと……」
人のいいロベルトも流石に絶句し、二の句が継げない。
確かにランベール家の財政状況は火の車ではある。
しかし、堂々と人身売買のような物言いをするアランをクロエは虫ケラでも見るような視線を隠せなかった。
アランはクロエの視線を受けて尚、笑みを深めた。
「いいな、矢張り君は……。———子爵、持参金などはいいのです。身一つで彼女を安心して送り出してください。こちらが出来得る援助は致します。まずは婚約からで結構」
「それは助かる…———、いや、いやいや、待ってください。仰る通り、我が家には有難い申し入れではあります。しかし、見ての通りね窮状ですから、娘には社交の場にすら行かせたこともありません。その、どこで娘を見初めて戴いたのでしょうか?」
ロベルトは本音と娘を思う親心がない交ぜになりつつもアランに質問をした。
「以前お会いした事があります。友人の屋敷でね。その際に麗しいクロエ嬢に一目惚れ致しました」
アランは嫌味な長い足を組み替えながら優雅に茶をすする。
不遜な態度。
———虫酸が走るほど嫌いなタイプだわ。
クロエが心の中で毒付く。険しい表情のままアランを一瞥すると、アランは歓喜の表情を一瞬浮かべた。
「クロエ、伯爵にお会いしたことがあるのかい?」
「いいえ。覚えがありません。こんな嫌……見目の麗しい方にお会いして忘れるとは思えませんが」
ついつい本音が出そうになるクロエは慌てて当たり障りのない返答をロベルトに返した。
「覚えていない筈です。友人の屋敷の庭園で、友人の妹君とクロエ嬢はお茶をしておりました。一方的に私が見ただけです。覚えが無くて当然です」
何でもないという風にアランは答える。
しかし、話した事もない娘に求婚とは、金持ちの考える事は分からないとクロエは思った。
貴族間では政略結婚など当たり前ではあるが、庶民に片足を突っ込んだような生活のクロエには理解し難いと思った。
———まあ、買ってくれるというなら買って貰いましょうか。
クロエはアランを見据え、
「金貨百枚です」
と、言った。
「君が百枚で買えるのかい?」
娘とアランの遣り取りに目を白黒させるロベルトを置き去りに、婚約は成立してしまった。
「良い買い物をした」
そう言い残して成金伯爵、アラン・ルソーは帰って行った。
「クロエ、本当に良かったのかい?」
ロベルトは父親の顔で心配そうにクロエに尋ねる。
「ま、いいんじゃないですか?彼も満足そうでしたよ?お父様は領民と、私の弟妹とお母様の心配でもしてください。放り出されたら戻ってくるかもしれませんが、金貨百枚あるんですから、うちの生活水準じゃ暫くは安泰ですね」
クロエはにっこり笑った。
「その思い切りの良さと頭脳。お前が男ならどんなに良かったか」
ロベルトは額を抑えながら溜め息を吐いた。
その父の台詞は、どんな刃よりもクロエを傷付けるという事を、ロベルトは知らない。
クロエは美しく、聡明で、貪欲。
嫡男として生まれたのなら、傾いたランベール子爵家を必ず立て直していただろう。
実際に、クロエの提案により、領地経営は持ち直しつつあった。
しかし、表に出れない女性のする事には限度がある。
まだまだ女性の地位は低い時世である。
「しかし、伯爵夫人としての教育か。こんなに早くお前を手放す事になるなんてな」
ロベルトは悲しみの灯った眼差しでクロエを見つめてから、背を向けた。