第一章・プチ合宿・その三
「あっ……あれ姫路先生じゃない?」
部室小屋でお手製オイルサーディンを乗せた素麺を食べてから、今日の釣り場である近郊の地磯に向かっていると、防波堤に釣り研究部顧問教師の姫路潟椰先生がいるのを発見しました。
先生は、鯉かオジサン(ウミヒゴイ属の海棲魚)みたいな半魚人面と泥鰌髭の持ち主で、いつもコイ用練り餌の甘いハチミツ臭を漂わせている、生粋のコイ釣り師です。
「あぁ、夏休みだからなぁ」
歩は時々よくわからない事をいいます。
「ひょっとして釣りしてる~?」
視力のいい風子は、先生の腰に巻かれた膨張式救命胴衣を見逃しません。
下半身には川釣り用の胴長靴を穿いて、まるで魚屋さんのような風体です。
「姫路先生はコイ釣り師だからなぁ」
先生を見る歩の目はウットリしています。
頬も赤く染まっていました。
「コイって海でも釣れるの~?」
釣れません。
「夏休み中でも教師は忙しいからなぁ。それでもどうにか時間を作って、コイ釣り用の吸い込み仕掛けとコイ釣り用の練り餌でクロダイ狙ってるんだ」
仕事でコイ釣りができない先生は、海の魚に慰めてもらっているようです。
川釣りには滅多に行けないはずなのに、なぜかいつもハチミツ臭がする謎が解明しました。
「うわ悲しい!」
夏休みでも休めない高校教師にはなりたくないなと八尋は思いました。
「本当は川辺で数日かけてコイ釣りしてぇんだろうけど……まあ無理だよなぁ」
「職業選択間違えちゃったんだね~」
磯鶴高校釣り研究部の四人と陸野女子高校海釣り研究会の二人は、姫路先生の邪魔をしないように、そ~っと後ろを通過します。
「……あれもう夢しか釣れないんじゃない?」
五メートル近くもあるコイ釣り用の長い長い釣り竿で、堤防際を無理矢理攻める姫路先生の後ろ姿が、八尋の目に焼きついて離れません。
「いや、クロダイはそうそう釣れる魚じゃねぇが、あいつ結構なんでも食うんだ」
「コイ用の餌でも?」
「そんなに変わりゃしねぇよ。たぶん釣れる時は釣れる」
「お芋も食べますからね。トウモロコシも大好きですし、スイカでも釣れます」
小夜理が歩の意見に同意しました。
「悪食だからなぁ。それにクロダイ用のダンゴ釣り仕掛けと原理は大して変わらねぇ」
クロダイ用のダンゴ釣り仕掛けは、練り餌の中に食わせ餌を仕掛けますが、コイ用の吸い込み仕掛けは、食わせ餌を練り餌団子の外側に置きます。
ダンゴ釣りの場合、練り餌が溶けきると、ウキの浮力で中の食わせ餌が飛び出す仕掛け。
「ひょっとしたらスレた大物がかかるかもしれませんよ?」
クロダイ用の餌に慣れたクロダイが、ハチミツを珍しがって食いつくかもしれません。
「ただし先生は、たまにボイリー使ってる」
ボイリーとは練り餌に卵を混ぜて茹で固めた、イギリス発祥のコイ釣り専用餌です。
ビー玉くらいのサイズで、外道(狙いから外れた小魚)には食べられない硬度を誇りますが……。
「あれを食える魚って、そんなにいねぇと思うんだよなぁ……」
「そうでもありませんよ。クロダイは貝類も食べますし、口が大きいカサゴやムラソイなら食べるかもしれません。でも……」
練り餌に比べて水に溶けにくいボイリーの集魚力で、果たして本当に釣れるかどうか。
堤防際には他にいくらでも食べ物があるので、それらを超えるアピール力が必要なのです。
「でも、いま使っているのがボイリーでなければ、メジナくらいは釣れるかもしれませんね。コイ用エサのハチミツはアピール力が絶大ですから、なにが釣れても不思議はありません」
「賭けるかぁ?」
「数ですか? それとも種類?」
「釣れるかボウズかだ」
ボウズは釣果なしを指す釣り用語です。
「では釣れる方に」
「きっと釣れるよ~」
「釣れたらいいと思うな」
「なんてこった俺もだぁ」
オッズが成立しませんでした。
「コイ釣りもいいなあっ!」
百華が川釣りの暗黒面に惹かれつつあるようです。
「ちょっとやめてください! 海釣り研究会が私一人になったら廃部ですよ廃部!」
藍子は暗黒面に恐怖しました。
「海釣り研究会と川釣り研究部って仲悪いの?」
八尋は二つの部が合併すれば、部費や道具が使えるんじゃないかと思いました。
実際、釣り研究部のメンバーは、堤防釣りでルアー釣り用のバスロッドを愛用しています。
姫路先生の鯉竿だって、投げ釣りや磯釣りに流用できるかもしれません。
「仲悪いっつーか、分裂したんよ」
急に顔色を変える百華。
「川派と海派に?」
確かに海の魚と川魚では匂いが全然違います。
先日、歩から思い出話で川釣りの話をしてもらったばかりです。
どっちも面白いけど、まったくの別物。
きっと両派の間には、深くて暗い川があるに違いありません。
「前の部長がシーバス至上主義で、みんな反発してバス釣りに行っちゃったんです。私たちは海釣り研究会が部員ゼロで廃部同然なのを知らずに入部届を……」
藍子が重苦しく語ります。
「前部長は、学校が許可する訳もない夜釣りに拘ったとか、ルアーや釣り糸の色がどうとかうるさかったとか、入部したあとになってから噂を聞きました」
「しかも当の本人は分裂したとたん三年生になって引退しちゃったしねっ! 無責任にもほどがあるよっ!」
そして同級生の勧誘に失敗して、いまに至る。
「……それでお二人は、普段はなにを釣っていらっしゃるんですか?」
重苦しくなった雰囲気をどうにかしようと、小夜理が全力で話題を逸らしにかかります。
「ウミタナゴとハゼです」
「おおっ!」
小物のチョンチョンした魚信が大好きな歩が食いつきました。
「いいじゃねぇか! ハゼは旨ぇし、春のタナゴは結構でっかくなるしなぁ!」
たまに二十五センチ以上でチダイ(ハナダイ)ほどもある大物がかかりますし、なによりお腹の稚魚は塩辛にすると絶品です。
稚魚を食べるのが嫌なら。親魚のお腹を搾って中身を放流するのも一手。
「……それしか釣れないんです」
「……………………へっ⁉」
「遠投できればマコガレイとかイシモチとか釣れるけど、長い竿がないから堤防際の小魚しか釣れないんだよっ!」
百華が藍子のリュックの横についているロッドケースを開いて中身を見せました。
「振り出し式のバスロッドしかねぇ……」
リュックの中には、きっと超小型リールしか入っていません。
「自前です」
「まあ、ぼくたちも竿は自前で買ったものだし……」
部室小屋には、旧式ながらも竿とリールは一通り揃っていますが、やはり自分の竿で釣るのが一番です。
なにより自分の力で釣った感があります。
「……自前の道具しかないんです」
「部費が欲しいよーっ! 部室が欲しいよーっ!」
とうとう百華が泣き出してしまいました。
「うちの部って恵まれてたんだ……」
八尋も思わずもらい泣きです。