第一章・プチ合宿・その七
「ソフトルアーの別名はワーム。つーか、こっちの方が主流だな。意味は英語で【足がなく細長い虫】」
歩はバスロッドを振り、取りつけたフナムシのルアーを投擲しながら説明を始めました。
「だからミミズやゴカイ類みてぇな環形動物だけじゃねぇ。ヘビなんかも含まれる」
「それは知ってる。虫って漢字も確か、鎌首をもたげるマムシからきてるんだよね」
「そうそう。でもミミズやヘビだけでもねぇんだよな」
ルアーが着底したのを確認してから竿をギュンギュンとリズムよく振る歩。
「北欧なんかだと竜も含まれるんだ……おっと、ここらへんは根(海底の障害物)が多いからルアーは跳ねるように動かせ。ライン(道糸)を弛ませねぇようにな」
「わかった……って、ドラゴン?」
「ああ。WORMはデンマーク語の【這う】が語源で、大きくなるとLINDORMになる」
「それが竜なの?」
「足と翼があるのはDRAGE、ねぇのがレンオアム」
「じゃあレンオアムは大蛇なんだ」
八尋も竿を振ってルアーを飛ばします。
「混同して、みんなドラゴンになっちゃったんじゃない? 伝説にはよくある事だよっ」
百華は別の方向に仕掛けを投げました。
「ドラゴンの方が見栄えがいいからなぁ。八尋、もうちょっとハイテンポで行け」
「うん。グイグイ引く感じ?」
八尋はロッド捌きのリズムを上げました。
「ところで歩さんっ、あたしたち、お喋りしながら釣りしていいのっ? もっと真剣にやった方がいいんじゃないのっ?」
どうやら心配になってきたようです。
「肩の力を抜くのに丁度いいんだ。ガチガチに緊張したって食いつく魚はいねぇ。他のやり方はあとで教えるから、いまはボトムバンピングだけ覚えとけ」
「そっか、真面目すぎるのもダメなんだっ」
「楽しまねぇとな」
ルアーが近づいたので、竿を上げて回収する歩。
「ズル引きから始めてもいいんだが、ここらは根が多いからポンポン跳ねさせるんだ。リフト&フォールで中層を狙ってもいいけど、それは後回しかなぁ」
「これで本当に釣れるのかな……?」
心配になってきた八尋でした。
「エサの魚やフナムシの気持ちになれなんて難しい事はいわねぇ。まずはルアーを感じろ」
「わかったゲームのチュートリアルだっ!」
百華は理解できたようです。
「そうそう。技とか覚える前に、操作を体に染み込ませるんだ。感覚がわからねぇと、動かすどころじゃねぇからな」
歩が再び竿を振ると同時に、八尋がルアーを回収します。
「そうそう、いい忘れてた。ルアーフィッシングは足でやるもんだ。少しずつでいいから移動して釣り座を変えろ」
「そっか……ぼく、あっちに行ってみるよ」
「他の釣り方は教わらないのっ?」
「あとで。あっち釣れそうな気がするから」
八尋が指差したのは左側の《しょうは》ブロック帯。
「いいけど足場に気をつけろよ」
「わかった……あっ!」
振り返った拍子に、八尋は竿とリールを持つ左手の、糸に絡めた指を離してしまいました。
キャストに備えてベイルを立てていたので、リールからシュルシュルと糸が放出されます。
そして零れたルアーが岩の上を転がり、小さな潮溜まり(タイドプール)の中にポチャンと落ちました。
「やっちゃった。回収しないと…………わわっ⁉」
リールを巻くと、ガツンと強烈な手応えが。
「やりやがったぁ! やりやがったなぁ八尋ぉ!」
ルアーを落としたのは、周辺でもちょっと深めの潮溜まり。
「なにこれなにこれ⁉ 凄い引きだよ!」
直径数メートルの潮溜まりに、魚が潜んでいたのです。
「ガガガッってくる!」
「なんだと思う?」
突然、歩に問題を出されました。
「……前に釣ったキュウセンに似てるけど違うね。それに、ちょっと大きいかな?」
「形はわかるか?」
「サイズは全然違うけど、引きの質はハゼに近い……? たぶん太くて短い魚だと思う」
「候補を上げてみろ」
八尋は読んだ図鑑の記憶から、思い当たる魚を検索します。
「磯だからカサゴかムラソイあたりかな? メバルは確かシーズンオフだったよね」
ハンドルを回すと、魚が水面に上がってきました。
「当たり。ムラソイだぁ」
ゴボウ抜きにすると、目の前に茶色い迷彩模様の魚が現れました。
「釣れた! ルアーで初めて魚が釣れたよ!」
太く短くトゲトゲした体を持つ、メバルの仲間。
昔はフサカサゴ科に分類され、見た目も習性もカサゴそっくりですがメバルの仲間です。
引きでカサゴとムラソイを感じ分けるのは、ほぼ不可能なので、歩もそれで正解としました。
「大きい!」
魚長は約二十三センチ。
悪樓とショウサイフグを除いて、食べられる魚に限定すれば、八尋の最長記録でした。
「写真撮っとこうぜ。こいつは死ぬと真っ黒に変色しちまうんだ」
歩がスマホを出してカメラモードを起動します。
「百華、スケール頼む」
歩が置いたバッグの傍に、帯状のメジャーがありました。
「あいよっ!」
たちまち撮影会の始まりです。
「恥ずかしいよう……」
まずは八尋と一緒に記念撮影。
それからクーラーボックスの上に置いて、スケールと一緒に記録撮影。
「あたしにもちょーだいっ!」
「ほらよ」
赤外線通信で画像データを送ると、百華は早速写真に加工を施します。
たちまち八尋とムラソイの周囲がお花畑になりました。
キラキラもついています。
さらに『八尋たんラブリーやったね♡』と文字まで書き込んでしまいました。
「恥ずかしいよう……」
完成した画像を見せられて、八尋は鼻の先まで真っ赤になってしまいます。
「しかしツイてるな。落とし込みなんて俺もすっかり忘れてたぜ。盲点だ」
「そういえばフナムシって、落ちたら確実に食べられるんだったねっ!」
「そうそう。クロダイ釣りなんかじゃスタンダードな釣法だ」
「この潮溜まり、他にもムライソいるかな……?」
それは二匹目の泥鰌というものです。
「わからねぇけど、ここは少し休ませた方がいいかなぁ」
他の魚が怯えて出てこない可能性は大です。
「他にも潮溜まりはあるから、ちょいと回ってみるか」
「落とすだけでいいなら簡単だねっ!」
「ピクピク動かして誘いを入れるのもアリだ」
「この際だから手分けして釣る?」
「小さくて深い潮溜まりもあるから駄目。落ちたら犬〇家だぞ?」
穴の中に逆さで顔だけ水の中、なんて可能性があります。
「うわそれはやだなあ」
「じゃあ固まって移動だねっ」
「それはそうと、青魚組はどうなってるかなぁ?」
様子を見に行くと、小夜理たち三人は苦戦中でした。
「釣れねぇみてぇだな」
「曇天とはいえ、いまは水が澄んでいますから、回遊魚が集まらないんですよ」
海岸域は周辺の環境のせいで、日や時間によって水質が常に変化します。
河口域の濁った水が流入するとコーヒー牛乳のような色に。
近くにモラルの低い大型船が停泊していたりすると、大量のゴミや廃油(ヘドロ)を流されて、まったく釣りにならない事もあります。
そして透明度が高い時は、天敵に狙われやすいので小魚がきません。
当然ながら小魚を狙うサバやヒラマサもいない訳で……。
「俺たちゃ潮溜まりを回るから、そっちはターゲットを根魚に換えてみちゃどうだぁ?」
「日陰を狙うならアリかもしれませんね。でも、とりあえずワームは避けて、スロー系のメタルジグで底物を狙ってみましょう」
底物とはクロダイやイシダイやメジナなど、海の深部に棲息するものの、根魚のように定着していない魚を指します。
海底に潜んでいるのが根魚で、泳いでいるのが底物。
あとメタルジグは、長い流線形の錘をホログラムでピカピカ光らせたルアーです。
スロー系は全長がちょっと短く平たくて、ヒラヒラキラキラゆっくり落ちて、魚に存在をアピールできるのが特徴。
「ひょっとしたら少しは青物がいるかもしれませんし、エサ取りがいないのは好都合です」
狙いはあくまで大物のみ。
「釣り宿いさば丸の名に懸けて、藍子さんには絶対アジより大きな魚を釣らせてみせます!」
後ろで風子と藍子がガタガタ震えていました。
小夜理のレクチャーが厳しかった訳でも、怖かったのでもありません。
ただただ、その執念が恐ろしいのです。
遊漁船(釣り船)ならターゲットの群れが泳いでいる海域に行けばいい。
ソナーで探って正確な深度をお客さんに教えればいい。
しかし陸っぱり、しかも今回のようにフィールドの限られた釣行となると、そのハードルは各段に高くなります。
いまの小夜理は、悪魔に魂を売ってでも、初心者二人に大物を釣らせるつもりでした。
いえむしろ小夜理自身が悪魔と化しています。
釣りの魔人、悪魔釣り師。
小夜理は早速ルアーを交換して底物に挑戦しました。
「かかった……でも小さい!」
オハグロベラの幼魚が釣れました。
しかもメタルジグの先端と後端についた鈎の両方に一尾ずつ。
キュウセンの親戚で不人気な魚ですが、子供なのでちょっと可愛く見えました。
しかし小夜理のお好みには合わなかったようで……。
「外道! きさまらこそ悪魔だ!」
即、放流しました。
どうやら相当機嫌を悪くしている様子。
「あゆちゃん~、さよちゃんをなんとかして~!」
ついに風子が泣きを入れました。
「こうなると手がつけられねぇんだよなぁ。こんな時こそ召喚かかってくれると助かるんだけど……」
その瞬間、周囲の風景がぐらつきました。
「おっ、きたきたぁ! 待ってたぜぇ!」
なんという御都合主義もとい幸運なのでしょう!
「みんな座るか伏せろ! マキエはこっちこい!」
マキエは歩が十年以上も前に、小夜理につけたアダ名です。
船酔いで海にゲーゲー吐いて、周囲の魚を引き寄せるから撒き餌。
幼稚園児(当時)にしては、なかなかのボキャブラリーでした。
「……仕方ありませんね。未練は悪樓で晴らすとしましょう」
道糸をリールに回収して、竿を足元に置く小夜理。
「あくる……召喚?」
訳もわからず地磯に伏せる藍子と百華。
「まぁ、すぐわかるって。きっと今回も面白くなるぜ」
「じゃあ~、しゅぱ~つ♡」
視界が暗転しました。