断章・その四
『極微速前進に減速、これより補助浮揚機関を始動、本艦停止後、垂直着水に入る。総員、衝撃に備えよ』
蕃神用食堂兼会議室の艦内放送が、目的地への到着を告げています。
「それで八尋は格納庫へ行ったのか?」
「行ったと思いますが……たぶん宝利さんは羅針艦橋でしょうね」
どうにか船酔いが治まって食堂まで帰ってきた小夜理が、歩の質問に答えます。
月長が減速を始めた以上、魔海対策庁の次官で釣行責任者の宝利命が、入港時の艦橋にいない訳がありません。
少なくとも艦橋に向かっている最中のはず。
「八尋~、会えたかな~? ちゃんと謝れたかな~?」
風子は眠っている簗の頬をツンツンしながら、本気で八尋を心配しているのか疑問に感じる口調でいいました。
「すれ違いにならなきゃいぃんだけどなぁ……うわっち!」
月長がまた揺れました。
「うぇっぷ⁉」
小夜理が馬穴を抱えます。
「この艦、さっきから妙に揺れるんだよなぁ」
悪樓釣りが始まるまでは、静かに航行できていたはず。
それが魔海釣行を釣果ゼロで終えて帰路についた途端、五分か十分くらいの間隔で、いきなり方向転換するようになったのです。
もちろん総舵手が当て舵で対応しますが、それが返って縦揺れと横揺れを酷くしていました。
「さっき……うぷっ、げっぷ、先ほど通路で玉網さんに出くわした時に聞いたんですけど……揺れないはずの新型機関が、今日に限って暴走するとか……ぐぅえっぷ」
「ダメじゃん新型~」
「ああなるほど、なんとなくわかったぜ」
「なにが~?」
「月長は推進・浮揚両用機関に、回遊魚の小型宝珠を大量に使ってる。つまりこの艦は魚群そのものだ」
「そっか~、足並みが揃わないとダメなんだね~」
「回遊魚の群れは、先頭のリーダー格さえコントロールできりゃ安定するはずだ。ただし小魚は臆病だから、僅かな刺激に反応して向きを変えたり、離散と合流を繰り返す」
「臆病……艦が怯えている……んですか? なにに?」
揺れが収まって小夜理の容態が安定してきました。
「風子はさっきの事情聴取で聞いたよなぁ。たぶんアレがついてきてる」
簗が遭遇し、八尋とヒラさんが話をつけた黄銅の龍。
龍は八尋とヒラさんに、自分の分身を簗の傍に置くといっていました。
「レンさんだっけ~?」
「こっちにゃお気に入りの坊やが乗ってるからなぁ。独角仙にゃ行かねぇだろ」
宝珠の回遊魚たちは、月長を尾行する龍の分身に気づいていたのです。
「簗くんが~、どこに落ち着くか~、様子を見てるのかな~?」
「それで、どうす……げっぷ」
吐き気は収まったもののゲップが出る小夜理。
その場にいなかったメンバーも、聴取の概要は歩からの又聞きで知っています。
「様子を見るしかねぇ。だがおそらく……」
ゴォン!
艦体になにか硬いものが当たる音がしました。
同時に月長が猛烈に暴れます。
「うぉわっ!」
「うげぇぼがぼぐぼぁ!」
「わっひゃ~!」
「な、なんですかこれ⁉」
「なんかあったのっ?」
衝撃で藍子と百華も目覚めた様子。
「早速きやがったぜぇ!」
「さよちゃん放しちゃダメ~!」
風子が小夜理の手から滑り落ちた馬穴(中身入り)を、危ういタイミングでキャッチしました。
「やべぇ事になってなきゃいいんだけどなぁ」
すでに月長は減速を終え、微速前進中。
甲板に出ても吹き飛ばされる心配はありません。
後部水密扉を開いて後甲板に飛び出す歩。
「……ありゃ?」
しかし艦の周辺には、なにもいませんでした。
「あゆちゃんハズレ~」
風子は水密扉の脇にかけてあった双眼鏡を持ち出し、覗いてキョロキョロしています。
「変だなぁ。じゃあなんで月長が暴れたんだぁ?」
歩は冷房の効いた室内に戻ろうと思い、踵を返すと……。
「……こんなのあったっけ?」
出入口の上に、真鍮の浮彫細工が貼りついていました。
「あっちにもあるよ~。わあこっちにも~」
艦上構造物のあちこちに、見覚えのないパーツが付加されています。
そしておそらく艦体にも。
「真っ新な月長をゴテゴテに飾りやがってぇ……」
純白の艦体に真鍮の浮彫細工。
「成金趣味か!」
また月長が揺れました。
機関の不調や暴走ではなく、着水が始まったのです。
「うぉっとっと……」
歩は神力で足の裏を甲板に固着させ、扉に手をかけて転倒を防ぎます。
風子は水密扉の枠に掴まって耐えました。
「おおっ、着いたみてぇだな!」
「いままで陸は~、江政と~、なのりそ庵しか見てなかったから~、新鮮だね~」
魔海対策庁仮本庁舎兼本部棟の安っぽい浮桟橋と違って、周囲が丘と崖に囲まれた入り江に作られた、小なりとも本格的な波止場。
根魚がいくらでも釣れそうです。
「あれが昂州支局かな~? 崖の上にあるね~」
波止場には月長以外の船舶がなく、建築物も一つあるのみ。
「魔海対策庁昂州支局棟【あまも亭】だぁ」
オンボロ旅館でした。
「あれ? 渕沼さんは?」
室内に戻ると、藍子が小夜理を探しています。
「またトイレに行っちゃったみたいだねっ!」
馬穴の処理に向かったのでしょう。
「簗くんもいないよ~」
いつの間に目を覚ましたのやら。
「どうせ八尋を探してるんだろ。あいつ鼻が利きそうだから」
「なついてたもんね~」
「じゃあ艦橋あたりかなっ?」
「簗と八尋は、宝利さんとタモさんに任せときゃ心配ねぇ。もうすぐ下艦だし、甲板から前檣楼に行こうぜ」
三人は冷房に未練を残しつつ、食堂を出てトイレに向かうと……。
「やはり、こちらにおいででしたか。舷梯の準備が整いました。八尋様は先に下艦しております」
「やっぱり簗くんと一緒~?」
「宝利もついております」
「そっか、仲直りできたんだな」
「ところでたまちゃん~、あれ気づいてる~?」
風子は羅針艦橋の外板に貼りついた、真鍮の浮彫細工を指差しました。
「もちろんです。ただいま調査中ですが、どうやら艦内にはいないようですね」
八尋の記憶からプライバシーの概念を知ったのか、レンは月長の外側にしか分身を配置していない模様。
「トイレにはいませんでしたよ」
蕃神用厠で馬穴を洗ってきた小夜理が合流しました。
すでに予想していたのか、真鍮細工の存在と正体の説明は必要なさそうです。
それは玉網媛たち皇族も同様でした。
「うーん、とりあえず下艦すっか。どうせ俺たちにゃなんもできねぇし」
「おとなしく貼りついたままでいてくれると、信じるしかありませんね」
玉網媛はレンを、ヒラさんよりマシと認識したようです。
なにせ多少の揺れと衝撃があっただけで、月長のどこも壊していないのですから。
「あれ~? なにか騒いでるみたいだよ~?」
舷梯を下りた桟橋の先、月長の艦首あたりで、簗が大声で叫んでいるようです。
「なぁんか嫌な予感がするぜ……」
「私は素敵な予感がします」
歩と小夜理は正反対の印象を受けた模様。
「行ってみようよっ!」
「宝利さんは落ち着いてるようですね。大事ではなさそう」
百華と藍子は舷門を抜けて舷梯を下り始めました。
残された釣り研究部の三人も駆け出します。
そして桟橋を走って近づいてみると……。
「見ないで――――っ!」
可愛らしく両手をフリフリしながら叫ぶ、簗の姿がありました。
もちろん誰も聞いちゃいません。
宝利はもちろん八尋までもが月長の舳先を見上げて、ポカンと大口を開けています。
「なんだぁこれ」
歩も開いた口が塞がりません。
「船首像みたいですね」
小夜理は頬をほんのり染めています。
「簗くんにそっくりだね~」
つまり八尋にも似ている訳で。
「裸だよっ! すっごく可愛いねっ!」
陸野女子高校海釣り研究会の二人も大喜び。
「ほぼ実物大ですね」
月長の舳先には、真鍮の船首像が鎮座していました。
全裸の簗を模したそれは、周囲を球体で飾り立てられています。
おそらくレンの球状総合感覚器官でしょう。
「はいアウトォ――――ッ‼」
股間が丸出しでした。
「うっわ~、すっごいプルプル感~」
「ちっちゃいっ! ナマコみたいだねっ!」
堤防でよく釣れるコンパクトサイズ。
手に乗せると、時々ピューッと潮を吹きます(注・ナマコの話です)。
「毛が生えてねぇ……まぁ当然だけど」
簗はまだ満十歳です。
「だから見ないでよ――――っ‼」
簗は歩の前にきてピョンピョン飛び跳ねながら手を振りますが、四十センチ以上も身長差があるせいで、まったく効果がありません。
「これは……」
玉網媛も、ただただ茫然とするばかり。
「姉上、これで簗を手放せなくなってしもうたな」
月長の象徴になった以上、魔海釣行のたびに月長に乗せないと、本庁と本局の面目が立ちません。
「でもアレはちょっと……」
真鍮の船首像はフルチンです。
「模特児が童なら問題あるまい。芸術扱いで誤魔化そう」
背後で月長の士官さんが大勢集まって、写真を撮っていました。
ロウニンアジ悪樓のせいで難破船の撮影が中断されたので、中途半端に消費した感光膜を使い切るまで続きます。
……あっ、いま感光膜容器(フィルムカートリッジ)を交換しました!
本部と政府広報に送る写真を増量するようです!
きっと明日の朝刊は、簗の裸体が一面トップです!
「んにゃ――――っ⁉」