第四章・LINDORM・その六
「寝ろっていわれると眠れないもんだよね」
八尋は蕃神用食堂兼会議室の壁に凭れて、ボ~ッとしていました。
膝には、まだスヤスヤと寝息を立てている簗が。
他の釣り研部員たちは陸野女子高校海釣り研究会部員を加え、室内に冷房が効いているのをいい事に、畳の上で毛布を被り、丸めた座布団を枕に雑魚寝しています。
歩は簗の頭に顔を突っ込み、時おりピコピコ動くネコミミの狭間で、お日様の匂いを嗅ぎながら。
百華は部屋の反対側でお行儀よく、藍子は座布団と毛布を置いてゴロゴロと隅まで転がって行きました。
風子はお膳の下で大の字になって寝ています。
玉網媛は神官長室で、なのりそ庵に送る書類を作成中。
宝利命はたぶん羅針艦橋。
「あれ? 小夜理さんは……トイレだよねやっぱり」
寝っ転がって船酔いを悪化させたに違いありません。
「ぼくもトイレ……」
簗の頭を歩の巨乳に預けて立ち上がりました。
「しししし痺れてる……‼」
四つん這いで耐え凌ぎ、艦内用の帆布靴を履いてヨタヨタと階段に向かいます。
蕃神用食堂兼会議室は半和室仕様で、中央には三和土を兼ねたリノリュームの通路が前後に走り、両端に水密扉が設けられていました。
通路の左右は畳敷きの小上がりになっています。
右舷側は歩と簗が。
左舷側は風子と藍子と百華が。
その間を、そろりそろりと通り抜け、前部水密扉の左舷側にある傾斜梯子を下りると、軍用艦にしては狭すぎる艦内通路に出ました。
蕃神と皇族しか通行を許されていない専用通路です。
停泊中あるいは微速前進中なら上甲板を使うところですが、いまの月長は魔海対策庁昂州支部に向かって時速百キロ弱で巡航中。
水密扉を開けた瞬間に吹き飛ばされてしまうので、艦内放送があるまで艦外には絶対に出るなと、歩に厳命されています。
「女子トイレが艦橋にしかないのは不便だよね」
後檣楼の、蕃神専用食堂兼会議室のすぐ隣にも厠は存在しますが、乗組員が使う男子便所と、神官用の女子便所のみ。
元は男子といっても、いまの八尋は女子なので、乗組員のいる区画と重なっていない通路で、できれば前檣楼の根本左舷側にある蕃神用厠に行けと、玉網媛にいわれていました。
神官用厠は、あくまで非常用。
いまは玉網媛しか神官がいないので、鉢合わせさえしなければ行ってもいいとは思いますが、そこまで切羽詰まっているわけではないので、素直に蕃神用厠に行く事にしました。
おそらく小夜理がいるでしょうが、その時はその時です。
「……わわっ!」
月長は機関に欠陥を抱えているせいか、時たま揺れます。
おかげで小夜理は船酔いでフラフラ、お茶を飲んでは吐いてを繰り返し、なかなか厠から離れなれません。
「そういえば、こっちの世界でトイレに行くのは初めてだね」
八尋の召喚から帰還までの最長記録は、誘拐事件の日で約十六時間。
胃腸になにも入っていない状態で召喚され、六時間くらいは食欲が湧きません。
小食な八尋を基準にしているので、他の蕃神たちはどうか知りませんが、少なくとも三時間以上は、なにも食べなくても大丈夫なはず。
当然ながら、排便も遅れる訳で……。
「大きい方は、たぶん一日以上いないと出ないはずだけど、オシッコは我慢できないよ」
水分を採ろうが採るまいが、人間の体は血液中の老廃物を排出するようにできているのです。
「たぶん事情聴取の時に、お茶を飲んだせいだ」
寝惚け頭でボンヤリしながら通路脇の水密扉を開けると……。
「ふんっ! むぅんっ!」
褌一丁の宝利命が、逆立ちしながら片手で腕立て伏せをしていました。
「わあしまったここ格納庫だ!」
蕃神たちを伝馬船に乗せる事があるので、専用通路は厠だけでなく、格納庫にも通じていたのです。
「背中バリバリ! バルクが凄いよ! 僧帽筋が並じゃない!」
思わず声援を送ってしまいました。
「……八尋か⁉」
普段なら気配で気づかれるところですが、宝利命は空いた左手で本を読んでいたようです。
「あっ……ごめん、道を間違えちゃったんだ」
周囲を見回すと、他の乗組員は出払っている模様。
「むうっ、そうか。それは失敬」
「気にしないで続けて。ぼくは男だからフンドシくらい平気だよ」
まるで説得力がありません。
「いまは女子であろうが。少しは警戒せよ」
「えっ? 宝利は危ない人じゃないよ?」
八尋には女子の自覚が足りないようです。
「異性……いや、男子はみな獣と思え。八尋の場合は女子も危うい」
八尋には神力や根性の足りない弥祖皇国の人間を誘惑する、魅了の魔性があるので、どんなトラブルが起こるか見当もつきません。
抄網媛の前例(というか前科)があるので、相手の性別は関係なし。
クラスメイトなら、せいぜい集団で抱きしめられたり、頭を撫でられたりするだけでしょうが、あいにく女っ気のない航海中の海軍さんは、精力が溜まりに溜まって青〇玉と呼ばれる爆発寸前状態になるほど女性に飢えています。
きっと性犯罪未遂が起こってヒラさんが怒って月長は大破。
玉網媛が頭を抱える程度で済めばいいのですが……。
「……ところで、なに読んでるの?」
「国家資格の教本だ」
宝利命は片手腕立て伏せをしつつ、八尋に背中を向けながら答えます。
「吾輩は士官学校や海洋大に行けぬ身でな。航海士の資格を得るには試験に合格せねばならぬのだ」
宝利命は皇族なので、海軍に入ると即座に出世の兆速スキップコースに入ってしまい、本土に閉じ込められて艦船勤務に出られません。
魔海対策庁の次官にされてしまったので、しばらく大学には行けそうにありません。
普通なら、そこで艦長への道は閉ざされてしまうところですが、従伯父で主席宰相の柑子寛輔が先日、五年前からの懸案事項だった巻網媛絡みの騒動解決に対する報酬と贖罪のために、特例を出してくれたのです。
ただし資格試験は二級から、しかも一発合格。
それが条件でした。
「海軍の艦長や民間船舶の船長が夢であったが潰えてしもうた。だが、まだ魔海対策庁の釣行艦が残っておる」
月長の艦長さんは臨時で玉髄の艦長さんが代行していますが、ご高齢でとっくに定年を過ぎ、来月には退職が決まっています。
次期艦長は玉髄の副長さん。
もうすぐ改装が終わって国海軍から魔海対策庁への移籍が決まっている翡翠の艦長さんは、いまは醒州への売却が決まっている仏法僧の艦長代理を務めていますが、月長の艦長さんほどではないものの、やはり定年スレスレのご高齢。
そして魔海対策庁の釣行艦は人員の移り変わりが激しいので、すでに経験を積んでいる宝利命が免許を持てば、艦長への道が開けます。
次の次の次の次くらいには。
もともと十年二十年かけるつもりたっので、決して長い道のりとはいえません。
「宝利、艦長さんになりたいんだ。お船から離れられないんだね」
「数えで十二の頃から乗っておるからな。それに軍人でさえなければ、船乗りにとって釣行艦は魅力的だ」
宝利は教本を右手に持ち替えて腕立て伏せを続けます。
「魔海釣行や訓練航海がない日は半舷上陸。幾月もかかる長期航海もない」
「それでも軍人さんは嫌がるの?」
「士官が出世できぬからな。しかし近隣に家族がおる水兵や下士官は長居するようだ」
その家族を本庁舎(仮)の近くに転居させる乗組員もいます。
「…………………………………………」
「…………………………………………」
話題が尽きて、しばしの沈黙。
「ところで宝利、この前の話なんだけど……」
八尋は迷ったあげく、忘れようと思っていたプロポーズ問題を蒸し返しました。
先日はヒラさんの機転で突然帰れてしまったので、そのまま有耶無耶にしてもよかったのですが、やはりちゃんと断らないといけない気がしたのです。
「あの、プロポーズ……」
「うむ……あれか。あれは吾輩が先走ってしもうただけだ。気にするな」
「先走った⁉」
「帰れる場所があるなら、帰った方がよいに決まっておる」
五年前の件で、柑子運通大臣(当時)の裏工作で弥祖皇国から海外へと追い出されるように外遊させられた、宝利命ならではの所見です。
「ぼくが帰れなくなったからプロポーズしたの……?」
「ん? うむ、そうだが……」
「同情で結婚するつもりだったの?」
「それは違うぞ八尋! 吾輩は……」
教本を放り出して、逆立ちしたまま振り向く宝利。
長い黒髪が邪魔をしますが、どうにか隙間から八尋の顔が見えました、
「お情けだったんだ……‼」
涙でグショグショになっていました。
八尋は踵を返して走り出します。
「待て八尋! まだ話が……‼」
宝利が逆立ちをやめた時、八尋の姿は蕃神用通路に消えていました。
あとにはカンカンと鉄の床を踏む音が聞こえるばかり。
「八尋ぉ――――っ!」
宝利は追えませんでした。
さすがに全身汗だくの褌一丁で女の子を追いかけ回すのは憚られます。
そして八尋にも待てない事情がありました。
オシッコを我慢しすぎて、いまにも膀胱が破裂しそうだったのです。