第二章・難破船・その三
歩たちが月長の上甲板でワイワイやっていた頃、見様見真似で巫女服を着込んで、こっそりと脱衣所を抜け出した稲庭風子は、前檣楼を歩いていました。
艦橋にお邪魔していたのではありません。
神力で支柱や装甲板に足の裏を貼りつかせ、垂直に歩いて登っています。
跳躍も考えましたが、微速とはいえ航行中なので、安全な徒歩を選びました。
どこぞの無駄無駄吸血鬼よろしく壁や柱を歩くのはJKとしてどうかと思いますが、どうせ誰も見ていないと風子は高を括ります。
皇族以外は蕃神との会話を禁じられているため、艦橋など航行に最低限必要な部署を除けば、乗組員の大半が目立たない場所でお仕事中。
つまり艦長さんや士官さんたちのいる羅針艦橋にさえ近づかなければ、吹き曝しの階層は無人になっている訳で……。
「おお~っ!」
架台に据えられズラリと並んだ大型の双眼望遠鏡や対空機銃が眺め放題。
風子は軍オタではありませんが、戦艦三笠やカーフェリーなど、現代日本の船舶では見られない数々《かずかず》の機械類に興味津々《きょうみしんしん》です。
そして飽きたら移動。
もっと上へ、もっと上へ。
月長の仏塔檣楼は構造が複雑怪奇なので、オーバーハングは両手両足を使ったクモ男方式で、時には手だけでぶら下がり登攀します。
蕃神の神力は壁に手足を貼りつかせるだけでなく、重力にも逆らえるので、風子の筋力でも楽々登れました。
時たま海風で飛ばされそうになりますが、たとえ落ちても下は海。
落下は神力で減速できますし、たとえ遭難しても、神気の探知が得意な玉網媛が見つけてくれるので安心です。
「登頂~っ!」
最上階の防空指揮所に出ると、目の前に巨大な測距儀がありました。
「誰もいないよね~?」
一目で精密光学機器と察して触れないのは、要領のいい風子ならではの慎重さによるものです。
『おぉい! 風子そこにいるかぁ⁉』
呼ばれてキョロキョロ見渡すと、声の主は伝声管でした。
おそらく玉網媛が神力で風子の位置を探り、歩が最下層の装甲艦橋から連絡しているのでしょう。
「いないぞ~!」
バレバレの嘘を吐きました。
『そろそろ八尋の乗った艦がくるはずなんだぁ! そっちから見えねぇかぁ⁉』
「探してみる~!」
弟大好きお姉ちゃんの風子としては、八尋と聞いて黙ってなどいられません。
「どっち~?」
『左舷七時半! 高度は月長に合わせているはずだぁ!』
「おっけ~!」
軍事知識や船舶知識のない風子でも、七時半と聞けば簡単に理解できます。
手近な双眼望遠鏡を掴んで覗くと、しばらくして雲間から真っ黒な点が現れました。
「見つけた~!」
しかし歩の返答がありません。
「あれ~? もしも~し!」
「発見したか⁉ どこだ?」
傾斜梯子から歩たち五人が現れました。
「早かったね~」
「途中までエレベーター使ったからなぁ」
最上階までは行けないものの、月長の前檣楼には、中心を貫く昇降機が存在します。
四人乗りなので、馬穴の処理をしている小夜理だけ、あとからくる模様。
ゲ〇入り馬穴を持って狭い昇降機に入ったら大惨事ですから。
「どこだぁ⁉ 新しい欠陥艦艇!」
「どこどこっ⁉」
歩たちは装甲艦橋から持ち出したのか、双眼鏡を手にしていました。
「どこどこっ⁉」
百華はボケのつもりなのか、双眼鏡を逆さに持っています。
「あっち~」
風子が指差す先に、だいぶ大きくなった黒い点が。
「おおっ、凄ぇ!」
それは仏法僧型関安宅よりも小さな、しかも異様な風体の艦でした。
艦底部がぽっこり膨らんでいて、まるでゴムボートに乗っているか、あるいはサーフボードの上に貼りついているかのようです。
「魔海対策庁昂州支局の【独角仙】です。艦種は矢倉船……それ以上は聞かないでください」
玉網媛が解説するものの、詳しくは知らない模様。
「もう見つかっちゃいましたか⁉ どっちですか⁉」
お茶の入った水筒をグビグビ飲みながら小夜理が現れました。
しばらく吐かずに済みそうなのか、馬穴は持っていません。
「あっちです!」
藍子が指差す先に双眼鏡を向ける小夜理。
「……なんですかあれ? 軽空母でしょうか?」
暗緑色に塗装された独角仙は、小さな艦体に似合わぬ巨大な全通型の飛行甲板を背負うように装備していました。
弥祖皇国では航空機が発達する余地がなく、空飛ぶ小型竜宮船の伝馬船(内火艇に相当)を武装して、大型艦艇に大量搭載する計画が進んでいます。
【翡翠】や【月長】は、その過程で生まれたものでした。
「うぅん……ありゃ飛行甲板なんだろうけど格納庫がねぇぞ。たぶん離着艦の実験用装備だなぁ」
元々あった艦上構造物の上に無理矢理乗せた感じです。
「おい見ろ! 艦橋の前!」
飛行甲板の先端を帽子の鍔みたいに被った、輸送船のような横長の羅針艦橋の足元に、円盤状の巨大な鋼鉄の塊が、前甲板狭しとばかりに鎮座していました。
釣行艦の特徴である、主砲塔跡に唯一残された防盾の天板です。
「ちょっとあれ大きすぎません⁉」
小型巡洋艦クラスではありえない、仏法僧型関安宅の主砲塔にも匹敵する特大サイズ。
きっと改装前の姿は、とんでもない頭でっかちだったに違いありません。
「あれは……あれは日清戦争の悪夢……」
どうやら歩には思い当たる節があったようです。
「ああ、アレですか」
歩の影響で多少は軍用艦艇の知識を持つ小夜理も気づきました。
明治時代の大日本帝国海軍にも、似たような艦艇が存在したのです。
「三景艦だぁ‼」
松島型防護巡洋艦。
たかだか四千トンちょっと(主砲塔の重量込み)の小さな艦体に、戦艦用の三十二センチ砲を一門装備した、帝国海軍の暗黒面。
戦艦から主砲を流用するために生まれたような対地攻撃用のモニター艦に、無理矢理高出力の機関を装備して艦隊戦に参加させようと作られた珍品です。
もちろん巨砲の反動で艦は大揺れ、命中力はほぼ皆無。
おかげで自慢の主砲は役立たず。
副砲や補助砲の奮闘がなければ、産廃扱いになるところでした。
作ったのはフランスですが、無茶な注文をしたのは政府と海軍なので文句はいえません。
設計者はちゃんと忠告してくれました。
しかし当時の日本は港湾施設が発展途上で大型艦艇を収容できず、清国のドイツ製戦艦に対抗するには、小型艦に大型艦砲を搭載するしか選択肢がなかったのです。
しかも三隻も購入してしまいました。
艦名は日本三景から取って【松島】【厳島】【橋立】と、期待のほどが伺えます。
もちろん、その期待は木っ端微塵に粉砕されました。
「艦種はモニターだそうですし、本当に地上攻撃用かもしれませんよ?」
「それなら釣行艦にされたりしねぇで現役やってるはずだろ。ここの海軍は艦隊戦しか考えてなかったんじゃねぇかな?」
どうせ歴代蕃神たちの誰かが大艦巨砲主義を吹き込んだに決まっています。
「三景艦って防盾ありましたっけ?」
独角仙の祭儀室天板は、月長の中間砲塔くらいのサイズがあります。
「確か露砲塔(砲が装甲に覆われていない剥き出しの砲塔)だったと思うけど、どっかから流用したんじゃね?」
もしくは射撃時の爆風から砲と砲手を守る薄い装甲カバーに囲まれていたとか。
しかし防御力がないと悪樓釣りに支障をきたすので、いま装備されているのが重装甲なのは確実です。
「それに、あの飛行甲板も装甲化しているんじゃないでしょうか?」
かなりのトップヘビー(高重心)ですが、広い艦底部で左右のバランスは取れそうな気がします。
ただし艦尾より長い飛行甲板と、主砲塔を失った分だけ前部が軽くなっているせいで、重心がお尻に偏っているかもしれません。
「まあ大丈夫だろ。浮揚機関でバランスくれぇ取れるはずだ」
「だといいんですけど……」
浮揚機関の出力が傾斜の抑制で精一杯だとすると、上下移動は苦手な可能性があります。
きっと酷いクセがあるに決まっています。
「なんかピントずれてきた~! ボケボケで甲板が見えないよ~」
風子が双眼望遠鏡のダイヤルを適当に弄り回しているうちに調整が狂い、なにも見えなくなってしまいました。
「もう肉眼で見えるぜ。風子は視力いくつだぁ?」
「一・五~」
「そりゃ凄ぇ」
望遠鏡から目を離すと、独角仙はもう月長のすぐ傍まできていました。
そして前甲板で鎖錨車に掴まりながら、片手をピコピコ振るキュートな双子の弟が。
「八尋やっほ~!」
風子に腰の小型通信機を使うという発想はありませんでした。
「おおっ、なんか増えてるぜぇ!」
八尋の隣で、サバ柄頭の小さな男の子が尻尾をパタパタ振っています。
「可愛い子ですね。八尋くんには及びませんけど」
「違ぇねぇ」
視力のいい風子以外の蕃神たちは、ラブリーな少年たちを見ようと双眼鏡を手離せません。
「ええっ⁉ ホントだカワイイっ!」
逆さだった双眼鏡をひっくり返した百華が、美少年ユニットを組んだショタ坊や二人に狂喜しています。
「まだ説明の途中で訳わからないんですが……可愛いですね」
藍子も同意しました。
異世界や悪樓釣りの説明をすっかり忘れ、定番の台詞である『まさか魔王を倒せとか』が出てきません。
「おそらく又従弟の簗でしょう。今年で満十歳になったと聞いております」
双眼鏡を持ってきていない玉網媛が察して紹介します。
「何年か前にお会いしましたが、実に純真で可愛げのある幼子でした」
満場一致で可愛い認定されました。
「二人纏めてモフりてぇ……」
歩が空いている左手をワキワキさせています。
「セクハラしたら殴りますからね」
すかさず懐からお玉を取り出す小夜理。
「みんなでモフればいいんだよっ!」
百華がとんでもない提案をしました。
「いけない事とは知っていますが……あれは抱きしめずにはいられませんね」
藍子まで賛同の意を示します。
「あまりご無体はせぬよう……」
無類の女好きであると同時に稚児趣味まで患っている抄網媛が、巻網媛の補佐として、なのりそ庵に残っているのを、海神様に感謝する玉網媛でした。